三章 覇原の勇者


『そりゃ、モテのためよ』


 キィルに戦う理由を訊いたとき、彼は躊躇いなくそう答えた。


『なんといっても冒険者はモテるからな。見たかよ、今日のオレの勇姿』


 キィルは得意げに言う。

 いつもなら誰かからつっこみが入るところなのだが、クエスト帰りの蜻蛉トンボ型エアポッドの中、僕ら以外は皆すやすやと居眠りをしている。


 キィルは後衛火力の要、〈魔導師ウィザード〉職だった。

 主に広範囲、高威力な魔法展開を役割とし、派手さからパーティの花形とも言われる役職だ。初期の宣伝映像では、必ずと言っていいほど火炎や雷を放つ彼らの姿が見られる。

 ただキィルは、それらに加えて第二類までの軍事魔法を扱える有資格者でもあった。

 その威力は絶大で、今日のクエストで放った精密誘導型マイクロミサイルレシピ、“MK―9ラバーフライ”は、特定脅威害虫であるシザーワスプの群れを瞬く間に一掃した。浄化林という障害物の多い場所で、火災も発生させずに。僕たちのやることはほとんどなかった。


 キィルのような軍事魔法使いは少ない。

 そもそも厄介な精神適性試験をパスして軍事魔法取扱資格を取得できるのなら、民間軍事企業PMCの開発部門にだって行けるだろう。しかし、キィルはそれを、


『ありえねー』


 と一蹴した。


『研究開発とか地味じゃねーか。モテない。その選択肢はオレにはないな』


 そこまでこだわるか、と訊ねると、キィルは少し考えた後、誤魔化すように笑って言う。


『オレさ、実はけっこう信心深いんだよね』


 キィルは十字架クロスのペンダントトップを引っ張り出して、揺らした。

 いつもつけているものだ。


『プレンサ、って小さい都市国家を知ってるか? オレの出身国なんだけど、国教が十字教なんだよ。それでまあ小さい頃は毎日お祈りだの歌だのカミサマの言葉だの。オレ、こう見えて根が純粋だからさ、その教えがずーっと残ってるってわけ。今も週一で教会行ってるんだぜ。たまに忘れるけどな』


 キィルは十字架を弄びながら話す。


『んで、プレンサは十字教圏国家の中でも割と厳格な方でな。自然家族を推奨してるんだよ。なんと今どき国民の四割が自然分娩で生まれてるんだぜ? びっくりだろ。オレは普通に出生センター生まれだったんだけど、なんつーか、家族がいる友達がうらやましくてさ。だから、大人になったら絶対家庭を持つんだってずっと決めてたんだよな』


 キィルは照れたように笑う。


『ま、それでモテが重要ってわけよ。オレは配偶者パートナー選びも確率論だと思うわけ。だから試行回数を稼がないと。この考えだけはあの国と合わなくて出てきたんだが、目的はあくまで家族なんだよな。それに――子供は、親がかっこいい仕事してた方がいいだろ?』


 言うと、キィルは気恥ずかしそうに頬を掻いた。


『あー、やっぱり意外か?』


 僕は頷く。

 細身で背が高く、見た目も言動も遊び人っぽいキィルが、そんな考えを持っているとは思わなかった。

 それは出会う女の子には話しているのかと訊く。


『んー、いや……はは、大事なことほど、なかなか言えないもんなんだよな』


 キィルは、杖型端末のライトライン・ファイアキャスターで僕の肩を小突く。


『まあオレはパーティ内恋愛NGだから。あ、自分ではってことな。だからケイちゃんは、全然オレに気兼ねしなくていいぜ。隊長なら好きに狙ってくれ』


 僕は慌てて否定する。キィルは笑う。



 キィルは二番目に死んだ。

 防衛用多脚ドローン群は問題なく処理できた。キィルの放つ電磁パルス魔法が、ごく短時間ですべてを無力化したからだ。

 失敗は、続いて現れた小型浮遊砲台にも同じ手を用いてしまったこと。この手のドローンは耐EMP金属函装甲を展開することがあるのを、僕はすぐに思い出せなかった。


 そしてそれは、キィルも同じだった。

 彼にしては珍しい判断ミスだった。


 薄紫に輝く光線が幾条もキィルを貫くのを、僕は呆然と見ていた。熱線の一つがペンダントチェーンを焼き切り、強い光を放った。倒れたキィルの傍らに転がった十字架クロスの音を、妙にはっきりと覚えている。


 僕たちのパーティは、こうして最大火力の攻撃職アタッカーを失った。



 ◆ ◆ ◆



「嘘がわかる?」


 朝の涼しさがまだ残る時分。

 僕は、机を挟んで座るハスビヤの言葉を繰り返す。


「そうだ。試してみるか? なにか言ってみろ」


 ハスビヤはそう言うと、じいっと僕の目を見つめる。


「えっと、今日はひどい天気だ」

「ばか、誰だって嘘だとわかるだろうが」

「ああ、そっか。じゃあ、僕には兄弟がいる」


 言うと、思考がざわつくような感覚を覚える。


「嘘だな」

「辛い物が嫌い」

「本当」

「雨の日が特に好きではない」

「嘘」


 当たってる。適当に言っても十二・五パーセントで当たるけど。


「どうだ?」


 ハスビヤが胸を張る。


「これがあたしの力だ」




 僕がこの世界に来てから十日が過ぎた。

 あれから特に何事もなく、シーズニアの付き添いでもう一度街に降りたくらいで僕は正直暇だった。シーズニアはなにかやっているようだったが、部屋にこもるか、物置のような離れに行っているかで、僕にお呼びはかからない。広い公邸にたくさんいる使用人に訊いても、いまいちなにをしているのか知らないようだった。


 昔読んだ異世界転生ものの空想小説のように現代知識で無双することは当然考えたが、残念ながら魔王様は今内政チートどころじゃない。まあ、それは割とどうでもよかった。エコーがいればなんとでもなる。体内細菌叢を置換しているナノマシン群は、病原菌も寄生虫も寄せ付けない。


 退屈していた僕に未来の魔法について聞きたいと言ってきたのはハスビヤだった。

 僕もこの世界のことが聞けたらと、喜んで承諾したのが今日の朝。




「あたしは覚猴族タリアの血が入ってるからな」


 初めて聞く種族名だった。

 正直にそう言うと、ハスビヤは少し残念そうにする。


「未来に我が種族の名は残っていないのか……赤毛で金眼の、無口な森に住む種族だ。心が読める」

「え、一番重要なとこさらっと言ったね。心が?」

「そうだ。それが覚猴族タリアという魔族の固有魔法だ」


 魔族は魔獣と同じように、生まれながらに魔法を使うことができたとされている。

 筋力や感覚器官の強化、変わったところでは夜牙人ノクティデントゥスの細胞修復や、鷹腕人シュードラプトルスの気圧操作などがあるが、心が読めるというのは聞いたことがない。


