5

「ようこそ、いらっしゃい」


 部屋に入るなり声がかけられた。なんの変哲もないモーテルの一室。椅子に座ったひとりの女がこちらへ手を振っている。至って普通の女だ。なんの特徴もなく、街に出てしまえばすぐに群衆に紛れてしまうだろう。身体のラインが出るスキニージーンズにワイシャツ。女性特有のもの以外の冷たい膨らみは見当たらない。武器は身に着けていないようだ。


 アルはそのことを瞬時に見て取ると、部屋の中へと足を踏み入れた。愛用の狙撃銃が入ったレザーケースは置いてきた。依頼人に会うのに武器を持ってくるのはどうかと思ったし、なにかあれば後ろに控えたネイサンの腕ひとつでどうとでもなる。かつては地下闘技場で猛威を振るった剛腕だ。


「あんたが透明人間カメレオンか」

「ええ、そう」


 アルの問いかけに女はあっさりと頷いた。そばかすの浮いた頬はまだ幼さを残している。ようやく二十歳になったばかりといった風だった。当然の疑問をアルは投げる。


「それにしては若いな」

「ええ、まあね。今年で二十三になるんだけど、童顔なせいでお酒を買うのにいちいち免許証出さなくちゃいけなくって最悪なの」


 おどけて肩を竦めた女が椅子を手のひらで勧める。アルはそれに従い、彼女の正面に座った。目線の高さを合わせてみても、彼女から裏社会で生きるもの特有の匂いは感じられなかった。


「不思議に思ってるでしょ」


 悪戯をしかけた子どものように無邪気に言う。


「私が若い女だから、偽物じゃないかと疑ってる。みんなそう。でも安心して、それ間違いじゃないから」


 チョコレート色の瓶を開け、グラスに注ぐ。ウィスキーの甘い匂いが部屋に広がった。ぐいとひと息に飲むと、彼女は美味そうにため息をついた。


「あんたはさっき透明人間カメレオンだと認めたはずだが」

「ええ、それも間違いじゃない。私は透明人間カメレオン。でも、より正確に言うならば、透明人間カメレオン、というべきね」


 アルは長い足を組む。彼女の重大な告白に対して興味はなさそうだった。感情の起伏の見えない鉄仮面に女のほうが驚いた。


「どうして驚かないの?」

「想定内だ」


 簡潔な答えだけが返ってくる。情報屋の女はアルの顔をぱちくりと眺める。見た目が人間離れして美しいこともあり、人の心を持たないのかもしれない。半ば本気でそんなことを思った。


「それでなにかトラブルがあると聞いたが」上目遣いにエメラルドグリーンの瞳が向いた。女の心臓がドキリと跳ねた。あんな綺麗な目に見られて、動揺しない人間はいないだろう。女であろうと、男であろうと。


「あ、うん、そう。本題に入りましょうか」動揺を隠すために咳払いをする。

「単刀直入に言うわ。私たちのひとりが殺された。その犯人を見つけ、消して欲しいのよ」

「目星は? そういうのはそちらの領域だろう」

「私たちがいかに最高の情報屋と言えど、数時間のうちに集まる情報はたかが知れてるの。魔法使いじゃないんだから。私たちは地道に足で情報を集めているのよ、地道にね。ただ兵隊の数が多いだけなのよ」


 ウィスキーをグラスに注ぐ。琥珀色がとっぷりと揺れる。


「実行犯に関してはわかってる。もともと裏の人間だから。でも、そいつがこんなバカげた行為に出た理由、彼の依頼人を知りたいわけ」


 わかる? とグラスを差し出される。アルは目で頷いた。


「とりあえず実行犯に会ってきて欲しいのよ。話を聞いてもらいたい。出来れば依頼人の名前を聞き出して、そいつを始末してもらいたいわけ。いつもの通りに胸と脳天に一発ずつ、お見舞いして欲しいわけ」

「そいつの名は?」


 雇い主であるホワイトと裏社会の情報屋を敵に回すほどやっかいなことはない。このお願いは最早命令に近く、アルにしても断るのは容易ではなかった。


「本名よりも通りのいい名前があるからそっちを教えてあげる。あなたも聞いたことがあるはずよ、ルール無用の悪童バッドボーイ、って名前をね」


 女が喉を鳴らしてウォッカを飲み干し、グラスを机に叩きつけた。


 ゴングが鳴った瞬間にコーナーから奴が躍り出た。凄まじいスピードで筋肉の塊がこちらへと迫ってくる。ぎらついた目が獲物を睨みつけていた。


 とあるボクシングジムにそいつはいた。悪童バッドボーイ。本名はハーヴィー・ビーン。ボクシングファンならその名を聞いたことがあるだろう。十年前にはその才能を期待され『黄金の新人ゴールデンボーイ』と呼ばれていた男だ。


 眼前へと空を切り迫る黒いボクシンググローブを、アルは左腕で受け止める。クッションがあるとはいえ、凄まじいパワーだ。受けた左腕がビリビリと痺れる。ハーヴィーはししのごとく突進で距離を詰め、腰を落とした状態から左右のパンチを嵐のように繰り出してくる。反撃の隙は見当たらず、アルはひたすらにガードを固め耐えていた。


 ハーヴィー・ビーンの転落は必然だった。神から贈られた才能ギフトも彼の暴力性が食いつぶした。アマチュアボクシング界で名声を欲しいままにしたハーヴィーは鳴り物入りでプロへ転向。しかし、度重なる違反と酒場で起こした暴力事件によって、一年も持たずにライセンスをはく奪されたのだった。


 両拳の微かな隙間からアルはハーヴィーの顔を冷静に見ていた。目は見開かれ充血し、唇がめくれている。まともな人間の表情ではない。その狂気じみた目がまっすぐにアルを見たかと思うと、ぐにゃりと笑みを形作った。気持ちの悪い笑み。


 ハーヴィーの唇が突き出され、唾が霧状に噴き出された。目に入り、アルは反射的に瞼を下ろした。視界が暗闇に染まる。アルはガードを固め、顎を守った。その肘の先をあざ笑うようにハーヴィーの拳が掠め、アルの右脇腹へと突き刺さる。


「ぐっ」思わず声が漏れる。身体の中で骨の軋む音が響いた。内臓が悲鳴を上げ、膝が震えた。だが、倒れることを許すまじとハーヴィーの拳が突き上げられ、ガードごと身体を起こされる。そしてまた無防備になった脇腹へ拳が刺さった。


 ボディブローがアルの身体から酸素を奪い去っていく。筋肉は弛緩を始め、悪童のグローブが脇腹深くへと沈み込む。胃から酸っぱいものがこみ上げる。痛みよりも苦しみが強かった。地獄のような苦しみから逃れようと、アルは反撃を試みる。


 薄目を開け奴の動きを見定める。ハーヴィーはすでにアルがグロッキー状態であり、反撃など想定していないようで、拳が大振りになっている。三度、脇腹を狙い左拳がぐっと沈み込んだ。アルは右肘を下げ、その拳を肘で受けると、左拳を突き出した。


 が、ボクシングに関しては向こうのほうが一枚上手だ。アルのなけなしの力を振り絞った左ストレートは上半身を後ろに逸らしあっさりと躱された。そして、戻ってくる反動を利用しての右ストレートが風の唸りを引き連れてアルの顔面へヒットした。岩で殴りつけられたような衝撃に首が伸びる。

 

 視界が線になり流れたかと思うと突然ブラックアウトした。ハンデとしてつけていたヘッドギアがなければ首が吹き飛んでいたかも知れない。アルは消えゆく意識の中で、ぼんやりとそう思った。

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