四章 世界の秘密と


『戦う理由か……成り行きだな』


 カイロウは、少し考えてそう答えた。


 高い吹き抜けが眩しい自治区行政センターのロビー。ニルヤたちが先に帰ってからだいぶ経っても、まだ僕たちの順番は来ていなかった。懸賞金付き手配犯の逮捕証明書がなぜ未だに電子化されていないのか、僕にはわからない。


『別の職業に就くつもりが冒険者に寄り道して、惰性で続けている。考えてみればそれだけだ』


 へぇ、と。僕は相づちを打つ。

 カイロウは、僕たちの中で一番冒険者歴が長かった。たぶん一番実力があったのもカイロウだ。一時期には、かなりの高レベルパーティにいたこともあったらしい。前衛の盾役タンク職である〈騎士ナイト〉職は、危険の高さからなり手が少なく、求められやすい人材ではあるものの、それを考えてもすごいことだった。この日の賞金首捕縛だって、ほとんどカイロウの手柄みたいなものだ。


 大柄なカイロウは、役所の待合椅子で窮屈そうだった。

 高機動鎧や武器を展開する六機のドローン型端末、ストリング・クローサーも、大きな保管ケースに収納し、それもまた邪魔そうだ。じゃんけんに負けた僕に付き合ってもらっていることを少し申し訳なく思う。


 別の職業って? 僕が訊くと、カイロウは少し躊躇った後、口を開く。


『刑事だ。……その、親が中央の刑事でな。養育家庭の、単なる育ての親だが……俺の目標だった。当然のように、将来は刑事になると思っていた。進路も早くからそれに合わせて選んだくらいだ』


 どうしてそれが冒険者になんて? 僕は訊ねる。ある意味真逆じゃ?


『互いに嫌っているという意味では真逆だろうな。冒険者はよくも悪くも秩序がなく、問題も起こす。だが、重なるところもある。冒険者だって人々の生活を守っているからな』


 確かにそうだった。賞金首を狙う冒険者は多くの都市国家で警察機関に疎まれるが、捜査に人員を割けない人手不足の問題を解消している。害獣駆除や要人警護だって人助けだ。


『もしかすると、俺は刑事ではなく、ただ正義の味方になりたかっただけかもしれんな』


 カイロウは僕の視線に気づくと、誤魔化すように咳払いした。


『わかっているだろうが、あまり言いふらすなよ。こんなこと』


 僕は笑って了承し、次いで、気になっていたことを訊ねた。冒険者をやめて、刑事になることは考えているのか、と。

 カイロウは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに首を横に振る。


『そのつもりはない。さっきは惰性と言ったが、冒険者は俺の性に合っているからな。当分は隊長のパーティに世話になる』


 僕はほっとした。

 誰であれ、ニルヤのパーティから抜けて欲しくはなかったから。



 カイロウは三番目に死んだ。

 ストリング・クローサーにも、エコーと同じ量子的危機予測の魔法陣が内蔵されていた。だから、たぶんある程度の確率で、カイロウは自分の死期を悟っていたのだと思う。


 カイロウは軍用竜の吐く自己着火性反応ハイパーゴリックの火炎を、ストリングの展開した大盾で受けた。避けることはできなかったのだ。火炎の先には、体勢の崩れたニルヤと、僕がいたから。


 たとえその直後、続く爪の一撃で、命を落とすことになるとしても。


 攻撃を受けるのが、仲間を守るのが盾役タンクの仕事だと、そう言う人もいる。でもたぶん、カイロウはそんな常識ではなく、自分の信念に従って炎を受けたのだと、僕は思う。


 カイロウは、そうして死んだ。

 パーティは、僕とニルヤの二人だけになった。



 ◆ ◆ ◆



 僕は街路に石造りの軒下を見つけると、周りと比べて少しだけ静かそうなそこに逃げ込み、一息つく。


「大変だったみたいですね」

「おわっ、シーズニア!? や、やっと見つけた……」


 僕は大きく息を吐いた。


「どこ行ってたんだよ……勝手にいなくなって、僕がどれだけ探したか。人が多すぎてエコーも全然役に立たないし……」

「いなくなったのはケイの方でしょう。はい」


 そう言って羊肉の串焼きを手渡される。僕は無言で受け取り、そのまま口に運んだ。少し筋張っているが、脂肪の甘みと岩塩の塩気が舌に馴染む。

 僕は目の前の通りを眺めた。様々な魔族がこれでもかとひしめき、賑やかな声響く街路を。


「……すごい人だ。もう四日目なのに」

「年に一度の祭典ですからね。まあ、祭典は他にもあるんですけどね」


 シーズニアは朗らかに言う。

 四日前には、まさかあれだけのことがあったにもかかわらず予定通りクルースト祭が行われるなんて思いもしなかった。さすがに一日目はほとんどが瓦礫の撤去に費やされたようだが、まだあちこちが惨憺たる有様だ。



「よくお祭り気分になれるな。家をなくした人もいるだろうに」

「幸いにも死人が出なかったことが大きいでしょうね。クルーストは住居に余裕がありますし、今は公堂を臨時の宿泊場所として解放しています。あと、けっこうな額の復興支援金と見舞金が出ますから、お祭り気分にもなるでしょう」