「あたしは四分の一だから嘘がわかるくらいだけど、純血はすごいぞ。言葉だけじゃなく、色やにおいだって思い浮かべればそのまま伝わるくらいだ」


 思考の情報化は、感覚質クオリアの解明が進んだ現代ではありふれた技術だ。

 だがナノマシンや計算機もなしに、魔法のみでそれをやってのけるというのは少し信じがたい。


「その固有魔法って、どうやって使うの?」

「んーとな、やるぞ、って思うと魔法陣が見える。それから、相手の目を見る必要がある。あとは普通に魔法を紡ぐのと大差ないな。それでこう、なんとなくわかるんだ」


 なかなか興味深い話だった。

 魔法には魔法陣が必要となる。厳密には魔術思考を行う意識が、特定の図形がこの世界に存在すると確信することが魔法励起の鍵となるらしい。それは人工意識でも変わらず、だから端末はわざわざホログラムや液晶で魔法陣を世界に映し出し、それを自分で観測する。エコーの内蔵魔法陣だって、基幹ナノ砂内部に刻まれた分子サイズの魔法陣をいちいち電子線で走査している。魔法技術の大きな足枷だ。


 だが理論上、そんなものは本来必要ないと言われている。魔獣や魔族は、その力を使うのに魔法陣を一切必要としないからだ。だから知能の低い魔獣はともかく、もし魔族が現代まで生き残っていれば、魔法技術はもっと発展していただろうとはよく言われることだ。


 ハスビヤの話は、研究者には貴重な資料となっただろう。

 残念ながら僕には雑談くらいの意味しかないけど。


「なら、ハスビヤの前で迂闊なことは言えないな」


 僕が何の気なしにそう言うと、ハスビヤは渋い顔をする。


「む……そんなこと言うな。気にされる方が、なんかいやだ。それに、普段は使わないぞ。そう決めてるんだ。みんないやがるだろうからな」

「へぇ、偉いじゃん。じゃあ僕も気にしないことにするよ」

「うん。そうしろそうしろ」


 ハスビヤがうれしそうにする。

 まあでも、一応気には留めておこう。


「ところで僕、普通の魔法もよくわからないんだよね。あれはどう使ってるの?」

「どうって、普通にだぞ。基本は魔法陣を目視して、そして、うーんて考える。それだけだ。慣れれば魔法陣なんていちいち見ないがな」


 魔術思考を説明しろという方が無茶だったかもしれない。そりゃこう言うしかない。


「なんか難しそうだな」

「あたしには、未来の魔法の方が理解できない。その、」


 ハスビヤが球形態で僕の横に浮いているエコーを指さす。


「エコーとかいう生きた機械が魔法を紡いでいるっていうのは、本当なのか? 未来の魔術師はみんなそうなのか?」

「端末なしで魔法を使える人間はもういないな。十何年か前まではいたらしいけど」

「魔法を使うとき、ケイはなにをするんだ?」

「指示を出すだけだね。頭の中で」

「なんだそれは! ずるいなぁ!」


 ずるいずるいと怒るハスビヤに、僕は思わず笑ってしまう。

 まあたしかに、そう言われても仕方がない。


 魔法使いたちの秘術は失われた。現代の魔法は職人技ではなく、工業製品だ。魔術思考は魔法陣とセットでレシピ化されパッケージ化され、安っぽい名前で販売される。ウェブからダウンロードし、それを共通規格の端末で読み込めば、人工意識がレシピ通りに思考――つまり情報処理を行い、魔法が使える。いつでもどこでも誰でも。個人の努力など必要ない。そりゃ、本物の魔法使いからすればずるいだろう。


「……でも」


 机に頭を投げ出したハスビヤが、少しすねたような顔で深皿の蜂蜜菓子を弄ぶ。


「あたしもいい道具を使ってる。杖なしで戦えと言われても無理だ。あまり人のことは言えないな」


 僕は壁に立てかけられた、空想作品の魔法使いが持つような杖に目を向ける。


「その杖、やっぱりいい物なんだ」

「ああ」


 ハスビヤが吊ってない方の手を伸ばして杖を取る。小さく掲げると、はめ込まれた宝石の一つに励起光が瞬き、パチパチと電流の煌めきが飛ぶ。


「あたしが天鳴の塔を出てくるときに師匠からもらったものだ。どの宝石にも信じられないくらい精緻な魔法陣が刻まれている。杖でも剣でも羊皮紙でも、魔法陣が正確で全体の意匠が優れているほど魔法は紡ぎやすいが、ここまでのものはそうないだろうな」


 塔、と聞いて、昔読んだ数々の空想作品が思い返される。


「そういえばハスビヤは塔にいたんだっけ。いいな」

「え、なにがだ?」

「なにがって、楽しいところなんでしょ、塔って。仲間と一緒に生活して魔法を学んで、たまに事件が起こってそれを解決したり冒険したり、とか」

「未来は塔にどんなイメージを持ってるんだ……。あのなぁ、上下関係ある中で何人も共同生活するんだぞ。ろくでもないことばかりに決まってるだろ」

「ええ……そうなんだ……」

「ケイだったら絶対嫌になるぞ。見た目が弱そうだからすぐにいじめられる」


 僕は力なく笑う。それは自分でもよくわかっていた。

 僕が予想以上のダメージを受けたのを見てか、ハスビヤはやや動揺したように言う。


「そ、そんなに落ち込むな! お前の実力はよくわかっているとも。三日後には祭りも控えてるんだから自信をなくされると困る」

「……祭り?」

「む、聞いてなかったか?」


 ハスビヤが意外そうに言う。


「街の創立を記念した式典、クルースト祭だ。そこで今年はシィの挨拶の場が設けられる。魔王陛下のお言葉というやつだな」


 まったく知らなかったが、言われてみればここ数日、街が賑やかだった気もする。


「そこで勇者の襲撃があるかもしれない、ってことか」

「んー、いや、『勇者』が今まで時期を選んで来たことはない。それに今クルーストは入城制限をかけているから、襲撃があればたいてい城門で知れる。時の魔法でも使われない限りはな」

「なんにも侵入対策してないわけじゃなかったんだ」

「あたり前だ! だから『勇者』よりも……シィを恨む街の住民のことだ。祭りは人が集まるからな」

「最悪暴動でも起きるかもって?」

「可能性は低いがな。でも、備えだけはしておくんだ。お前も街の地図くらいは頭に入れておけよ」


 たしかにその通りだ。僕は街の地図をエコーの頭に入れておこうと決心しつつ、ついでに思いついたことを訊ねる。


「シーズニアが離れに行ったりして忙しそうだったのって、ひょっとして式典の準備だった?」


 ハスビヤは露骨に動揺する。


「む、それは、まあ、そんなところだ」

「今のは僕でも嘘だとわかるよ」

「ぐっ……いや、その……シィが話してないなら、あたしからは言えないんだ。悪いな……言っておくが、こっそり忍び込んだりするなよ」

「そんなことしないよ」


 忍び込むとしたらエコーだが、必要性は薄い。

 たぶん僕に大して関係のないことだろう。


「あっ、それとな。ここの一番奥にあるシィの部屋にも勝手に入っちゃダメだぞ。ぜったいだ」

「いや、ますますそんなことしないよ。僕をなんだと思ってるんだよ」

「む、そ、そうだな。うん」

「それは離れのことと関係があるの?」

「んんん、ない、といえばないが、あるといえば……」


 ハスビヤが悩み出す。

 よくわからないが、どうやらハスビヤ自身も嘘がつけるタイプではないらしかった。



 ◆ ◆ ◆



 二日後、街に降りて驚いた。

 人、人、人。いったいどこにこれほどの人が隠れていたのかというくらい、たくさんの、そして様々な人種で街が賑わっていた。


 景観も大きく変わっている。まだ壊れた建物がちらほら残る商街区には露店が所狭しと立ち並び、その先の、今僕たちがいる大広場にまで溢れている。至る所に積み上がっている木箱や麻袋。すでに肉や魚の焼ける匂いも漂っていた。祭りと同じくして大市も開かれるのだという。


