9
椅子の男へと近づいていたネイサンの動きが突然止まった。闇の中に
背後で扉の開く金属音がしたからだ。振り返ればそこには見覚えのある顔が笑ってこちらを見ていた。
「よお、
剥き出しの筋肉が腕の動きに合わせて盛り上がる。指の骨を順繰りに鳴らしていく。アルはハーヴィーに背を向けるわけにもいかず、後ろ髪をひかれながら
「どうしてここが? って思ってるかい?」
自慢げな笑みを浮かべる
「あの倉庫を狙撃できるポイントはそう多くない。当てるのは容易いことだ。だからこそ、このポイントを指定したんだろう?」
「ちっ、いけすかねぇ野郎だぜ」
首をぐるんと回して長い舌を出す。血のように赤い舌から涎が線になって伸びていく。まさに狂犬。目の中にギラギラと炎が揺らいだ。
「まあ、いつまでも話しててもつまんないわな。殺し屋同士がこうして出会ったんだ。さっそくやろうじゃねえか。ハンデとしてお前はその
「これか?」
アルは
「おいおい、素手でやり合おうってのかよ。こないだのリングでのこと忘れたのか?」
「
「あん?」
「確認しておくがルール無用でいいんだな、
「もちろん。なんでもありだ」
ハーヴィーが拳を固めファイティングポーズをとる。対してアルも同じように構えを取る。ふたりともに左足を前に出した左構えだ。互いに動きをけん制し合い、きっかけを待っていた。
遥か下方で銃声が鳴った。それがゴングの代わりだった。
ジャブ、クロス。フック、アッパー。
「おら、おら、おらおら!」
風に吹かれる柳のように悪童の猛攻をいなすアルだったが、拳が頬を掠めるようになってきた。回転が速すぎて追いつかない。眼前へ迫る拳。大きく体制を崩された。
「どうしたどうした! ほら、次行くぞ!」
しまった、と思ったときにはハーヴィーの拳が視界の外へと消えていた。大きく回りこんでくる右スイング。ガードをあげ、もろに腕に食らう。手の甲で、乾いた枝の折れる音がした。電撃が走る。痛みについ一瞬目を閉じた。
「次は下だぜ」
声と共に拳が唸りをあげガードの下から昇ってくるのが見えた。切れ味鋭いアッパー・カット。顎の尖った先端に向けて一直線。ガゴッ。鈍い音がしてアルの顎が跳ね上げられた。意識がほんの数瞬吹っ飛び、すぐに戻ってくる。
足がふらつく。よろめいた先、屋上の縁を囲うフェンスに寄りかかり、なんとか倒れずに済んだ。グロッキーだ。視界がぐらりと揺れている。
「そろそろテンカウントか? タオルはないぜ?」
ハーヴィーは拳をくるくると回しながらにやついている。彼の顔にはほとんど傷がない。猛攻の隙を見ていくつかパンチを返しているのだが、届いていないのだろう。
対してアルの顔にはいくつか傷が出来、血が流れていた。右フックをまともに受けた左腕は手の甲が砕けて使い物にならない。力の差は歴然だった。
だが、アルの目にはまだ光が灯っている。冷静に相手の隙を見定める狼のような目だ。
「英国紳士さんよぉ、あんたみたいな綺麗な顔をいたぶれて楽しかったぜ。だけど、さすがに飽きるわ。もう終わりにしようぜ」
「ああ、同感だな」
「はっはっは、威勢だけはいいよな。威勢だけは、な!」
言葉尻に合わせて悪童が地面を蹴る。勢いをつけた右ストレート。アルは右フックを合わせる。相手の力を利用したカウンター。一撃で状況をひっくり返すことが出来る。
「なんつってな」
悪童の動きが止まった。カウンターを読み切った急ブレーキ。アルの右フックが的を失い、宙を泳ぐ。それを見て、悪童がまたアクセルを踏む。
「おねんねの時間だぜ!」
身体が流れ無防備なアルの右頬へ向けて、左の拳が振り下ろされる。全体重を乗せたダウンパンチ。だが、その拳がアルに届くことはなかった。右フックを外した勢いそのままにアルの身体がその場でくるりと回転する。軸足を左に交換する。再びアルが正面を向くと、折り畳まれた右足が鞭のようにしなった。
ハーヴィーの頭が吹き飛ばされる。認識の外から飛んできた回し蹴り。右ハイキックが、ハーヴィーのこめかみにクリーンヒットした。首が伸び、意識が刈り取られる。
倒れる前に意識を取り戻したのはさすがというべきか。悪童を悪童たらしめる周年だった。決してテンカウントは取らせない。倒れないように足を出し、よろめきながらフェンスに身体ごとぶつかった。
しかし、不運。長年の雨により腐食したフェンスは彼の重みに耐えられず、根元からぽっきりと折れてしまった。悪童の身体がビルの外、宙へと放り出される。手を伸ばし、かろうじて縁を掴んだ。悪童は右腕一本でぶらさがっている。
「タオルはなしだったよな」
英国紳士が見下ろす。靴裏で縁を掴む悪童の指を踏みつける。ハーヴィーが唾を飛ばし、噛みつくが、いま命を握っているのは上にいるアルだ。負け犬の遠吠えに過ぎない。アルが懐から拳銃を取り出し、銃口を向ける。
「てめぇ! 卑怯だぞ!」
「俺の
「ああ? そんなの知るか! てめぇ、絶対ぶっ殺してやるか……」
「相手に情けをかけないことだ」
銃口が二度火を噴き、悪童の額に穴が空く。言葉が途切れ、手が縁から離れた。悪童の身体が重力に引かれ、下方へと落ちていく。誰にでも牙を剥く狂犬の、あっけない最期だった。
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