「どこから出るの? それ」

「まず魔王国の国庫ですね。本来は軍も派遣されるのですが、今は戦時中ですので多めの支援金だけです。あとは各種族の有力者や大規模な都市。でも、一番額が大きいのは私ですね」

「え?」

「見舞金の名目で全市民に配っていますので」


 シーズニアは薄い笑みを浮かべて言う。


「そうでもしないと、嫌われてしまうでしょう?」

「ああ、そういう……というかシーズニア、そんなにお金持ってたんだ」

「追放されていたとはいえ王族ですからね。一番大きいのは先代魔王の築いた財ですが」


 ふうん。僕が短く相づちを打つと、シーズニアは楽しげに言う。


「でもそのおかげで、祭典はちゃんと行うことができました。ケイももっと早く元気になっていればたくさん楽しめたでしょうに」

「無茶言うなよ」


 昨日まで寝込む程度で回復できたのは奇跡だ。

 感覚優先度を戻したとたん悲鳴を上げて動けなくなった僕を、シーズニアも最初は心配していたようだったが、今ではもうこの調子だった。


「それに、僕は今日だけで十分だよ。騒がしいの苦手だから」

「たしかに、あまりケイが馬鹿騒ぎする姿は想像できませんね」


 シーズニアは、そう言って小さく笑った。

 二人で街を眺める。

 ふと、沈黙が訪れた。

 喧噪の中でそれは、妙に浮き彫りになっているように感じる。


「……シーズニアは」

「はい」

「シーズニアは、どうして魔王でいるんだ?」


 自然と口をついて出たのは、そんな問いだった。

 どうしてかはわからない。

 でも、あの勇者がきっかけだったのは確かだろうと思った。


「けっこう長くなりますよ」


 シーズニアはなんでもないように言う。


「いいよ」


 僕がそう答えると、シーズニアは背を預けていた壁から離れ、歩き出す。

 そして、僕を振り返って言った。


「では、少し付き合ってください」



 ◆ ◆ ◆



 そこは街の外れだった。

 山頂へと続く、切り立った巨大な崖の麓。このあたりにだけは城壁がない。クルーストは、この崖に寄り添うように造られた都市であるようだった。


 その崖に面して、小さな神殿、のようなものがあった。

 二つ並んだ円柱の柱、中央には青銅製の扉がある。厳かだが、簡素なものだ。


「この先です」


 シーズニアが扉を開け、僕を促す。素直に足を踏み入れると、ひんやりした空気が肌に触れた。シーズニアは自身も入ると、扉を閉める。

 真っ暗になり、なにも見えなくなる。


「ケイ」


 言わんとしていることを察し、僕は球形態のエコーに命じてライトを点灯する。

 岩肌の見える小部屋の内部と、その先の、闇へ降りていく階段が浮かび上がった。


「ここは?」

「なんと言えばいいのでしょうか……街の住民にも忘れられた、古びた社に近いですが、ここに神はいません。まあ実際に見ればわかります」


 シーズニアは歩き出し、階段を降りていく。僕もそれに続く。

 階段は、まっすぐに下へと続いていた。

 意外と広く、二人並んでもまだ余裕がある。


「私が生まれたとき、マグナメルジアはまだ王国でした。魔王ただ一人が支配する専制国家です。実態は各種族に自治が認められていましたが、少なくとも名目上はそうでした」


 シーズニアは静かに語り出す。


「大規模な蜂起によって国を打ち立てた初代魔王でしたが、八代目魔王以後の治世に大きな戦乱はなく、魔王たちは皆、人間国家と同じように、内政面に頭を悩ませるようになりました。街道や水道といった国家基盤インフラストラクチャーの整備、疫病や飢饉、自然災害への対処……などもありましたが」


 シーズニアはそこでいったん言葉を切る。


「これらはさほど重要ではありません。国家基盤は建国初期から重視され、他国と比較しても充実していましたし、疫病や自然災害も一時的なものです。最も困難で継続的だった問題は、貧困対策や治安維持、種族間格差や差別、それによる対立感情の緩和など、民に関わるものでした」


 まあそうだろうね、と僕は呟く。

 近代国家ですら、ごく最近まで頭を悩ませていた問題だ。


「歴代の魔王たちは、この問題に一般的な手法で臨みました。職の斡旋に賊や犯罪組織の掃討、税法改正に差別行為の取り締まりのような、です。有効な施策もあればまったくそうではないものもありましたが、考え方はどれも似たようなものでした。しかし、私の父……先代魔王のバルデキウスは、まったく別の視点から、この問題の解決を試みようとしたのです。それは世界を変革しうるものでした」

「世界を……?」


 僕が思わず呟くと、シーズニアが微笑む。


「ケイ。未来に、貧困や差別はありますか?」

「……ない、かな。少なくとも人が飢えて死ぬことはない。都市国家によっては思想の違いで少数派が排斥されることはあるけど、そういう人たちはそういう人たちが受け入れられる国に行くだけだ。移住のコストは国が負担する」