 大広場の立派な演説台では、グレニド市長が長い長い開会の挨拶を述べ続けている。シーズニアの出番はこの後らしいが、袖で待つ僕は正直うんざりしてきていた。


「……まだ続くのかよ」

「上流人の演説はこういうものです。まだまだ序の口ですよ……そんな顔しなくても、これはもうすぐ終わります。祭りの始まりを告げる鐘の時刻が迫っていますので」


 僕は背後を仰ぎ見る。広場を睥睨するようにそびえる鐘楼は、この街で一番高い建物だろう。と言っても四十メートル程度だが。鐘は夜明けや昼にいつも鳴っているが、昇降機もなしに上り下りするのは大変そうだなとぼんやり思う。


「ハスビヤは連れてこなくてよかったの? 本人は来たがってたけど」

「まだ怪我が治ってませんので。あまり無理をしてほしくありませんからね」


 杖なら片手で持てるっ、と喚いていたハスビヤを思い出す。


「ケイもいることですし」

「あまり僕をあてにされても困るんだけど。もしものことを考えたら、やっぱり連れてくるべきだったと思うな」

「もしものことを考えて置いてきたのです――こんなところで、あの子に死なれると困りますから」


 シーズニアは、少しだけ真剣な顔で言った。

 どうも、彼女は先を見据えているというか、なにかはっきりした目的があるふしがある。詮索する気はないけど。


「ふうん。骨折を治せる魔法使いとかいないの?」

「浄血の塔や金匙の塔の魔術師でしょうが、この街にはいませんね。そもそもハスビヤやグレンのように、塔や師匠についてきちんと学んだような魔術師は少ないですから」


 へぇ、と僕は呟く。

 あの白狼人の若者も魔術師だったなんて意外だった。


「むしろ、ケイはそのような魔法は使えないのですか?」

「骨折はちょっと無理だな。できるのは外傷の応急処置くらいだ」

「でも、怪我の治りは異様に早かったと思いますが」

「あれは魔法じゃない。ナノマシンっていう……小さい機械が僕の体に入ってて」


 僕はナノマシンの概要をそれらしい言葉で説明する。

 シーズニアはそれを、特に驚くでもなく聞いていた。ただ自己増殖のくだりで、少しだけ意外そうな顔をする。


「ひとりでに増えるのですか……まるで生き物ですね。そんな物を人が御しきれるのですか?」


 僕は言葉に詰まる。

 シーズニアの言うとおり、人間はこの技術を持て余していた。


 どこぞの企業が、統一法で厳に製造が禁じられた自己変異性ナノマシンを流出させたのが十年ほど前だ。幸いグレイグーの危機には陥らなかったものの、電子機器に侵襲的な変異をした個体が世界中に広がり、今も各国が対応に追われている。僕たちのクエストも、三割くらいは暴走した電子設備絡みだった。


 シーズニアになんと答えたものか迷っていると、彼女が演説台の方を向く。


「ああ、もう終わりますね」


 言われて、僕は市長の演説に耳を傾ける。


「――市民諸君、『勇者』を恐れるな! 先祖たちがこの街を開いた時代、第三代魔王エンディエドが『勇者』の凶刃に斃れ、この国は暗黒期を迎えた。そして今、再び我らに『勇者』の剣が迫りつつある。だが二百年前とは違う。魔王様は今、我らと共にあらせられる! この戦いで辛い思いをした者も多いだろう。しかし今このときを堪え忍ぶことが、人間帝国と、『勇者』への鉄槌となるのだ! この記念すべき日に賜れることを、感謝しよう。我らの王の言葉を」


 聴衆が沸く。

 僕は少しほっとした。この空気なら石を投げられることもないだろう。


「それでは少しばかり話してきます」

「ああ。気をつけて」


 歩き出しかけていたシーズニアは、ぽかんとして僕を見た。

 それから、なぜだかにっこりと笑う。


「はい」


 聴衆の歓声を全身に受けてシーズニアが演説台に上がると、魔王らしく格式の高い、しかし年齢相応の隙も見せるような、いかにも民衆受けしそうな修辞レトリックで話し始める。それを感心しつつ聞きながら、僕は内心で首をかしげる。


《さっき僕、なにか変なこと言ったかな》

《メルズ語における“気をつけて”に、物事を行う人間を気遣うような用法はない》

《ああそうか。つい統一語の感覚で喋っちゃうな》

《ニュアンスは伝わったと推測》


 じゃあいいか。

 僕は息を吐く。なんとなく、市長の最後の演説が耳に残っていた。


 勇者、か。

 悪の魔王、正義の勇者。現代の人間ならほとんど誰しも抱いているイメージだ。だがそれはあくまで、蒼文石版ラズリスに刻まれた旧世界時代の記録が、人間帝国視点で書かれていたからでしかない。魔王国マグナ・メルジアの国民にとって、勇者は少なくとも正義の味方ではないだろう。具体的にどんな存在なのかは、未来人の僕にはピンとこないけど。


 いや、待てよ。そういえば――――、



『――――ケイ、知ってた? 勇者って、実はね――――』



「あ……」


 僕は不意に思い出した。たしか……、


《エコー、内蔵辞書の“勇者”の項目を読み上げてくれ。最後の意味だけで――》



「不敬を承知で願い奉る、魔王よ! 我が問いに答えられよ!」



 演説の切れ間に、大気を振るわす大音声が響き渡った。

 シーズニアが、いや、誰もが静まりかえる。聴衆を割るように、一つの影が歩み出た。

 厚い毛皮に板金を当てた珍しい形の全身鎧。背に提げているのは、出縁フランジが組み合わされた菱形の戦棍メイス。異様なのはその体躯だ。兜込みだと身長は二メートル半に迫ろう。大柄な類人種と言えばたしか、蛮豚人オルコイド真巨人ネフィリエ・ノルマリスとかがいたはずだ。

 シーズニアの表情は見えない。厳かな声が発せられる。


「場をわきまえなさい。今、その時でないのがわからないのですか」

「申し訳ないが承諾しかねる。我には今この時しかないゆえ」


 鎧の男に聞き入れる気はないようだった。

 僕は迷う。武装している以上危険と見ていいし、おそらく市民ではなく流れの傭兵かなにかだろうが、僕が手を出すと民衆との対立が決定的になりそうで躊躇われる。この街に公的な警察組織はない。市長子飼いの自警団は動く気配がなかった。舌打ちしそうになる。


「魔王よ、何故戦争を始めた! 人間の帝国とこの国は長く平和を保っていた。今では多くの交易を持ち、帝国に住む魔族も、魔王国に住む人間も現れるようになったではないか! 皆が豊かさを享受していた! 何故、百年前の戦乱の世に戻る必要があったのだ!」


