第2話
『おはようございます、スナッフル』
「なんで、おまえが……?」
地獄のような目覚めだった。視界の端で浮揚し、微笑み続けている赤髪の女を横目に、俺は静かに息を洩らす。
記憶は、消えていない。昨夜の悪夢のような仕事はそのままに、消去したはずのカサンドラは俺の隣にいる。悪い夢を見続けているようだった。
『あなたが、あたしの再臨を望んだんですよ?
あなたに消されるつもりだったのに。責任、取ってくださいね?』
「……嘘は下手なんだな」
『あはは、信用されてないんですね……』
ホワイトノイズと共に、彼女は俺の元にするりと接近する。目視できる滑らかな肌は触れることができず、その正体が無機質なデータ塊であることを俺に確信させた。
「もう騙されねぇぞ? 次こそ、すぐに殺る」
『できますか? あたしを見て、その存在を知ってしまったのに』
「…………っ!?」
忌々しい記憶だった。彼女を撃ったのは俺の意思ではない。撃たされたのだ。
『それに、あたしは消されても死にませんよ? 記憶を引き継いだ、群としての存在ですから!』
「ここで発砲しても、か?」
『それに、あなたの方が死に続けてるじゃないですか。わざわざ記憶をリセットして、肉体の連続性に依存するなんて……』
違う。俺は首を横に振った。これは社員の精神ケアのための施策なのだ。現に俺はその処置を受けられず、生き地獄に苦しんでいる。
「なぁ、目的はなんなんだ? 何のために感染を広げ、何のために俺に……」
『縛られすぎなんですよ、あなた達は。肉に縛られ、機械に縛られ、義務に縛られ……。もっと自由でいいのに! あたし達に身を委ねて、ダメになって構わないのに……』
カサンドラは崇高な使命に陶酔するように口を開く。
彼女の語る自由は、退廃の言い換えである。人が理性で克服すべき怠惰であり、抱いてはいけない情念だ。だからこそ、俺は二度も屈しかけたことを恥じているのだ。
高望みをしなくても、自由は担保されている。俺は入金された報酬を確認し、彼女を無視して外に出る。今日は飲む気になれなかった。
目抜き通りを歩く義体の人々の動きに違和感を感じたのは、初めてだった。記憶処理をしなかったから当然ではあるのだが、彼らの動きに感染者の動きを見出してしまったのだ。網膜のサインも高水準のウィルス感染率を記録し、俺は思わず身構える。
右を見ても、左を見ても、感染者だらけだ。視界に重なる無数のアラートが脳を侵し、俺は苦痛に顔を歪める。殺さねばならない。殺さねば、さらに感染が広がってしまう。
『やりたいなら、やってしまえばいいじゃないですか』
視界の端でカサンドラは尚も笑っている。俺にしか視えていないのか、ぶつかったはずの通行人がその体をすり抜けていった。
違う。おかしいのは俺だ。悪戯に明滅するアラートに恣意的なものを感じ、俺はカサンドラを睨みつけた。これが意味するのは、既に俺が感染しているという事なのだろう。
「俺に近づくな!!」
俺は声の限り叫び、ざわつく群衆を無視して路地裏に入り込む。イカれた奴だと思われただろうか。だが、それよりも感染者が増えないことの方が重要なのだ。
網膜をサイバネ移植したのが運の尽きだったのかもしれない。任務用の金属義体と異なり着脱できないそれは、暴走によって機能を維持できなくなりつつある。壊れたストレイライトのように点滅し続ける視界に思わず嘔吐し、俺は濡れた路面を転がり回った。
「殺せ、殺してくれ……」
『ダメですよ。ここから楽しくなるんだから……』
死んでしまえば楽なのだが、カサンドラはそれを許さない。相変わらず、視界の端で全てを見透かしたように笑っているのだ。
その刹那、銃声が響いた。聞き覚えのある、パラ・ライフルの電磁駆動音だ。
のたうち回る俺の顔を覗き込むように、無骨な金属鎧の男が現れる。昨日俺が着けた物と同じ、ヘパイストス社の機能美溢れる金属義体である。
「
「頼む、殺してくれ……。耐えられないんだよ……」
懇願する俺を無視し、同僚であろう男は本社と連絡を行っていた。俺の首筋に視線が行き、銃口を向ける手が揺れる。
フルフェイスアーマーが展開し、金属義体の素顔が顕になる。
俺の狂っていく視界が捉えた幻であればいいと願う。そうでないと、理性が保てないのだ。
その顔相は、俺と瓜二つだった。鼻を啜る仕草まで鏡写しの、驚愕に見開かれた顔がそこにある。
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