「争いはありますか?」

「個人の暴力はあるけど……戦争や紛争はないよ。もうずっと」

「では、その平和は、どうして実現できたのでしょう」


 僕は考え込む。

 移住や建国が自由な都市国家群という国家形態のおかげかと思ったが、すぐに否定する。同じことを旧世界ここではできまい。人々の意識、あるいは積み重ねた歴史……。


「……シーズニアは、どうしてだと思ってるんだ?」


 答えが出ず、僕は代わりにそう訊ねた。


「富、でしょう」


 シーズニアは、静かに答える。


「圧倒的な富。未来には膨大に存在し、今この時代には決定的に不足しているものです」

「富……って」

「具体的には食糧と燃料。そしてそれらを効率的に生産、輸送、保存、運用する知識と技術ですね」


 シーズニアの声に、次第に熱がこもる。


「すべての民が肥えてもまだ余るほどの膨大な食糧。寒さをしのぎ灯りを得るにとどまらず、奴隷の労働力を代替するほどの圧倒的な燃料。真の平和は、皆が満たされることで達成されるのです」


 あまりに単純な考えに思えて、僕は口を挟む。


「そう、かな……人はそう簡単に満たされないよ。僕の時代で言う一昔前、世界の全人口が飢えないほど食糧が作られるようになった時代でも、戦争はあった。富のほとんどは一部の国の、一部の人が消費してたよ。余った食べ物は捨てられてた。餓死者が出る中で」


 進んだ世界の、歴史を学んだ僕の言葉だったが、シーズニアはひるむ気配もない。


「いえもっと根本的な話なのですが……ではこう考えてみてください。ケイは手にしていたとても高価なイチジクを、子供に奪われたとします。取り返しますか?」

「まあ……取り返すかな」

「では同じものがその辺の木に、採り切れないほどなっているとしたらどうでしょう」

「……そりゃ放っておくけど」

「ほら、争いが回避されました」


 僕はいまいち納得できずに反駁する。


「いや、高価なイチジクがその辺の木になってる前提はずるいだろ。そもそも奪う価値すらなくなってるし」

「ええ、つまりそういうことです」


 シーズニアに言われ、僕は気づく。


「その程度の価値にしてしまうのです、食糧や燃料を。多量の生産によって。労せず手に入れられるものを巡って、人は争いません」

「……そしたら次は、労せず手に入れられないものを巡って争うだけじゃないか?」

「いいえ。腹を満たし火を点すことができれば、人は生きていけます。そして生きていれば必ず、失いたくないものが出てくる。自身の生命や他人とのつながり、もしくはそれ以外のもの。負ければそれを失うとなれば、些細なことのために争うことはできなくなる。これは争うことで期待できる利益と損失の問題です。人が損得で行動するなら、平和は数理によって得られる」

「それは……」

「机上の空論だと思いますか? ならば想像してみるといいでしょう。未来の世界で、富の量だけがこの時代の水準に戻ったとき、なにが起こるかを」


 僕は答えに窮した。

 容易に想像できたからだ。

 世界がかつてないほどの悲惨な状況に陥ることを。

 優れた社会制度も、人々が持つ共通の道徳的価値観も、きっと意味をなさない。世界は混沌に還るだろう。


「ケイの言う争いの時代は、きっと富の全体量が足りていなかったのでしょう。富がある程度偏在するのは仕方ないので、かろうじて全員に行き渡る程度では悲劇も起こります」


 ただ、とシーズニアは続ける。


「それでも今の時代よりは、世界はずっと満たされていたことでしょう。一人が幾人もの食糧を生産できれば、労働から解放された者たちは生活をよくするために思考と労力を使えます。その数が増えるほど、世界は加速度的に改善されていく――先代魔王が目指したのは、そうした正の循環なのです。ケイの未来も、その先に訪れたのではないでしょうか」


 先代魔王の考えが、僕にもなんとなく理解できた。

 だけど――やっぱりそれは机上の空論としか思えない。


「先代魔王は、ずいぶん気の長い人だったんだな」


 シーズニアは僕に視線を向ける。

 僕は前を向いたまま続ける。


「理屈はわかるけど……すぐには無理だろ、そんなの。対策というより振興とか投資じゃないか。実現までが長すぎる」


 技術の発展は、がんばったらできるというものじゃない。偶然に頼り切った発見がどうやったって必要になる。時間がかからないわけがない。

 しかし僕の言葉に、シーズニアは薄く笑みを浮かべた。


「それが、そうではないのですよ。魔王に限っては、ですが」

「え?」

「そろそろです」


 左右の壁が途切れた。エコーの照明が、階段ではなく床を照らし出す。

 僕らは、地下の広間へ降り立った。


 そこは、部屋と言うには広大な空間だった。

 縦横数十メートル、天井だって僕の身長の倍はある。

 だけどそれ以上に、僕はそこにあったものに目を奪われた。


「硝子の、石板……これは蒼文石碑ラズリス、なのか……?」


 広間には、長方形の巨大な硝子板がいくつも、整然と並んでいた。

 高さは僕の身長ほど。厚く、やや薄く濁ったその硝子板は、画像や映像で何度も見たことがある蒼文石碑ラズリスそのものだ。しかし、そこに旧世界のことを記した青い文字列はない。ただまっさらな表面があるだけ……いや、それだけじゃない。