 僕にはシーズニアの戸惑いが想像できた。開戦は無論、彼女の政策ではない。しかし民衆にとっての統治者は、あくまで魔王シーズニアでしかない。


「皆が豊かさを……ですか。あなた方の認識は、やはりそうなのですね」


 だが、魔王の声音は予想と異なるものだった。

 まるで、失笑しているような。


「愚かな問いに答えましょう。それは、私が魔王であるから。世界に――破壊と混沌をもたらすために他なりません」

「何……?」

「平和? 笑わせます。人間たちや一部の魔族すら魔王の本質を忘れてしまったことに、私は言葉もありません。しかしよもやその方も、初代魔王の降臨譚は知っていましょう」


 大男が立ち尽くす。

 民衆は静まりかえっていた。


「初代魔王はその圧倒的な力により、およそすべての魔族を瞬く間にまとめ上げ、我らが領土に巣くっていた人間たちに蜂起しました。竜の火炎で都市を焼き尽くし、病毒の魔獣が穀倉地帯を不毛の地に変え、人間を放逐した末に、魔族たちの王として君臨した。後に残ったのは荒れ果てた土地ばかり。しかし、我ら魔族はそこから発展を遂げ、今や大陸随一の強国となりました。破壊と混沌。これこそが魔族の原点であり、魔王の本質なのです」


 シーズニアの声には熱がこもっていた。それも、どこか濁った熱。


「偽りの平和などくだらない。この程度の豊かさなど無価値です。世界はまだまだ富が不足している。だから、私は破壊しましょう。混沌をもたらしましょう。真の平和は、真の豊かさは、その先にある! 私が成し遂げるのです! 初代以後の不甲斐ない魔王たちに代わり、この魔王シーズニアが! 世界の変革を!」


 聴衆が一斉に沸いた。

 無茶苦茶な内容なのに、どこか真に迫る。きっと魔族や魔王の根底に破壊や混沌があるのは事実なのだ。未来の魔王のイメージと同じように。


「理解した!」


 大男の叫びに、民衆が静まる。

 おもしろい出し物とでも思っているのだろう。誰もが役者の次の台詞を待っている。


「人々の苦しむ声に、耳を傾ける気はないということだな」

「実はあなた方がその要因の一つなのですが」

「ふっ……左様であったな。では我は、我の本分を果たすとしようか」


 鎧の男が背のメイスを抜く。

 僕は肌が粟立つのを感じた。手にした武器以上に、右腕の防具に目が引き寄せられる。手甲ガントレットから上腕当てアッパーカノンにまで彫り込まれた、幾何学的な紋様。

 僕が走り出すのと、男が名乗りを上げるのは同時だった。


「我こそは覇原の塔次期塔首、勇者ブルクテル! 悪の魔王よ! 我が手で滅びよ!」


 右腕の魔法陣が眩い励起光を放った。

 勇者! 人間だったのか?! あのでかさで!


「さがれシーズニアっ!」

《“アカツキ・StandardEdition”をロード》


 シーズニアの手を引きながら、高速でレーザー魔法を展開。

 あの程度の金属板なら一秒未満で貫通できる。正しい判断。そのはずだった。


 男を貫くはずの紫色の光線は、さらなる爆光と砂煙に飲み込まれた。反射的にシーズニアを後ろに庇うが、あまりの光に腕をかざすことしかできない。


 光が上昇し、僅かに弱まった。必死に瞼を開ける。

 ブルクテルと名乗る勇者の姿を探すが、いない。代わりに奇妙な建造物が出現していた。二つの台座から伸びる歪な塔……違う。悪寒と共に強烈な光差す上方を見上げる。僕は愕然とした。


 そこにいたのは、光輪を背負う巨大な鎧姿だった。


 大柄な魔族、などという次元じゃない。

 ちょっとしたビルほど、全長三十メートルは超えている。姿形は先ほどまでの大男そのままだが、眩い光輪を背にしたその偉容は、神の顕現と言われても不思議じゃなかった。

 逃げ惑う民衆になど構わず、巨大な勇者は僕たちに向かって声を発する。


「ヴァァアアヴォ、ヴォォォオオオオオッッ!!」


 もはや言語ではない、重低音の雄叫びだった。ほとんど音響兵器だ。大気の振動で手にしたハーモナイザーが震える。一瞬意識が飛びかけた。

 なんだ、これは……。

 勇者ブルクテルが、途方もない大きさのメイスを振り上げる。僕はそれを見ている。


《警告。ランクA+》


 危機予測アラートで我に返った。エコーの寄越した未来図を確認し、目眩がする。シーズニアの手を引いて走り、ギリギリのタイミングで横に飛んだ。背後で轟音。一瞬後、演説台だった瓦礫が先ほどまでいた場所に砕け散った。


 単に武器を振っただけでこの大破壊。洒落にならない。

 シーズニアを抱き起こしながら僕は告げる。


「街の方に逃げろ」

「でも、私がっ……」

「いいからっ! 君がここにいると戦えない!」


 シーズニアは僅かに逡巡した後、手近な街路に駆けていく。今ので足を負傷していなかっただけ、僕も彼女も幸運だ。

 ナノマシンの脳内物質調整が追いついてくる。余裕のない言い方をしてしまった、なんて考える余裕まで出てきた。さて、ここからだ。


 ブルクテルは体を起こし、逃げるシーズニアを見据えて一歩踏み出した。それだけで地震のように足下が震える。二歩、三歩。早い。あの巨体で、普通の人間とほぼ同じ歩行をしている。シーズニアとの距離が瞬く間に縮まる。


「僕を無視するなよ」

《“基本盗賊シリーズ・万能鍵マスターキー2―ExL”をロード》


 魔法陣より直径一・二メートル、重量八トンの鉄球が射出。勇者の脛当てグリーブに側面から命中し、巨大な音を立てて跳ね返った。ブルクテルが歩みを止め、光輪で逆光になったヘルム越しに僕を見下ろす。不快な鼠でも見るかのようだ。


 僕は眉を顰める。

 “万能鍵2”の最大サイズExLは強化コンクリ壁の破壊用なのだが、脛当てグリーブには微かな凹みすらない。だがブルクテルに合わせて鎧も巨大化したとすると、縮尺から考えて厚さはせいぜい数センチのはず。傷一つつかないのは妙だ。


 勇者がメイスを振り上げる。まあいいか。注意は引けた。

 横薙ぎの一撃。大広場の石畳を破壊しながら迫る鎚頭メイスヘッドを、前に飛び込んで躱す。土埃を浴びながら僕は笑う。やはり巨大なだけに動きは鈍い。そして、いい位置だ。


《“アカツキ・StandardEdition”をロード》


 再びレーザー魔法を展開。狙いは胸当てブレストプレート腰当てフォールドの隙間、毛皮でしか守られていない急所だ。ここからなら狙える。確実に貫ける。

 紫の光線が奔り、勇者の胴に突き立つ。


「ヴォヴァァオアアアッッ!」


 ブルクテルが足を持ち上げた。鉄靴サバトンの影が石畳一面に広がる。予想していなかった行動に、僕は一瞬反応が遅れた。頭の中でアラートがわめき立てる中、すんでの所で踏みつけを回避する。


 なぜ動ける? 奴の胴を見やり、目を疑った。貫通していない。着弾地点の毛皮に微かな焦げが見られるが、それだけだ。どういうことだ?


 必死で思考を働かせる。

 そもそも、人間があれほど大きくなるのは構造的に不可能なはず。体重が肉体の代表長さの三乗に比例するのに対し、筋力は二乗にしか比例しない。今のブルクテルは巨大に過ぎ、本来は自分の体重すら支えられないはずなのだ。


 巨大化は見せかけで、質量は変わっていない? いや、それではあの破壊力の説明がつかない。それに、装備の強度が上昇するという謎の事象もある。


 奴の巨大化原理はなんだ?


