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 クロカワは刑事として非常に熱心な男だった。上司であり相棒であるマックス警部補に捜査は必要ないと釘を刺されたが、そんなものは彼の燃え滾る正義感の前では意味をなさない。


 ここのところ事件は立て続けに起き、まともに眠ることすらできていないが、クロカワの犯罪者に対する憎悪が彼のエネルギーとなり身体を動かし続けることが出来た。わずかな休憩の時間に資料室に籠り、英国紳士プリンスが起こしたとされる事件のファイルを読み漁っている。アジア系の薄い目の下にはくっきりと隈が刻まれている。


「こんなやつらが野放しだなんて……」


 そこらのチンピラとは格が違う。本物の犯罪者たち。幾人もの命を奪っている殺し屋がこの街には多数いるらしかった。使用された手段ごとにファイリングされているが、棚の端から端までずらりと並んでいるところを見ると、かなりの数だ。


 彼らは息をするように人を殺している。両の指をはるかに超す命を奪ってきているのだ。こんなのがなぜ市民の支持を受けているのか。クロカワには納得がいかなかった。


 いま現在の警察機構が過去ほどには信頼されていないことも理解しているし、市民の気持ちも痛いほどにわかる。上層部は自らの私欲のためにしか動かず、下っ端は食い扶持ぶちを稼ぐために平気で犯罪者どもと手を組む。汚れ切っているのだ。上から下まで、ほとんどの部分が腐っている。そんなものを一体誰が信用するというのか。


 だが、だからと言って人殺しが喝采を浴びるのは間違っている。確かに殺し屋たちの標的ターゲットとなっているもの大半が犯罪者だ。警察が見て見ぬふりをする、公には罰されることのない暴力者たち。それらが法外な力によって排除されている。その部分に対して市民たちが彼らの中に闇の正義者ダークヒーローを見出すのは仕方のないことかも知れないが、しかし奴らは常にそうというわけではない。被害者の中には例外も多数いるのだ。


 特にここ数年の英国紳士の無差別っぷりはヤバい。何の罪もない一般市民すら奴の手にかかっている。確実に命を奪うためなのか、必ず二発弾丸をその身体に打ち込む冷徹な男……いや、女かも知れない。捜査に先入観はご法度だ。


 開いたページでは街の有力者の息子が汚い死に顔をさらしていた。血の抜けきった白い顔、額の真ん中に大きな穴が空いている。正面から狙撃を受けたのだろう。後頭部は花のようにぱっくりと開いているに違いない。


英国紳士プリンス、か。ふざけた名前しやがって」


 ファイルを思いきり叩くと埃が舞い上がり照明の光を反射する。その光景と同じように頭の中でいくつかのひらめきが瞬いた。消えないうちにそれを掴み取る。


「そう言えば、なんでこいつだけ名前コードネームがついてるんだろう……」


 他のファイルを見てみても犯行手段ごとに分けられているだけで、ファイルの中に名前コードネームなどない。銃を使用し、必ず二発で命を仕留めるこいつに限り、名前コードネームがつけられている。それがクロカワにとっては気持ち悪かった。なにか意図的なものがあるように感じられる。


 そして、それ以上に気持ち悪い何かがあることを、クロカワは知っていた。具体的にそれが何かわからないが、いままでに見た資料の中で、何か、引っかかっていた。喉につっかえた魚の骨のように飲み下せない、何か――。


 激しく音が鳴った。資料室に備え付けられた、型の古い電話機が震えている。クロカワの脳裏にあった違和感は、すばしっこいネズミのようにすでにどこかに姿を隠してしまっていた。ベルの音に驚いて逃げてしまった。疲労感がクロカワの肩にずっしりと圧し掛かる。


「はい、資料室、クロカワ」

「マックス警部補がお前を探してたぞ。出動だ」


 お呼びがかかりクロカワはすぐさま立ち上がった。投げ捨ててあったコートをひっつかみ、ファイルを机の上に乱雑に広げたままに、彼は資料室を飛び出していく。目の前の事件に意識はすでに向かっており、先ほどまで悶々と彼を悩ませていた気持ち悪さはとうに消え去っていた。