 僕はエコーの照明を消す。

 広間全体が、薄青く浮かび上がった。


「なんだ、これ……」

「ケイはこれらを知っているのですか?」


 シーズニアはそう言って、立ち尽くす僕の顔を覗う。

 僕は首を振る。


「いや、知らない……未来に残っているこれ・・には、文字が刻まれてるんだ。この時代の記録が……だから、知らない。こんななにも書かれていない、青く光る石板・・・・・・のことなんて」


 この蒼文石碑ラズリスたちは発光していた。

 薄青い光で、自身と広間の床や壁をぼんやり照らしている。だから、おかしい。

 蒼文石碑ラズリスは、ただの石英ガラスのはずなのだ。


「そうですか……」


 シーズニアは少し考え込んで言う。


「もしそれが同一のものだとすれば、今の文明が滅ぶまでになにかがあったのでしょうね……でも、ケイ。一つ誤解があります。ここになにも書かれていない、ということはありませんよ」

「え……?」


 シーズニアは石版の前まで歩みを進める。

 そして、その青く光る滑らかな表面に、静かに指を触れた。


「なっ……!」


 突然、硝子板に文字が現れた。

 その形に見覚えはない。しかしシーズニアに反応し、まるで一瞬で入力されたかのように出現した灰色の線は、どう見てもなんらかの文字列としか思えなかった。


《エ、エコー》

《アーカイブ中に該当文字なし。しかし簡易解析の結果、文字列乱雑度エントロピーは低い数値を示した。有意な文章である可能性は高いと推測される》

「シーズニア、これは……」

「これがなにかということでしたら、私にもわかりません」


 シーズニアは硝子板に向かいながら言う。


「ですが、なにが記してあるのかはわかります。たとえば……」


 シーズニアが文字列の一部に再び触れた。

 その途端、それまでの文章は消失し、新たな文字列が一瞬で浮かび上がる。

 シーズニアはその中程に目をやると、滔々と読み上げ始める。


「三次派生素***は、構成素**および**からの二次派生素**と、構成素*より成る。二次派生素**と構成素*は運動類別番号一四二八八〇九により二種作用しているが、構成素*の持つ運動類別番号一四二八〇〇三の属値は断続的な値をとるため、****状態となることはない」

「ちょっ、待って、なに?」


 思わずシーズニアを遮る。

 内容がまったくわからなかった。いくつかの単語で即時翻訳がうまく働いていないのもあるが、それ以上に不明な複合語が多すぎて理解できない。

 シーズニアは文字列から目を離すと、息を吐く。


「まあ、そうですよね。でもこの章は全体的にこんな感じなので……えー、つまりですね。構成素とは世界を構成する要素で、派生素とはその組み合わせによってできるものです。二種作用とは互いに引き合う作用で、****状態は、静止した状態と思ってもらえればけっこうです。どうですか?」

「どうですか、って言われても……」

「三次派生素***は、おそらく我々が認識する物体の最小構成単位で、運動類別番号一四二八八〇九は磁力の一形態のようです」


 物体の最小構成単位に、磁力。

 ふと、一つの可能性に思い至る。


《エコー、三次派生素が原子で、構成素なんとかっていうのが電子、だとすると》

《この文章は原子核と電子の関係を述べたものと推測される。後半は特に、電子の持つエネルギーが量子化されているために、原子核との電気的な結合が起こらないことについて解説していると考えられる》

「その表情は、やっぱり理解できるようですね。さすが未来の魔術師さま、といったところでしょうか」


 シーズニアは楽しげに言うが、僕は戦慄していた。

 ありえない。

 こんな知識が、旧世界に存在するなんて。


「なんなんだよ、これ……なんで、こんなものが……」

「これは言うなれば、魔王一族に伝わる秘宝です」


 シーズニアが文字列をさっと撫でる。

 それだけで灰色の文字はすべて消失し、元の滑らかな硝子板に戻る。


「触ってみてください」


 僕は恐る恐る、硝子板の表面に触れた。

 だが、シーズニアのときのように文字列が現れることはない。


「あの文字を現すことは、魔王の血族にしかできません。そして読むことも。まあこちらは、解法が外に流出していないというだけですが」


 シーズニアが触れると、再び文字列が現れる。

 何度見ても不思議だ。液晶とも似ているようでどこか違う。


「これと同じものが魔王国の各地に存在します。いえ、おそらくは国外にも。ここにあるのは格物の章――世界の構造や法則について記録されたものですが、同様に数理の章、生類の章、錬成の章、地勢の章など、いくつもの種類が確認されています。まだ見つかっていませんが、おそらく魔法の章などもあることでしょう」


