7

 アルはじっと耳を澄ましていた。


 腫れあがった右頬には湿布を張っている。服に隠れて見えないが両脇と両手には青い痣が残り、息をするだけでも痺れるように痛い。動くことがひどく億劫で、アルはリクライニングチェアに凭れ、じっと耳を澄ましていた。


 連絡を待っているのだ。悪童バッドボーイが依頼人へとかける連絡を。


「アル様、お加減はいかがですか」


 ネイサンが大きな手のひらに似合わぬ小さなトレイを持ってやってきた。湯気をあげる紅茶とバターサンドが載っている。芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。本場英国から取り寄せた本物の茶葉だ。アメリカの人工紅茶とはわけが違う。


「ありがとう、ネイサン。だいぶマシになったよ。いてて……」

「奴との試合。やはり私が出るべきでしたな」

「なにを言う、ネイサン。お前がリングに上がればあんな奴など数秒でのしてしまうだろう。それじゃあ、意味がないだろう」

「ありがたいお言葉ですが、私はもうそれほど……」


 謙遜するネイサンをアルが笑い飛ばす。外でこそ鉄仮面のアルだが、気心の知れたネイサンの前でだけは、英国にいたころのような無邪気な顔も見せる。


「バカをいうな、ネイサン。破壊王・灰色熊グリズリーの名が泣くぞ」

「その名はとうに捨てました。いまの私はただの執事ですよ、坊ちゃま」


 破壊王と呼ばれた若き日のネイサンは凄まじかったという。英国の富豪たちが集う闇賭博場にて開催されていた地下闘技場。腕に覚えのある前科者たちが集まる地獄のような場所で、長年チャンプの座を守り続けてきた伝説の男だ。網膜剥離による失明がなければ、いまもなおその剛腕は振るわれていたことだろう。


「あなたに拾っていただいたばかりか、この目まで。本当に感謝の言葉しかございません」


 恭しくネイサンが頭を下げる。立派なグレーの髪を見つめアルは祖国での暮らしをほんの少し懐かしく思った。紅茶をひと口飲めば、洗練された苦味と奥ゆかしい甘味が広がり、甘き日々が脳裏を掠めた。いまは亡き、愛しき日々。


 幻想を打ち砕くようにコール音が響いた。画素の荒い音は盗聴器から飛んでくる。あの時、悪童にアルが打ちのめされている間に、ネイサンがこっそりと彼の携帯に取り付けた盗聴器から。


『もしもし』誰かの声。ハーヴィーのものではない。

『おい、どういうことだよ。なんでバレちまってんだよ』慌てたようなハーヴィーの声。


『なんのことだ』

『透明人間の件に決まってんだろ。その件で話を聞きたいと殺し屋が来やがった。あのスカした英国紳士のやろうがよ』

『それで? どうした?』

『んなわけねえだろうが、あの澄ました顔をボコボコにしてやったよ。だがよ、このままじゃやべぇんだよ。もしあの野郎がホワイトの奴にチクりやがったらどうなるか……』


 少しの沈黙。


『大丈夫だ。俺がどうにかするさ』

『本当か?』

『ああ、昔からなにかと助けてやったろ? うまいことやるさ』

『ああ、わかったよ。頼んだぜ、叔父さん』


 短い電話だった。電話の相手は誰だったのか、声に聞き覚えはないが、最後にハーヴィーは最大のヒントをくれた。


「奴は叔父さんと言っていたな」

「血縁関係者を当たってみますか?」

「俺たちが探すまでもない、透明人間に聞こう。こういうときのための情報屋だ。それくらい働いて貰わなくてはな」


 痛む腕を動かして紅茶を飲む。嚥下するのも痛いが、英国人たるもの午後の紅茶を嗜むのが道理だ。


「しかし、奴らも動くようでしたね。なにを仕掛けてくるのでしょうか」

「さてね。向こうから来てくれる分には手間が省けてありがたいがな」


 蓋を開けてみればこちらが動くよりも先に向こうが動いたのだった。先のやり取りから一時間半後、電話が鳴った。アルの携帯電話だ。この番号を知っているのはひとりしかいない。


「やあ、英国紳士くん。元気にしているかい? さきほど実に珍しいことが起きたんでね、君にどうやればそんなことが出来るかを聞きたくて電話をしたんだけれど」


 ホワイト・K・ニール。相変わず前置きの長い男だ。


「用件はなんだ?」

「さっきね、悪童から連絡があってね、君に謝りたいんだってさ。ほんっと珍しいこともあるよね。彼のそんな殊勝な態度なんて初めて見たから、いや電話だったから見てはいないんだけど、とにかく初めてだったからびっくりしちゃってさ、まったくどうやったらあんな態度を引き出せるのかぜひご教授頂きたいくらいで」


 止めなければ壊れたラジオみたいにいつまでもひとりで喋り続けてしまうだろう。アルにはそんな暇もなければ、趣味もない。容赦なく彼の言葉を断ち切った。


「場所は」

「おっと、そうだった。待ち合わせ場所はちょっと変わってるんだけど、ニューヨーク港の――」

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