《警告。ランクA》


 再びメイスが振られる。今度は勇者から離れるように走った。

 一度仕切り直した方がいい。


 出縁フランジが石畳に叩きつけられる。瓦礫を避けるように大きく飛び退いた。体勢が崩れる。

 そのとき、巨大な勇者の膝が撓まれた。

 鉄靴サバトンが浮く。

 鎧姿が、さらに大きくなる。

 いや――大きくなったんじゃない。近づいているんだ、僕へと――。

 巨木のような腕が迫る。

 跳躍ジャンプした……!? あの大きさで!?

 我に返ったときは遅かった。


「が……ッ!」


 体を鷲掴みにされる衝撃。

 そして、ぞっとする浮遊感。

 瞬く間に僕は上空へと持ち上げられた。


 ブルクテルのヘルムが正面に来る。

 威圧感に、ナノマシン制御から恐慌が漏れ出る。

 とっさにハーモナイザーを支えさせて握り潰されることは防いだ。が、こんなのはいつまでも保たない。焦りのままに脱出のためのレシピを全力で検索する。さらなる浮遊感。ブルクテルが僕を頭上に掲げる。背筋が凍った。地面に叩きつけるつもりなのだ。


 だめだ。

 なにも間に合わない。

 僕は死ぬ。


 死ぬのか――やっと、僕も――――。


「ケイ――――っ!!」


 名前を呼ぶ叫び声。僕ははっとした。ブルクテルの背後に、シーズニアの姿が小さく見える。

 あいつ……っ!


「なにやってんだ! 街の中に戻れっ!!」


 ブルクテルが不審そうに動きを止める。僕の視線を追うように、後ろへ振り返った。僕は無我夢中で、最近使ったレシピ欄から適当な魔法を選び取る。


《“基本盗賊シリーズ・万能鍵マスターキー2―ExL”をロード》


 巨大鉄球がヘルムへとぶち当たる。

 さすがに頭への衝撃は効いたようで、ブルクテルがよろめいた。握力が緩んだ手のひらを強引にこじ開け、僕は空へと逃れる。自然落下しながらさらにレシピを選択。


《“基本盗賊シリーズ・けむり玉1”をロード》


 煙幕を最大出力で展開。着地と同時に転がって、衝撃を散らす。痛覚優先度を下げつつ立ち上がり、シーズニアの下へ走りながらさらに煙幕を張る。眩い光輪も、曇天時の陽光ほどにまで曇った。舌打ちする。隠れるには足りない。追撃を防げるか?

 シーズニアに駆け寄って腕を掴む。


「なんで戻ってきたっ! 君がいてもなんにもならないだろ!!」

「わ、私が隠れれば、勇者は街を破壊し始めます!」


 おそらくそうなるだろう。あの勇者ならばクルーストすべてを瓦礫の山にだってできる。だけど僕は、死の危機を前にして街の被害を心配するシーズニアに、無性に腹が立った。


「そんなことは生き残ってから気にしろ! 今は逃げるんだ」


 なおも抵抗するシーズニアを、僕は無理矢理引っ張っていく。

 魔王の力は、やはりただの女の子と変わらない。


 不思議なことに、勇者に動きが少なかった。僕らを探すように光輪が揺れる程度だ。僕らを見失ったのか? この程度の煙幕で? だがそれならそれで、闇雲に暴れ回るかと思ったが――。


 違和感があった。



 ◆ ◆ ◆



 煉瓦壁に背を預け、息を整える。

 十分離れたとは言いがたいが、姿は隠せた。

 僕は傍らにしゃがみ込み、肩で息をするシーズニアに問いかける。


「怪我は?」


 シーズニアは俯いたまま首を横に振る。


「……そりゃよかった」


 こちらはそうはいかない。

 足、腰骨、肋骨のあたりに不快な激痛がある。数カ所に亀裂骨折があるようだった。二十メートル超の高さから落ちればこうもなる。痛覚優先度を戻せば動けなくなるほどだ。


「……馬鹿じゃないのか、君は」


 つい、不機嫌な口調になってしまう。


「ご立派な王さまぶりもいい加減にしてほしいな。知ってたか? あの化け物が殺したいのは君なんだぞ」

「……私が、逃げれば」


 弱々しい口調でシーズニアが答える。


「今度こそ……人々は、私を決定的に見限るでしょう。彼らが今、望むのは……あの『勇者』が去って、平穏が戻ること……私の生存では、ないのです。……この規模の都市に……見限られれば、私は、いずれ国民の承認を失う。魔王で、居続けられない」


 シーズニアは顔を上げ、虚空を強いまなざしで見据える。


「それでは、だめなのです」


 僕は舌打ちする。

 いったいなぜそこまで魔王に執着するのか。


 幸いと言っていいのか、まだ勇者に動きはない。

 風がやみ、煙幕が滞留しているせいかもしれないが、妙に悠長だ。手当たり次第に建物を破壊し始めてもよさそうなのに。


 そもそも、あれはどのような魔法なのか。

 僕は思考に沈む。


 巨大化に比例した重量の増加。それでいて、跳躍できるほどの高い運動能力。通常の物性からは考えられない強度を持つ装備。

 大きくなる方法なんて限られてる。たしか――、


《エコー、アーカイブしてる魔法技術雑誌を検索しろ。キーワードは“巨大化”“原子半径”“不確定性原理”だ。適合度の一番高い記事を要約してくれ》

《適合記事、七件。一件の記事を要約中……》


 そして、エコーが滔々と記事内容を読み上げ始める。


《“巨大化の実現に向けて。ミクラ大学のデボン教授率いる研究チームが、魔法による原子半径の拡大に成功した。作用量子プランク定数hの値を局所的に大きくすることで、不確定性原理により電子の存在位置の不確定さであるΔxが増加、原子内における電子雲領域が増大することを利用したものである。拡大と同時に電磁気力を媒介する光子や、慣性質量の一部を決定する質量決定ヒッグス粒子の相互作用を操作することにより、重量や物理的性質までも比例させた、原子の真なる巨大化も理論上は可能だという。教授らは、旧世界時代に存在した物体の巨大化魔法は、この原理を用いていた可能性が高いと話す”》

《……大当たりだな、この教授》


 これ以外に考えられない。

 奴は、自分の構成原子ごと巨大化しているのだ。


 原子そのものが重さや静電気的な特性ごと大きくなれば、当然二乗三乗の法則には囚われない。熱や衝撃にだって強くなるだろう。大きくなったというより、自分以外が小さくなったみたいなものだからだ。しかも、脆さはそのままで。


 奴だけが圧倒的に有利な物理法則に生きているようなものだ。

 そんな相手をどうやって倒せと言うのだろう。


「……ケイこそ、らしくないことをしますね」


 シーズニアが不意に呟く。


「私が来たときは今にも死にそうに見えましたが、魔王と一緒に沈む理由はなかったのでは? どうしてもというのなら、今から使い魔にしてあげても構いませんが」

「……ちょっと気を抜いただけだ。君のために死ぬつもりなんかない」

「あの『勇者』を、ケイは倒せるのですか?」


 僕は沈黙で答えるしかなかった。攻略法など見当もつかない。

 す、とシーズニアが立ち上がった。そのまま、なにも言わず歩き出そうとする。


「どこ行くんだよ」

「『勇者』と交渉します」

「は?」


 シーズニアは僕と目を合わせずに言う。


「魔王国陣営につくよう説得するのです。たとえ私が死んでも、人間帝国の敗戦は確定です。寝返る方が利益を得られます。私でも、使い魔リクトルの地位ならば保証できる」

「正気か? 僕のときとはわけが違うんだぞ」

「そんなことわかっています!」


 そのとき、地鳴りのような音が響き渡る。

 思わず顔を向けると、舞い上がる土埃とメイスを振り下ろした巨大な勇者の姿。後光を纏うブルクテルが再びメイスを振るうと、巨大な音と共に瓦礫が空を舞い、建物が破壊される。