「遅いぞ、新人」

「すみません」


 現場に着くとマックス警部補が不機嫌そうに煙草をふかしていた。何度目かの禁煙はとっくに諦め、いまでは一日に二箱吸う喫煙者ヘビースモーカーに逆戻りだ。


「コロシ、ですか」

「お前の目にはそれ以外に見えるのか?」


 業務用の巨大なダストボックスの中から人の手らしきものがはみ出している。クロカワはひょいと中を覗き込んだ。漂う臭気と異様な遺体の姿に眉間に皺が寄る。


 山と積まれたゴミ袋を押しつぶし、遺体が転がっているが、その姿が異様だった。胴体トルソーと顔が青く腫れあがっている。醜い姿はまるで趣味の悪い仮装大会ハロウィーンだ。


 逸らしたくなる気持ちを抑え、上から下までを観察する。両手首に赤い太い線がぐるりと残っているのが目に入った。どうやら手首を縛られていたようだ。


「おおかたロープで縛られてサンドバッグにでもされていたんだろうさ」


 マックス警部補が自身の腕を揃えて頭の上に伸ばした。なるほど、その状態でどこかに結び付け動きを封じて、殴り続けたということか。


「じわじわといたぶっているってことは、なにか情報を引き出そうとした、ということですかね?」

「もしくは誰かにとてつもなく恨まれていたか」


 遺体の横に財布が落ちている。中を見てみたが札はなく、小銭がほんのわずかに残っているばかりだ。身分を証明するものもない。


「金目当てってことは?」

「そうだとしたらこんなに時間をかけてやらんだろ。銃かナイフであっさり終わらせるさ」


 マックス警部補は興味なさげにぷかりと煙を吐いた。この街ではこんな悲惨な事件はしょっちゅう起こっている。そのひとつひとつに感情移入していては精神がすぐに参ってしまう。これは彼なりの対処法なのだろう。


「ま、どこかのギャングの内輪揉めって線が濃厚だろうな。おい、遺体収容してくれ」


 要請を受けやってきていた検視官がダストボックスの中に片足を突っ込んで嫌そうな顔をした。なにか柔らかいものを踏んだのかもしれない。中から音を立ててハエの大群が立ちのぼった。


「せーの」


 ふたりがかりで遺体を持ち上げた時、ぐにゃりとその身体が奇妙に曲がった。蛇がうねるように身体が捻じれる。どうしたことかと検視官が身体に触れると、


「骨が砕けてるんだ。全部」


 呆れた声を出した。人間の身体の形を保っている骨のひとつである肋骨が砕け散っているらしい。胸の上で動かす指が、何の障害もなく身体に沈み込んでいく。明らかに異様だった。


 胴体トルソーと顔の骨はことごとく砕かれているが、残った手と足をうまいこと引っ張ってどうにか遺体を引きずり出して黒い遺体袋に収容した。手間がかかり肩が凝ったのかぐるぐると回しながら検視官たちが帰っていく。車に乗りこむ間際に彼らがそういえばと口にした言葉にクロカワが反応した。


「いま、なんて?」

「そういえば、前もこんな死体を見たんですよ。おんなじように胴体の骨が砕けててるやつ。そいつもこんな風に内出血がひどくて、青いベストでも着てるみたいだって言ってたんですよ」


 薄暗い資料室で貪るように眺めていたファイルを思い出す。その中に常軌を逸した撲殺死体がまとめられたファイルがあったはず……英国紳士にばかり注意がいっていて見逃していた。


「警部補、俺資料室に戻ります」

「なんだ、なにをやる気になってる」

「これも掃除屋の仕業かも知れないんですよ!」

「だとしたら捜査するだけ無駄だと言っただろう。いいからこの件は放っておけ。お前は働き過ぎだ、生真面目くんジャパニーズ

「俺は日系だけど生まれはブラジルですよ、警部補。じゃあ、またあとで」


 警部補の助言を聞くわけもなく、青二才は駆けだしていた。その後ろ姿にマックス警部補は苦い顔で煙草の煙を吐きかけた。

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