10

「ははは、やってやったぞ、馬鹿め!」


 コートの男は倒れた巨体を蹴り上げた。唾を吐きかける。盛大に笑うと殴られた右肩が痛み、うめき声がもれた。死んではいないようだが、目に弾丸を打ち込んだのだ。遠からず死ぬだろう。こいつを気にする必要はもうない。


 となれば、男は屋上を見る。そこにいるはずの英国紳士プリンスは始末で来ただろうか。可愛い甥っ子が万が一にもミスるはずがないが、相手も名うての殺し屋だ。不安がないといえば嘘になる。


「んんん」


 椅子に縛り付けられた男が身じろぎをした。コートと帽子をかぶせて自分の身代わりにしていたが、思いのほか長引いて薬が切れてしまったようだった。


「おはよう、クロカワ」

「……警部補?」


 うっすらと開いた彼の目には上司であり相棒であるはずのマックス・ビーン警部補が映っていた。左手に護身用の小拳銃を握り、顔を覗き込んでいる。


「……あれ、俺なんでこんなところに」

「何も覚えてないか? 深い眠りから覚めたばかりだからしようがないな」

「マックス警部補、俺、これ、あれ、どういうことですか」


 クロカワは立ち上がろうとして初めて自分の身体が縛られていることに気づいた。眠気が一気に覚め、急速に意識が戻ってきた。頭の芯がずきずきと痛むのは、おそらく薬の影響だろうと思われた。


「ちょっと警部補、この冗談笑えないですって」

「なにも冗談じゃないぞ、クロカワ」


 マックス・ビーンの顔は笑顔を形作っているが、目だけがまったく笑っていなかった。その目を見てクロカワは思い出す。英国紳士の事件についての気づきを話した時、マックス警部補に誘われたバーで飲んだバーボン。あれを呑んだところで意識が混濁した。あんな酒の一杯で意識を失うはずもない。あれに薬が盛られていたんだ。


「どうしてこんなことを」

「俺はな、クロカワ。この街にはあんな細かいことを気にする奴なんていないと思っていたんだよ。だから、気にしなかった。どこを撃つかなんて、気にしたことなんてなかったんだよ。まったくこれだから日本人は細かくて嫌になるんだ」


 吐き捨てるようにマックスが言う。心底嫌そうに唇を剥き、歯茎を見せつける。その表情は甥である悪童のそれにそっくりだった。


「この街の警察官は腐ってるってお前も知ってるだろう。なのになぜ俺は大丈夫だと思い込んでいたんだ。警察官はそういう先入観を持つべきじゃないぞ」

「じゃあ、アンタは俺をずっと騙して……ふざけるな!」


 クロカワの言葉が聞こえていないのか、左手の拳銃を弄ぶように揺らしながら、マックスは言葉を続ける。アドレナリンが脳内であふれ、興奮状態に陥っているようだった。聞いてもいないことをぺらぺらと喋り続ける。


「お前の持ってきたあの事件、あの時はさすがに焦ったなぁ。ちょっとしたはずみで撃ち殺しちまってな、どうやって隠すか散々悩んだよ。その時に思いついたんだ。この街には掃除屋がいる。誰も正体を知らない殺し屋が。あいつらは犯罪者どもを何人も殺してた。なら、ひとつくらい増えても誰も何も思わないだろうってな。そう思ったんだ」


 でっぷりと出た腹を揺らしてマックスは笑った。おかしくてたまらない。笑いすぎて目の端に涙が溜まっていた。


「そんな馬鹿なことがあってたまるかよ!」

「うまくいったよ、何も疑われることなくね。それからというもの俺は俺の邪魔をする奴らの命を奪っては奴らになすりつけてきた」


 クロカワは身体を思いきり動かした。が、縄は身体に食い込むばかりで緩くならない。もがくクロカワの姿にマックスは笑いが止まらない。


「俺の罪は英国紳士の罪ってわけだ。そう、お前を殺した罪もな。お前は無駄なことに気づいちまったからな、消えて貰う。そして、そのついでに英国紳士にも消えて貰う。本物がいちゃいつか本物から苦情が来ちまうかもしれないからな」


 マックス警部補が拳銃をクロカワの額に向ける。銃弾の出てくる深い洞がクロカワを睨みつけている。いま、クロカワの命は彼の人差し指の動きにかかっている。


「こんなことをしてもうまくいくはずがない! 絶対にあんたは捕まるはずだ! それが正義だ!」

「青臭いことを言ってんなよ、ガキが! 正義なんてこの世界にはないんだよ。この世の最期にそのことを勉強していきな!」


 人差し指に力が込められる。クロカワは目を瞑った。発砲音が二発、反響を繰り返しながら、空に消えた。


「な、なんだ!」


 音の発生源はマックス警部補の拳銃ではない。もっと遠いところから聞こえた。マックスがビルの屋上を見た。あそこに誰かいるのだろうか。クロカワが見上げた時、屋上の縁で何かがキラリと光った。


 先ほどよりも重い銃声。バス、と鈍い音がしてマックスの背後の地面に小さな穴が空いた。赤い血がじわりと腹に広がる。撃たれたのだ。あの屋上から。


「な、なんだよ、これ……くそ、あいつか! くそ、くそ、く……」


 銃声。鈍い音。飛び散る鮮血と肉。マックス警部補の後頭部が、ぱっくりと割れ、まるで花のようだった。ファイルの写真で見たことがある。ならば、あれは本物の、英国紳士プリンスの仕業か。


 マックスの身体が音を立てて地面に倒れた。細かく痙攣をする身体から血が流れ、乾いた地面に浸み込んでいく。


「おい! おい! マックス! マックス・ビーン! 起きろ! お前死んじゃいけないんだよ、ちゃんと罪を償わないといけないんだよぉ!」


 あっけない終わりだった。これまで自分の罪を他人になすりつけてきた男は、罪を償うこともなく、その命を終えた。


 倉庫の中にクロカワの怒声が響く。自分でもわからないままに涙があふれた。

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