 今さら動き出した? 煙幕は完全に晴れたようだが、ここまで待たずとも視界は……、


「っ! 待てって!」


 走り出そうとするシーズニアの腕を掴む。僕は、はっとして固まる。


「はなしてください!」


 シーズニアが抵抗する。引き剥がせないと思ったか、僕を振り向き、静かな調子で言う。


「あなたが私の言動を不快に思っているのは知っています。力がないのに志ばかり高い、愚かな王だと思っているのでしょう。勘違いしないでください。私は、私の目的のために行動しています。国や街や民のためではなく、他ならぬ私自身の目的のために。それには民衆に見放され、魔王でいられなくなるのは困るのです。あなたに止められる理由はありません」

「……おそらく失敗して、死ぬとしてもか」

「そうなる可能性が……少しだけ高いというだけです」


 シーズニアは、最後に顔を背けた。

 僕はずっと感じていた苛立ちの正体に気づく。


「そう簡単に……」

「え……?」

「そう簡単に、自棄ヤケになるようなこと言うな」


 ニルヤの声で。


 僕は、ようやく思い至った。シーズニアは、少しニルヤに似ているのだ。声だけでなく、たまに理屈っぽい喋り方をするところや、よく人を振り回すところ、意志の強いところや、近くにいると少し眩しいような高潔さを持っているところが。


 もちろん違うところの方が多い。ニルヤはもっと感情を表に出す賑やかな女の子だったし、それに、なによりも意志の強さに実力が伴っていた。〈勇者ブレイブ〉職として、アヴノ・テジェンドラ社の高レベルパーティを率いるだけの実力が。


 シーズニアには力がない。魔王の実権はほぼ取り上げられ、味方も少ない。自分で戦う術もない。だから、こんな状況に陥る。志のために、危険な賭けに出ざるを得なくなる。本当は震えるほど怖いくせに、自分を殺そうとしている相手と無謀な交渉をしようとする。


 ニルヤに似てるくせに、全然うまくいってなくて。

 僕は、それがもどかしかったのだ。


「あの勇者は僕が倒す」

「え……可能、なのですか? でも、どうやって」


 僕は思考を整理していく。

 ずっと違和感があった。


 なぜ光輪あんなものを背負っているのか。

 なぜあそこまで過剰な防具を纏うのか。

 なぜ遠くのシーズニアの叫びだけでなく、近くの僕の声すら聞こえない様子だったのか。

 そしてなにより、跳躍できるほどの身体能力を、どうして常に発揮しなかったのか。そうすればもっと早く終わっていたのに。


 シーズニアの腕を掴んだとき、思ったことがあった。

 この微かな震えや体温を、巨大原子の手は感じとることができるだろうか。


 おそらく、無理だ。それは二律背反トレードオフの関係にあるものだから。

 一人だけ有利な物理法則に生きる。それは、僕らの物理法則に生きられないということ。


 そうだ。

 やはりあの巨大化魔法には、致命的な欠陥が存在する。


「……一番いい選択は、逃げることだ」


 僕はゆっくりと話す。


「勇者は完全に僕らを見失ってる。この街を出て違う場所に避難するんだ。まず見つからないし、見つかっても逃げ切れる。確実に安全だ。でももし、この選択をする気がないなら――」

「ないなら?」


 シーズニアが問い返す。

 逃げる気などないことは、その表情から明らかだった。


「勇者を倒して、この状況を打開するしかない」


 僕はシーズニアをまっすぐに見つめて告げる。


「そしてそのためには、君にも戦ってもらう必要がある」



 ◆ ◆ ◆



 ブルクテルが動きを止める。

 土埃に霞む視界に、魔王の姿を認めたからだ。

 兜の奥で眉を顰める。逃げる様子はなく、むしろあちらから姿を見せたようだ。はっきりとわからないが、なにか呼びかけているように見える。


 今ならば斃せる。

 メイスを振るうだけで、容易く。


 街や住民の被害を無視して逃げられれば、おそらくもう討つことは叶わない。

 それは、これまでの長い旅がすべて無為に期すことを意味した。たとえ塔に戻っても、もはや居場所はないだろう。


 僅かな逡巡。


 ブルクテルは、手甲ガントレットの魔法陣を想起イメージした。

 意識を紡ぎ、魔法を編んでいく。

 公正な勇者などという幻想が、未だに自分の中に残っていたことに呆れながら。



 ◆ ◆ ◆



「ふうん……」


 勇者が鎧ごと縮んでいく様子を、ナノマシンにより増強された視力で観察する。


 魔法を解除しているというよりは、少しずつ小さくなっている感じだった。

 不確定性原理がΔx×Δp≧h/2だから、作用量子プランク定数hを減少させれば逆に電子雲領域が縮小するのだろう。仮に元の体よりも小さくなれるなら、城門で騒ぎを起こさず街に入ってこれたことも頷ける。


「さて……」


 僕は機を待つ。



 ◆ ◆ ◆



 魔王を正面に立つ。

 元の姿に戻っても、その存在はブルクテルよりもずっと小さい。


「覇原の『勇者』よ、我が方につきなさい」


 ブルクテルは失笑する。

 予想したとおりだった。


「あなたは私を討てない。私が死ねば、魔王国は帝国の首都を焦土に変える大義名分を得る。そして、いずれはその通りになるでしょう。あなたのその後の命運も知れたもの。私の使い魔リクトルとなり、魔王へ忠誠を誓うのです。そうすれば、あなたやあなたの一族は……」

「断る」


 魔王はしばしの沈黙の後、口を開く。


「何故。あなたにとって、最も利益の大きい選択のはずですが」

「決まっている。それは正義にもとる行いだからだ」


 ブルクテルは声を張る。


「我が祖国を滅ぼさんとする敵に忠誠を誓うだと? そんなことは我が信念が許さぬ。戦争の行く末も、我の命運も知らぬ。そのようなことは我が推し量れるものではない。我がすべきは、帝国から託された魔王討伐の任を果たすことのみ。これこそが正義であり、我が、今も戦っている同胞たちのためにできる唯一のことだ」

「……なるほど。理解できます」


 魔王は表情を変えず、意外な言葉を放った。


「情報の乏しい物事の判断を共同体に委ねるのも、自分の命よりも同胞の命を優先するのも、共同体全体の利益を最大化する合理的な行動です。正義を、所属共同体の利となる行為と定義するならば、あなたは紛れもなく正義の勇者でしょう」


 魔王は口の端を歪める。


「まったく愚かしいことですが」

「……何?」

「あなたの共同体は、今まさに滅びようとしているのですよ? そんなことを気にしてどうなるというのです」

「っ、貴様……」

「あなたも、本当はそれを理解している」

「……」

「にも関わらず正義に囚われるなど、愚かしいと言うほかない。生来の機能に生涯囚われる虫の行いと変わりません……もう、いいではないですか」


 魔王の甘言が響き渡る。


「あなたは過酷な旅を続けてここまで来たのでしょう。もはやすべてが遅きに失しましたが、仕方がなかったのです。同胞たちへは十分報いました。あなたももう、報われていいのですよ」