 呆然と硝子碑の群れを眺める。

 理解が追いつかない。


「……魔王一族に伝わるってことは、これは初代魔王が作ったもの、なのか?」


 シーズニアは首を振る。


「初代魔王についてはわからないことも多いですが、違うでしょう。魔王の血族は初代も含め、これの番人であるというだけだと思います。ただ、初代はこの知識をよく活用したことでしょうね。でなければ、あれほど無茶な建国など為し得なかったでしょうから」

「なら、いったい誰が……」

「わかりません。案外、神々だったりするのかもしれません」


 僕は曖昧に笑う。シーズニアが信仰心に篤いとは思えなかったからだ。

 しかしシーズニアは、くすりともしないまま続ける。


「魔族には、様々な姿形の者がいます」

「……? うん」

「鱗を持つ者、爪を持つ者、角を持つ者に、翼を持つ者。これらは様々な生物の特徴と類似している。生類の章の知識に照らすならば、魔族はそれぞれ別の生物から進化したと考えるべきでしょう――ならばなぜ、我々は隔たることなく子をなせるのか?」


 僕は絶句する。

 魔族と魔族、魔族と人間との混血が存在するという事実は、未来でも未だに解明されていない生物学上の疑問だった。


「……染色体数が一致していることはわかってる。だから魔族も、猫や蜥蜴や鳥じゃなく、人間との同一祖先から進化したって言われてるけど」

「形質に幅がありすぎる、中間化石が見つかっていない、あるいは他生物由来の遺伝情報が存在するなどの理由で、それほど支持されていない、ですか?」


 僕は無言で肯定する。

 この謎は、創造論者たちの一番の論拠だった。


「でも、神がいるっていうのは……」

「ならば神でなくても構いません。なんらかの高位の存在が、この硝子碑と、我々を創造したのではないか、ということです。高度に発展した先史文明か、この大地の外にある文明。もしくは、未来の文明」

「未来でも無理だ。過去に干渉する技術すら確立されてないのに」

「ケイの時代よりもさらに未来さきの文明という意味です」


 僕は無言で立ち尽くす。

 こんな物を見ることになるとは思わなかった。だが、納得できる部分もある。


 旧世界で異様に発展していた魔法の技術。現代技術ですら再現できないそれらが外部の知性からもたらされたという説は、大昔から唱えられ未だに残っている。


 それらは、魔法の章とやらから流出した技術なのだろうか。


 改めて硝子碑に目をやる。

 これはやはり蒼文石碑ラズリスなのか? だとすれば後に文字が刻まれる? いや、似ているだけの別物かもしれないし、そもそもこの過去が僕の未来に繋がる確証もない。


 なにがなんだかわからない。

 頭を振って思考をリセットさせる。ふと、シーズニアの話が繋がった。


「そうか……この知識があれば」

「ああ、その話でしたね」


 シーズニアは小さく笑うと、再び語り始める。


「魔王一族はこの硝子碑を代々受け継いでいましたが、内容についてはほとんどわかっていませんでした。読めるにも関わらず、です。なぜだと思いますか?」

「難しすぎるから?」

「その通り。歴代の魔王はこれを理解できませんでした。内容そのものもですが、前提となっている知識や概念が多すぎるのです。過去、幾人もの賢者を伴って解読に挑んだ魔王もいましたが、結局複写を作った程度で断念しています。自然と、硝子碑も捨て置かれるようになりました。なにせ誰も内容がわからないので――そんな中で現れたのが、先代魔王のバルデキウスです。彼を一言で言うならば、天才でした」


 シーズニアは、どこか誇らしげに言う。


「十を過ぎた頃には上流人の教養ばかりか、修辞学や弁論術、政治学や軍学すらも身についていたそうです。そして私の年齢になる頃には、魔王城に保管されていた複写はすべて理解していました。軍属を早々に終えた後は、筆記を行う奴隷他数名を伴って国内を回り、未見の硝子碑の解読と複写を魔王就任まで続けたのです。ここクルーストの格物の章など、いくつか漏れはあったようですが、王位に就く頃には国内にある大半の硝子碑の内容を把握していました。おそらくその中には、ケイの時代にもない知識すらあったでしょう。ですから――不足はなかったのです、世界に変革を起こすことに」

「でも」


 僕は口を挟む。


「変革は起きなかった?」

「正確には、起こさなかったのです」


 シーズニアは、目を伏せて言った。


「変革には……必ず破壊と混沌が伴います。程度の差こそあれ、必ず。最終的に皆が望む世になるとしても、技術と常識の更新は、少なくない民の死を生むことでしょう」

「死、って」

「数理の知識は新たな学派の台頭を生み、権力階級に食い込みます。食糧生産技術の発展は経済構造と文化を変えるでしょう。航海技術の向上は新しい貿易航路を開拓し、商人は扱う荷を変える。そして新たな兵器が、現在の戦術をすべて過去のものとする――この流れに翻弄され命を絶つ者、もしくは剣で抵抗する者が、必ず現れるでしょう」

