6

 ショーン・モリッシー。三十五歳独身。彼はどこにでもいる普通の人間だった。隣人と会えば挨拶を交わし、コーヒーを片手に出社して、仕事をそれなりにこなし、バーで出会った女と酒を呑み交わし、ひとりで眠りにつく。


 いくら叩いても埃が出てこない真っ白な人生。駐車違反ひとつに信号無視がふたつなど、この国では何もしていないのと同じだ。犯歴はなく、危ない人間との繋がりもまったく見当たらない。


 ギャング同士の抗争どころか、彼を憎む人間すら見つからないのだ。ごくごく一般人である彼が、あんな殺され方をする必要がどこにあるのか。クロカワはそれが見つけられずに往生していた。


 捜査は早々に行き詰まり、足を引きずりながら戻ってきたクロカワに対してかけられた言葉は「資料室片付けろ」という一言のみで、彼は疲れた身体に鞭を打ち資料室へと戻ってきた。


 青いベストを着たように胴体を執拗に狙う撲殺犯はファイルにあった。いままでに何件も同じ手口で犯行を重ねている。おそらくはこの街の掃除屋のひとりだろう。被害者はそれぞれに何らかの罪の容疑がかけられているものだった。


 だが、今回は違う。ショーン・モリッシーは、絶対に違う。犯罪などに手を染める度胸もない、ただの一般人だ。精々が置き引きか、セクハラ程度だろう。そんなやつらを掃除していたら、この街から人はいなくなってしまう。


 犯罪者や罪を逃れた者たちを狙うという掃除屋のモットー。それが崩れている。この撲殺犯しかり、英国紳士しかり――。暴走が始まっているのか。


「おっと!」


 ファイルを片付けようとしていたら、足が絡まりクロカワは転んでしまった。落ちた拍子にファイルから資料がバラバラになる。広がった紙を見て、クロカワはため息をついた。


 真面目になるなと皆から言われる。警察官はもっと肩の力を抜いてやるもんだ、そうしないと潰れてしまうぞ、と。だが、正義の味方であるべき警察官がそんなぬるいことを言っていていいのだろうか。青臭い考えかもしれないが、クロカワは警察官とは汗水たらし市民のために精一杯頑張るべきだと思っていた。


 うんうんと悩みながら手を動かしていると、ふとなにか気になることがあった。視界の中に、気になることが。なんだろうと目を凝らしてみる。資料がいま、クロカワの中心から右と左に別れている。その一番上、被害者は犯罪者と一般市民。撃ち込まれた銃弾は二発。


「場所が、違う」


 クロカワは急いで資料をあさる。目をできうる限りの速さで動かして、文字を読みこむ。これは右へ、こっちは左へと分類していくと、事件は綺麗に二種類へと分けられた。


「こっちは胸と腹、こっちは腹と脳天……そして市民が巻き込まれているのは胸と腹のほうだけ……」


 偶然だろうか。偶然、市民が殺された時だけ英国紳士は頭を狙わなかったのだろうか。この手口で初めて罪なき市民が殺されたのは二年前の八月。初めて脳天ではなく、胸を撃たれた被害者がその市民だった。偶然……だろうか。


 この始まりの一件がなにか重要な意味を持っている気がする。この事件について調べれば、なにかがわかるのではないかという気が。話を聞きたい。この事件を担当した捜査官に。


 資料の一番下。そこにはサインが入っていた。よく見慣れたサインにクロカワは飛び跳ねて喜んだ。


「なんてラッキーなんだ」


 クロカワは捜査資料を手に資料室を飛び出した。彼の上司であり相棒であり、初めの事件の担当捜査官である、マックス警部補へ話を聞くために。


 マックス警部補は署の喫煙室にいた。最近はたいていここにいる。禁煙はもう諦めたらしかった。扉をノックすると警部補が首を傾げ、中へ入れとジェスチャーした。クロカワは顔をしかめた。煙草の煙はあまり好きではない。


「警部補、ちょっといいですか?」

「なんだ?」

「この事件、覚えていらっしゃいますか?」


 クロカワはさきほどの捜査資料を警部補に見せた。彼はそれを受け取ると目を細めて眺めた。ここ数年で老眼が進み、小さい文字が見えづらいらしい。


「覚えてないな。この事件がどうかしたか」

「この事件、英国紳士が初めて一般市民を襲った事件なんですが。警部補、もしかすると彼はこの事件の犯人ではないかもしれません」

「なに? どういうことだ」

「この事件を始めとしていくつかの事件では被害者は腹と胸を撃たれている。でも、この事件までの英国紳士は決まって腹と額を撃っているんですよ」


 マックス警部補は煙をぷかりと吐いた。


「なんだ、そんなことか。そんなのは奴の気まぐれだろうさ」

「しかし、警部補。この事件を発端に始まった市民殺害はすべて腹と胸なんです。それまでは脳天を狙っていた殺し屋が、急にやり方を変えますか? それもここ数件では両方が入り交じっている。どうにも気持ち悪くありませんか」


 クロカワの力説にマックス警部補も心動かされたのか、額に深く皺が刻まれていた。まだ半分ほどしか吸っていない煙草を灰皿に押し付けて消した。


「なるほど、たしかにお前の言いたいこともわかる」

「なら――」


 勢い込むクロカワの言葉を遮るように警部補の懐で携帯が鳴った。手のひらを見せて謝り、マックス警部補が電話に出る。


「もしもし……」


 他人の電話を盗み聞く趣味はクロカワにはないが、なにせ小さな喫煙スペースだ。相手の声は聞こえないが、マックス警部補の受け答えは否が応でも耳に入る。クロカワは出来る限り聞かないように明後日の方向を向き、喫煙室の隅で小さくなっていた。


「……うまいことやるさ」


 短い電話だった。マックス警部補は携帯電話を懐にしまうと、代わりに新たな煙草を取り出して吸い始める。


「話の途中で悪かったな。それでお前の気づきなんだが、誰かに話したか?」

「いえ、確証はないので。まずは警部補に話を聞いてからだと思って」

「慎重でいいことだ。ひとつその事件について思い出したことがあるんだ。明日、捜査に出ようと思うんだが、一緒に来てくれるか?」


 相棒の頼みだ、断るわけもない。クロカワは当然頷き、冗談めかして敬礼までしtみせた。


「もちろんですよ、マックス・ビーン警部補」

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