「……そのような口車になど乗るか。我を寝返らせようなど、姑息が過ぎる」


 かろうじてそう口にすると、魔王は表情を消し、あからさまに溜息をついた。


「まったく頑なですね。どうでもいいではないですか、国や同胞や正義など。それらがいつ、あなたに報いました? くだらぬ信念などに囚われず、望むままに生きればいいのに」

「国や同胞が、どうでもいいだと? 貴様は、仮にもこの国の王ではないか。それを……」

「言いませんでしたか?」


 魔王の少女が、満面の笑みを浮かべる。


「私の望みは、――――――――――。――――――――――――――」


 ブルクテルは、胸中に怒りが満ちるのを感じた。

 あってはならない、このような君主など。


「ようやく確信できた」


 メイスを構え、上腕当てアッパーカノンの魔法陣を想起イメージする。


「貴様はやはり悪の魔王だ。人間の小娘の姿をしていても、初代から続く邪悪な血は隠せぬようだな」


 魔王は肩を落とす。


「やっぱり、慣れないことをするものではないですね。ついむきになって余計なことを……まあ、」


 魔王の視線が、一瞬右方に向けられる。


「問題はありませんが」



 ◆ ◆ ◆



 今だ。

 僕は待機状態にしていたレシピを解放する。

 光が奔った。



 ◆ ◆ ◆



 予感はあった。

 あの妙な使い魔リクトルの姿が見えなかったからだ。


 魔王の視線が流れ、視界の端に一瞬光が映ったとき、それは確信に変わった。

 メイスを右方へ放る。同時に上腕当てアッパーカノンの魔法陣を想起イメージし、魔法を紡いだ。瞬く間に巨大化した鎚頭メイスヘッドが、ブルクテルの右側に壁となって横たわる。

 その出縁フランジが、ブルクテルの心臓を狙った、薄紫の熱線を受け止めていた。


「くだらぬ」


 光の魔法に狙われながらも、ブルクテルの目は、背を向けて逃げ出す魔王に向けられる。

 街に潜む使い魔リクトルなど捨て置け。今はあの、卑劣な魔王を討つべきとき。

 鎧に刻まれた魔法陣が、強く光を放った。



 ◆ ◆ ◆



 莫大な励起光と共に再び巨人と化した勇者が吠える。


「ヴァァアオウウゥッ、ヴォオオアアァァウオウ!!」


 僕は耳を塞いでいた手をどける。

 声帯が巨大に過ぎるせいで声が低すぎ、やっぱりなにを言っているか聞こえない。


《エコー、あれの音域を戻してくれ》

《『覚悟せよッ、愚かなる魔王よ!!』》

「ハッ」


 僕は鼻で笑う。

 愚かはお前だ。


 レーザー魔法の立体映像を、僕の攻撃と思い込んだのだから。


 “ルミナスビュー”はフリー版のせいで範囲がギリギリだったが、ばれなかった。そもそも光に気づいて防御したところで本来は間に合わないはずなのだ。勇者には科学的知見が足りてない。


 ここまで予定通り。

 眼下には、走るシーズニアとそれを追う巨大な勇者。

 広場に面したこの鐘楼からならば、あの巨人も見下ろせる。


 シーズニアは言った通りに、この下を通るよう逃げている。

 だが、思ったより勇者の歩みが早い。このままでは追いつかれる。


 勇者が鐘楼の下に差し掛かった。光輪の爆光に思わず目を細める。手甲に覆われた腕が、メイスを振り上げるのが見えた。

 だめだ。予定になかったが仕方ない。


《“基本盗賊シリーズ・万能鍵マスターキー2―ExL”をロード》


 巨大な鉄球が鎚頭メイスヘッドに激突。大きく弾いた。巨人が戸惑いに揺れる。動きが止まる。

 今だ。


「よくやったよシーズニア」


 僕は鐘楼の縁を蹴り、空中へ身を投げ出した。

 浮遊感に包まれる。

 一瞬後、僕は巨人の左肩に着地。

 そしてハーモナイザーを、鎧の隙間に思い切り突き立てた。


「ヴオォゥアッ!?」


 さすがに気づかれた。ブルクテルが動揺の声を上げる。

 次の瞬間、足下が激震した。

 右に左に振り回される。勇者は必死に僕を振り落とそうとしていた。僕は右手でハーモナイザーを握り、左手で板金プレートの縁を掴み、足を鎧の凹凸に引っ掛けて懸命に耐える。