「……」

「バルデキウスは天才でしたが、民を思う優しき魔王でした。混乱を最小限に抑え、可能な限りゆっくりと変革を進めようとしたのです。だから……失敗しました」


 シーズニアが沈痛な表情で続ける。


「変革はまったく進みませんでした。既得権益層の抵抗ももちろんですが、それ以前に有力者たちが保守的で変化を嫌いました。それでも諦めず、元老院と軋轢を生みながらも変革を進めようとして……最後には国外追放され、魔王国の二百六十九年続いた王政は終焉を迎えたのです。国外の親類の元で過ごしたバルデキウスの晩年は……失意に満ちたものでした。娘の私が言うのですから間違いありません」


 シーズニアは、少し間を空けて言う。


「私は、まさか自分が魔王としてこの国に戻ってくるとは思いませんでした。魔王の血を担れる心配のない遠い地に嫁がされるか、神殿の巫女にでもなるとばかり……。魔王と言っても、今は実権もありません。それどころか明日の命運すらわからない。ですが、私は……私は、失敗しません」


 暗い熱を込めて、シーズニアは言う。


「魔王となったからには、必ずや成し遂げます。たとえ大いなる破壊と混沌を伴ってでも、世界の変革を。今度こそ。それが――私が、魔王で居続けなければならない理由です」


 シーズニアは溜息をつくように、ふっと力を抜いた。


「もうここはいいでしょう。そろそろ公邸に戻りましょう。私が今やっていることを見せます」


 踵を返し、シーズニアが歩き出す。

 僕はエコーの照明を点け、それに続きながら少女の小さい背に声をかける。


「シーズニアも、硝子碑の内容は全部理解できているのか」

「ええ。複写の内容は幼少期に父から教わりました。ここにある分は少々難解でしたが、だいたい一月ほどで大まかに理解できましたね。今ではすべて頭に入っています」


 シーズニアは振り返り、にっこりと微笑む。


「私は先代の血を引いていますので」



 ◆ ◆ ◆



 僕たちは市長公邸まで戻ると、まっすぐにある場所へと向かった。


「物置?」


 それはシーズニアのよく出入りしていた離れだった。

 三角屋根のその小屋は、実際には物置というには立派な建物だったが、大層な公邸と比べてしまうとそうとしか思えない。


「いえ、物置ではありません」


 隣を見ると、シーズニアがむふふ、みたいな笑みを浮かべていて若干引く。


「……じゃあなに」

「“工房”です」


 どや顔で言い放ち、シーズニアは重厚な木製扉を押し開けた。

 埃っぽいにおいが鼻孔に触れる。

 中を見て驚いた。


 そこは、物であふれていた。

 所狭しと並ぶ木製の台や棚。それらに乗った、あるいは乗り切れなかった様々な物たちで、室内は混沌としている。確かヤスリとか金槌とかいった工具に、硝子瓶やそれに入ったなんらかの液体。様々な鉱物。巻かれた麻縄に金属線。床には大量の綿が詰められた木箱と、干からびた大きな動物の死骸が並んでいる。かまどに巨大な鍋、小さな炉のようなものまであった。かと思えば、羊皮紙と筆記具が乗った物書き机まである。

 これは……、


「物置じゃん」

「違います!」

「お? 魔王サマか?」


 シーズニアの怒った声に、反応があった。

 部屋の奥で白い影が立ち上がる。


「あ」

「おお? いつぞやの使い魔じゃねーか」


 確か、グレンとかいう白狼族ルーパの若者だった。

 シーズニアが歩み寄る。


「グレンも来ていたのですか。祭りには行かなかったのですか? 確か今日は手伝いもないから、かねてより目をつけていた黒狼族の子を誘うとか言ってませんでしたっけ?」

「訊かないでくれ。いいんだ。俺はこっちの方が合ってる」


 グレンが顔を背ける。

 顔が犬なのであまり表情の変化はないが、事情は察せた。

 ふうん、と、シーズニアは興味なさそうに流す。


「ハスビヤはいないのですか?」

「いるぞー」


 棚の影から、服をはたきながらハスビヤが出てきた。


「もう、シィ。いろいろ集めるのはいいけどな、もう少し整理しなきゃだめだぞ。いくら物置でも」

「物置じゃありませんって」

「元は物置だろ」


 ハスビヤは自分の埃っぽい服を見下ろしてげんなりした顔をする。

 今日は魔術師らしい服じゃなく、簡単な襟なしシャツにズボンという飾り気のない格好だ。


「む! ケ、ケイ?」

「ケイにもいいかげん話しておこうと思いまして」

「そ、そうか。それは、いいんじゃないか、うん。いいことだと思うぞ……」


 ハスビヤは慌てたように、横を向いて服をはたいたり髪を直したりする。


「その、ここ物が散らかってるからな……あんまりちゃんとした格好もできないんだ。埃もすごいしな……」


 ハスビヤが自分の格好を恥ずかしがっていると気づくのに、少し時間がかかった。そんな女の子っぽいところがあるなんて意外だったから。思わず、え、ああ、うんみたいな動揺した声が出る。


「うわっ」


 シーズニアが脇腹を突いてきて、今度は変な声が出る。


「……なんだよシーズニア」

「いえ、別に?」

「おい使い魔、いいかげんにしろよ。俺は今この空気を流せる心境じゃねーんだ」


 僕はだんだんなんでここにいるのかわからなくなってきた。


「というか、ここはなんなんだよ。物置じゃないの?」

「“工房”です。見ればわかるでしょう」

「わからないんだけど」

「なるほど。成果物を見たい、ということですね」

「え? いや」

「それならちょうどいい。あれ、できてるぜ。そこに」

「さすがグレンです。仕事が早いですね。失恋の反動が驚くべき集中力を生んだと見ます」


 軽口に抗議するグレンを無視し、シーズニアは部屋の隅に置かれたそれへと歩みを進める。

 長い支柱に据えられた、硝子と金属枠の直方体。内部には黒い棒が二本入っている。そこから伸びる二本の鋼線は、床に置かれた陶製の大きな箱に繋がっていた。


 違和感。

 僕はこれを見たことがある。ただし、旧世界とは関係のない資料の中で。


「硝子碑には驚異的な技術が数多く記されています。が、そのほとんどは実現できません。重要な鉱石や資源が採掘されておらず、その精製や、精密な加工も困難だからです。今は人も使えません。だから、作れるのもこの程度のものです。ケイにとっては取るに足らないものでしょうが、私にとっては、一つの大きな成果でした」


 シーズニアは直方体に灰色の布を被せ、箱のつまみを回す。


「“街の灯”です」


 布を通し、光があふれた。

 この世界に来てから幾度も見た蝋燭の灯りとは違う、それは強烈な光だった。布越しでも眩しく、思わず手をかざす。ジジジジ、という音。

 これは……、


「電灯……!? これ……アーク灯か?」


 二本の炭素棒間にアーク放電を発生させる照明装置。電灯の中では最も原始的なものだが、この世界で見ると違和感がすさまじい。

 本来発明されるのは近代だからだ。


「こんなもの作ってたのか……いやちょっと待て、電源は……?」

《陶製の箱内部は五十のセルに分割され、それぞれが硫酸で満たされている。極板として鉛および酸化鉛が使用されている》

「鉛蓄電池か! いや、でも……」


 なんだか素直に信じられない。


「硝子は、あるか……銅も鉛も鉄もこの頃から使われてたし、炭素棒も黒鉛と粘土があればいいし……硫酸は? あんなものどうやって」

「いい質問ですね!」

「……なんで興奮してんの」

「作るだけならば明礬ミョウバンや黄鉄鉱を焼き発生した蒸気を水に溶かすことで可能です。しかし面倒で悪臭がひどく、なにより効率がよくありません。どうしたものかとずっと悩んでいたのですが、なんとこの街に専門家がいるというではありませんか。そこで任せることにしたのです」


 シーズニアは早口で捲し立てると、グレンに視線を向ける。


「ん? なんだ、今やってみろってことか? いいけどよ……」


 グレンはしぶしぶといった様子で、棚の硝子容器を手に取った。水差しから水を注ぐと、箱に詰まった鈍い金色の鉱石を火鋏で掴んで容器に入れる。

 そして机にあった羊皮紙を広げ、重しで固定する。そこには、魔法陣が刻まれていた。その幾何学的な紋様の真上に、容器を静かに置く。

 グレンが白い毛むくじゃらの手を、羊皮紙に添えた。


「あと、俺は別に専門家じゃないって言ってんだろ。旅の連れだった矮人族ドワーフの魔導師に、混剛の魔法やら錬金術やらを少し習っただけだ」


 魔法陣に、青い励起光が瞬いた。

 鉱石がパキパキと、乾いた音を立て始める。

 グレンが手を離す。励起光が消え、音もやんだ。火鋏で鉱石を取り出すと、傍らに置く。


「ほらよ」


 容器の中の液体に、特に変化は見られない。

 シーズニアが前に進み出る。と、なにやら手に持っていた銀色と赤茶色の金属片を二枚、ぽちゃんと容器に入れた。

 程なく、銀色の金属片が泡を出して溶解し始める。赤茶色の方は変化がない。


「と、こういう具合です」

「……これ、亜鉛と銅か」


 亜鉛は希硫酸と反応して水素を発生するが、銅は反応しない。まあわざわざこんなことしてくれなくてもエコーの観測魔法で組成くらいわかるのだが、なぜか得意げなシーズニアには言いにくかった。


「鉱石は……黄鉄鉱か。じゃあ、今のは」

「硫化鉄と水酸化物イオンから硫酸を合成する混剛の魔法です。グレンも謙遜が過ぎますね。短い間であれ魔導師に師事し、魔法陣の刻印までこなす魔術師が専門家でなくてなんなのです」

「そんな大層なもんじゃねえって。使える魔法も多くないしな」


 シーズニアは室内を歩き回りながら続ける。


「それにしても、この硫酸というのは本当にすばらしい。混剛や冶鐘の魔術師、それに錬金術師たちの中には既知の者もいたでしょうが、おそらくこれは人が初めて手にした強酸でしょう。これで色々なことができるようになります。電池の他にも、骨粉と反応させれば燐の肥料が作れますし、繊維の漂白や、より高度な金属加工なども可能になるでしょう。ヨウ素などの有用な物質や、別の強酸だって作れるようになります。そうそう、別の強酸と言えばおもしろい発見がありまして!」