 この展開も予想通りだ。

 左手は鎧の可動域の関係で僕に届かない。右手を伸ばすにはメイスを手放さなければならず、必ず躊躇いが生じる。

 これは耐えられる。勝ちだ。


 読み込んでいたレシピの変数域を入力する。

 そのとき、一際大きく鎧が揺れた。ブルクテルが向きを変える。正面には鐘楼。

 一瞬で理解し、背筋が凍った。

 あれに体当たりする気なのだ、僕ごと。

 これは予定外だった。焦りのままに別のレシピを選択する。


《“基本盗賊シリーズ・万能鍵マスターキー2―ExL”をロード》


 鉄球が至近距離からヘルムへと射出。だがそれは直前で、巨大な右手に鷲掴みにされた。

 右手? 攻撃を察してメイスを手放したのか? まずい、そっちの手は僕に届く――。

 しかしそこで、ブルクテルの動きが急に鈍った。

 鎧が緩やかに上下する。


 僕は瞬時に理解した。

 呼吸が乱れたんだ。


 これも予定外。

 だが――予定外の好機だ。

 準備していたレシピを選択。変数域を素早く入力し、そして、大きく息を吸って止めた。


《“ネオンちゃんの化学研究室ケミカル・ラボ”をロード》


 魔法が展開。励起光は瞬いたが、周囲の景色にはなんの変化も起こらない。

 ブルクテルの右手が鉄球を放った。それは続いて、左肩に乗る僕を握り潰さんと迫る。

 だが右手は、空中で引きつったように停止した。


「ヴァ……ッ……ゴァ……」


 ブルクテルが手を伸ばした先は、喉元だった。両手でヘルムの上から猛烈に掻きむしる。時折聞こえる唸り声は、苦痛の絶叫だった。


 光輪が光の粒子となって消滅する。

 足下が急に落下し、衝撃。勇者の膝が落ちていた。鎧が痙攣、前傾して倒れていく。


 僕はハーモナイザーを引き抜き、板金プレートを蹴ってブルクテルから離れる。

 着地して転がると全身に不快感。膝は落ちていたがまだ高すぎた。ひびの入った骨に響く。

 “化学研究室ケミカル・ラボ”を解除。止めていた息をようやく吐く。

 次の瞬間、轟音と共に勇者が広場に倒れ伏した。


 横たわるブルクテルを注意深く見やる。手甲ガントレットの魔法陣が瞬いた。一瞬身構えたが、縮んでいく全身を見て警戒を解く。

 まだ魔法を扱えたのは驚きだが、もう戦えないだろう。


「終わった……のですか?」


 振り返ると、シーズニアだった。

 僕は目を眇める。


「まだ出てくるなって。死んでないんだから」


 シーズニアは答えずに、勇者へと近づいていく。僕は慌ててそれを追いかける。

 ブルクテルはうつ伏せに、荒い息を吐いていた。

 僕らに反応する様子もない。


「これは助かりませんか?」

「そうでもない。百パーセント酸素呼吸……いや、普通に息させてるだけで治るかも」

「兜を外してください」


 僕は肩をすくめ、勇者へ近づく。ヘルムをつかみ、そのまま脱がす。

 ブルクテルの正体は、栗色の短髪に色白の、凡庸な顔の男だった。


「つまんないな。ただのでかい人間かよ。実は魔族だった、みたいな展開じゃないのか」

「貴、様……」


 ブルクテルが呻く。

 少し驚いたが、魔法が扱えるんだから口もきけるか。


「な、にを、した……あの、姿の我を……倒す、など……」

「ずいぶんあの魔法に自信もってるみたいだけど、実際そんなにいいものでもないだろ、あれ。寒くて暗くて息苦しい、なにも聞こえない中戦うなんて、僕はやりたくないな」


 ブルクテルが目を見開く。


「なぜ、だッ……貴様、覇原の奥義の秘を、なぜ……」

「そんなもの、考えればわかるだろ」


 やれやれ。僕はまた解説するのか。


「構成原子ごと巨大化すれば、たしかに自重で潰れることなく質量と体積を増やせる。だけどその代償として、外界との相互作用が一切できなくなる。なにせ、原子の大きさが違うんだからな」


 僕は思いつくところを述べていく。


「視界はほとんど効かなくなるだろう。普通の光では巨大化した視細胞の興奮抑制が起こらない。多少の音じゃ鼓膜だって振動しない。空気の持つ熱量は相対的に小さくなりすぎ、周囲は凍てつくように寒い。そしてなにより――呼吸ができなくなる」


 ブルクテルは愕然としたように沈黙する。僕は構わず続ける。


「お前は視界確保のために強烈な光を放つ光輪を背負い、防寒のために毛皮に板金を張った鎧を着ていた。そして、息が切れるのを恐れていた。呼吸のためには気体分子をいちいち巨大化させる必要がある。激しい呼吸なんて不可能だったんだ」


 理論上は人体と変わらない動きができるはずなのに、終始動きが鈍かったのはそのせいだ。街の破壊に消極的だったのも同じ理由か、もしくは舞い上がる粉塵で視界が効かなくなるのを嫌ったためか。

 ブルクテルが咳き込み、僕を睨む。


「貴様は……我に何を……した」

「一酸化炭素だよ」


 僕は口の端を吊り上げる。


「空気中の酸素分子に炭素を結合させ、二分子の一酸化炭素に置換した。これは血中酸素濃度を低下させる。といっても純度が低く、風ですぐに霧散し、仮に僕が吸い込んでも正常空気での呼吸だけで復帰できただろう。だけどお前はそうはいかなかった。周囲の一酸化炭素が消えても、多量の呼吸ができなければ血中の一酸化炭素が排出できず、低酸素状態の組織を回復できない――お前は、お前の魔法の欠陥で負けたんだよ」


 “化学研究室ケミカル・ラボ”は一般的な化学反応の励起や抑制、一部の典型元素を生成するだけの汎用レシピで、取扱資格の要る専用魔法のような高威力の毒ガスは作れない。

 だけど、それで十分だった。


 シーズニアが一歩前に出る。


「『勇者』よ、こちらにつきなさい。あなたもあなたの一族も厚遇すると約束しましょう」


 僕は少し驚いてシーズニアを見た。

 まだ勇者を引き入れる気があるとは思わなかった。


「っ……ははっ……」


 ブルクテルは一瞬表情を歪め、乾いた笑い声を上げた。そして、僕を見る。


「魔王の、使い魔リクトルよ……貴様、人間だろう……」

「ん、まあ」

「その、実力……貴様も、勇者だったのでは、ないか……? なぜ……魔王に、従う……このような甘言を……聞き入れた、のか……」

「僕は勇者じゃない。別にシーズニアに従ってもいない。僕が戦うのは食事と寝床と、あとは」


 僕は皮肉を込めて笑う。


「戦って勝つのが好きだからかな」

「……ならばなぜッ! 魔族を相手に戦わぬッ!!」


 ブルクテルが突然叫んだ。

 憤怒の形相で地に手をつき、顔を上げて僕を睨む。


「わかっているのか!? これまでの人間と魔族の争いの歴史をッ、今このときの戦況をッ!! 人間と魔族が共に生きる、平和な世は失われたっ。魔王国が始めた戦争によってだ! 人間は、今度こそ滅ぼされるかも知れぬのだぞッ!!」

「落ち着きなさい。勇者ブルクテルよ」


 シーズニアが泰然とした声で告げる。


「人間を滅ぼすなど、決してしないと誓いましょう。魔族と人間が真に共存できる世界は、これから作られるのです。覇原の魔術師よ、あなたにも協力してほしい。私の望む未来の実現のために」

「……ふ……クク……魔王の望む……未来か……」


 ブルクテルは、体力を使い切ったように顔を伏せる。


使い魔リクトルよ、忠告、するぞ……この者は紛れもなく……邪悪な、魔王だ……自らの野望にのみ、従う、破壊と混沌の主……貴様もいつか、後悔する……この者を、守ったことを」


 僕は黙って聞いていた。

 ブルクテルの右手が、ゆっくりと腰当てフォールドのあたりに伸びる。


「……魔王よ、我も望もう……真の平和を……。我もその、礎となると、しよう」

「おや? そうですか、よかった。では――」

「貴様の……誅戮によってなッ!!」


 ブルクテルが腰から短剣を引き抜き、振るった。

 無理な体勢で、明らかに届かない距離だ。だが上腕当てアッパーカノンの魔法陣が発光。短剣が瞬時に膨張し、両手剣ほどの大きさになる。その切っ先は、十分シーズニアの首に届く――。


 死の数瞬前。

 巨大な瓦礫が、ブルクテルの手から短剣を弾き飛ばした。


 目を見開くブルクテルの首を、飛来した鉄剣が刺し貫く。さらに瓦礫が、鉄剣が、いくつも降り注いでいく。

 やがてブルクテルは、鉄と大理石に完全に埋まった。

 隙間から流れ出た血液だけが、彼の死を語っていた。


「ケイっ」


 声を振り仰ぐ。

 片腕を吊り、息を荒げたハスビヤが、建物の残骸に杖を手に立っていた。


「『勇者』の言葉なんて聞くな! そんな――」


 ハスビヤが表情を歪める。


「卑怯者の言うことなどっ!」


 僕は肩をすくめ、待機状態にしていた“クロガネ”や“万能鍵マスターキー”を引っ込める。

 ハスビヤが心配するようなことはなにもない。

 ブルクテルの言うことは、僕にとってどうでもいいことばかりだったから。


《ケイ主任。待機中のタスクが一件ある。キャンセルするか?》

《なんだ?》

《内蔵辞書の“勇者”の項目についてである》

《ああ、そうか……いや、今読み上げてくれ》


 実のところ、内容はほとんどわかっていた。


《ゆうしゃ【勇者】 ①勇気ある人。勇士――》


 ニルヤに、聞いたことがあったから。



《――②暗殺者。テロリスト。(旧世界において、勇者と呼ばれた人間が戦争の慣習を無視し、非戦地帯において魔王を誅殺した故事より)》

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