「あの、シーズニア?」

「硫酸と硝石があれば硝酸ができるのですが、これと藍の染料を熱して得られる物質を混合したところ、なんと激しい燃焼が起こったのです! わかりますか、これは竜の火炎と同じ反応なのですよ! 生類の章にあった竜の知識と錬成の章にあった四次派生素の特性からもしやと思ったのですが、まさかうまくいくとは! 要点は硝酸の酸化力と反応相手の還元性と生成される四次派生素の安定性であってそれが………………はっ」


 シーズニアは唖然と聞く僕らに初めて気づいたように沈黙すると、急に俯いてぼそぼそ喋る。


「ですからその……こんな発見をしたんです、という……」

「シーズニア、こういうキャラだったのか」

「誤解です」

「誤解じゃないだろ。シィは昔からずっとこうだ」


 ハスビヤが呆れたように言う。


「まったく。また遊び半分で危ないもの作ったのか」

「し、仕方ないではないですか…………楽しいんですから」

「なにが仕方ないんだ! ほどほどにしろ、もう。なにかあったらどうするんだ」

「ええ、でも……」

「じゃないともう充電しないからな」

「うう、わかりました……」


 しょんぼりとうなだれるシーズニア。

 というか気になる単語が聞こえた。


「ハスビヤ、充電ってもしかして」

「もちろん、これだぞ」


 と、ハスビヤは鉛蓄電池の箱を足で小突く。


「シィは天鳴の魔法をこんなことに使わせるんだ」

「やっぱりそうだったんだ……」


 この時代なら他に方法がないのだろうが、魔法使いがバッテリーを充電するというのは想像するとかなりシュールな光景だった。


「ふふふ、一度超高電圧がかかって電極がボロボロになったこともありましたっけ。電流を変圧する装置を作ってからはそんなこともなくなりましたが」


 シーズニアが再びテンション高めに言う。


「でもハスビヤ。あなたにはこれからもっと活躍してもらわなければなりません。電気分解やそれを利用した金属精錬など、天鳴の魔法に頼る場面はたくさんありますから」


 ハスビヤが嫌そうな顔をする。そういえばハスビヤを祭典に連れてこなかった日、こんなところで死なれると困るからとか言っていたが、あれはこういうことだったのか。僕も微妙な気分になる。

 驚きが冷めてくると、次第に疑問も湧いてきた。


「でも……電灯で世界が変わるか? これ電池が切れたら、魔術師が充電するか中身を新しくしないといけないだろ? 炭素棒も消耗品だし。街灯にするなら普通に蝋燭かランプを使う方が便利なんじゃ」

「ええ、それはもちろん」


 シーズニアは当然のように頷いた。


「街の住民には意外にも好評でしたが、これは趣味みたいなものです。本格的に始めるのは終戦後にするつもりでしたが、ここでもいくつか、簡単ですが実用的なものを広めていますよ」

「へぇ。たとえば?」

「たとえば煮沸して硝子瓶に密封する保存食や、地磁気を利用した方位指示器、殺菌に使える高純度の酒精や、便利な測量方法……などですかね」


 瓶詰め食品は前近代、方位磁針は中世の発明だ。微生物の概念は顕微鏡が発明されるまで生まれなかったし、高等数学が人々の生活に利用されることも古代ではなかったはず。

 なるほど……たしかに、魔王の知識は世界を変えるかもしれない。


「まあこんなものを作っては街の住民や商人や組合に広めたりしているわけです。おかげで街の収入は増えているらしく市長や有力者からは感謝されています。私自身は見返りを求めていませんしね」

「へぇ。人気取りもかねてるから?」

「それもありますが、面倒ごとを避けたいのもありますね。どこから恨みを買うかわからないので、できるだけ利害関係から離れていたいのです。お父……先代魔王は資金調達のために積極的に金策に走っていましたが、私はまだその時ではありませんから」

「はあ……なんというか、いろいろ大変なんだね」

「ええ。大変なのです」


 言っていることとは裏腹に、シーズニアの声音は楽しそうだった。

 きっと、本当に好きなんだろう。


「そうだ、ケイもなにかおもしろいアイデアはありませんか? 硝子碑の知識は実践的なものが少ないのです。複雑な機材や希少な資源が必要ない、未来の知識でなにか」

「ええ、そうだなぁ……」


 僕はふと、以前読んだ食の歴史の本にあった、偉大な近代の発明を思い出した。


「ええと、細い麺を油で揚げると水分が飛んでいい乾燥状態になるから、そこそこの保存食になるよ。茹でる必要がなくて、食べる時はスープで戻す……」


 シーズニアが目を輝かせる。


「なんですかそれは! 油で水分を飛ばす!? 単純ながらあまりに革新的、まさに天才の発想です! さ、さっそく明日から取りかからなければ」

「……気に入ってもらえてよかったよ」


 これで旧世界でも即席麺が食べられるようになるのだろうか。

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