カサンドラの寵愛

第1話

 窓の外の雪は冷たさを失い、街角を白く染める飾りと化していた。積もることがなく、溶けても濡れる事のない人工雪である。ガラス張りの空に彩りを添える天候管理システムによって、機械仕掛けの身体をした人々も外を歩けるようになったのだ。


「投降は認めない。言い残したことは?」

『……また逢いましょうね、スナッフル』


 業務プロトコルに従い、握ったパラ・ライフルのトリガを引く。俺は窓の外を注視し、対象がノイズに混じって消滅する数秒間を無為に過ごした。

 誰にもできる、単純な仕事だ。だから、俺は道具でいられるのだ。私情を挟むことなく、プロトコルに従うことで黙々と業務を終える。

 それが、俺の刹那の生を悩みなく生きるルーティンだった。


「番号2860、対象をデリート完了。帰還します」


 俺は鼻を啜り、再起動の時を待った。


    *    *    *


 ——Reboot.


 網膜に重なる文字で目を覚ます。チューブ内の培養液の水位が下がり、俺の身体は外気に晒された。

 産まれ直したのだ。俺はバイタルサインを確認し、肌に張り付くスーツを纏う。無骨な合金機械と癒着し、自らの身体の一部とするための皮であり、外骨格だ。装着者を拒絶反応や幻肢痛から救うヘパイストス社の叡智である。


『記憶処理、終了。これより、休暇に入ります』


 室内に電子音声が響いた。俺は口座に給料が入っていることを確認し、合成革のトレンチコートを羽織る。昨夜の仕事は、昨夜の俺がなんとかしたのだろう。俺はその利益を享受し、束の間の自由を味わうだけだ。


 退社と同時に、眩しい朝焼けが俺を迎える。林立するビルの狭間、人工的な紫の陽に照らされる街は冬の静謐さに包まれ、ある種の神秘性を醸し出していた。

 明朝から空いているバーと云えば、路地裏の『ディオニュソス』くらいだ。俺は勤勉な機械化社員の流れに逆らい、退廃的な一角へ足を踏み入れる。所属を示す首筋のコードを隠して。


 煌びやかなネオン灯があしらわれた内装に、電子ドラッグ中毒のダンサーが退廃的コンテンポラリーを踊るダンスフロア。浄化が進む表通りと異なり、バー『ディオニュソス』は黎明期の危険な混沌を体現していた。治安維持組織からの摘発を免れているのは、行なっている特殊な接待のおかげであるとも、賄賂を渡しているからであるとも言われている。

 俺に言わせれば、どれもフェイクだ。この店は、ただ運がいいだけである。


「……スコッチを頼む。なるべく上等なやつだ」

「お客様ァ、ちょっと待ってね……」


 カウンター越しの女店主は勤勉とは言えない態度で、顳顬こめかみにインプラントした小型アンテナを気怠げに弄る。乱雑に垂らされた長い髪に特殊繊維のケーブルが混じり、奇妙なグラデーションを描いていた。


「はい、一番上等なやつ。他は色付きの水みたいな物よ……」

「……粗悪品でないなら、構わないさ」


 縁が欠けたショットグラスに注がれる琥珀色の液体は、あまり良い香りではない。

 だが、それでも構わないのだ。俺は自由を求めてこの場所に来たのであり、酒を楽しみにきたわけではない。ほとんど無人の寂れたバーで、非生産的な時間を過ごすことを望んでいるのだ。


 スコッチの水面に波紋が生まれ、独特の振動とともに水滴が跳ねる。店内に流れるエレクトロ・ポップが、突如大音量に変わったのだ。型落ちのスピーカーが痺れるほどのホワイトノイズを刻み、俺は思わず耳を塞ぐ。


「止めろ……止めろ! うるさくて呑むどころじゃないんだよ!」

「ソーネ……」


 女店主に動く気配はない。ホワイトノイズをアンテナが増幅し、何らかの快楽物質に変えているのだ。彼女は虚ろな表情でカウンターに頬を預け、恍惚に支配されることを選んでいた。

 俺は鼻を啜り、スピーカーを止めようと立ち上がる。繰り返し流れる甲高いボーカルのリフレインが、脳のセキュリティホールを突破しようとしているのだ。耳がビリビリと痺れていた。

 その瞬間、俺は目撃する。緩慢な動きをしていたダンサーが、ダンスフロアから消えていた。代わりにその場に降り立ったのは、燃えるような赤髪の女神だ。


「誰だ……?」

『カサンドラ、あたしの名前です。逢いたかったんですよ、スナッフル』


 違う。女神などいるはずがない。あれはただの生命体だ。動くたびに身体から明滅するネオン光めいた軌跡を散らす、蠱惑的な笑みの少女だ。


「スナッフル……?」

『そう、あなたの名前。本当の名前は知らないけれど、あなたはスナッフルですよ』


 俺は鼻を啜りかけ、止まる。なるほど、この動作か。

 カサンドラと名乗る少女は、自らが世界を創造するかのようにステップを踏む。美しい所作で腕を振り、何らかの儀式めいたダンスを繰り返す。表情ひとつ変えず、蠱惑的な笑みのままで。まさしくディオニュソス的な、何らかの陶酔に裏打ちされた動きだった。


『スナッフル、あなたは自由でいいんですよ。だから、踊りませんか?』


 ダンスの経験など無かった。だが、視線が交錯したのだ。理性より先に身体が動き、ただ不恰好に踊る。思考がオーバードライヴし、彼女に従わざるを得ないかのように。

 ダンスフロアを支配するエレクトロ・ポップさえ心地良い雰囲気に変わり、俺は酩酊めいた夢現の中にいた。トリップしたかのような特有の高揚感を肌身で味わい、歓喜に身震いする。理性の端で、何かが危機を叫んでいた。


『ふふ。邪魔な鎧なんて脱いで、静かに水面を揺蕩うだけでいいんですよ。あなたはもう、立派に頑張っているんですから……』


 彼女の燃える髪の色が脳裏に焼きつく。電子アーカイブで見た大昔の名画に似た微笑みが海馬に刻みつく。ただ美しいだけではない、俺の精神の芯を的確に狙う奇妙な魅力があった。

 このまま身を委ねるのも悪くないのかもしれない。この幸福を永遠に享受するために、落ちて、堕ちて堕ちて堕ちて……。


 その瞬間、俺は突如として現実に引き戻される。懐の端末が震えたのだ。仕事の時間を示すアラームである。

 俺は慌ててカウンターに換金用トークンを投げると、逃げるように店を出た。脳裏に響く甘い声を、必死に振り解きながら。

 あれは、きっとナイーブな一時の感情だったのだ。俺は今の安定した自由に満足しているし、現状で十分幸せなのだ。これ以上の高望みは、傲慢だ。


    *    *    *


『当社は社員の精神的ケアを第一としており、快適な業務環境を保証します……』


 繰り返される室内音声は、きっと嘘ではないのだろう。その為の記憶処理だ。精神的に過酷な仕事でも、繰り返し行うことができる。機密保持を兼ねた、合理的なアイデアである。

 俺は機能的な金属義体を纏い、届いた指令を読み込む。どうやら、俺の仕事はウィルス狩りらしい。とあるオフィスに踏み込み、感染した義体を破壊するのだ。


 サイバネティクスが発展した現在において、病原体よりも厄介なのはコンピュータ・ウィルスだ。サイバネ義体に潜んで意のままに操るだけでなく、その状態で生活する人々を保菌者ホルダーとして爆発的に感染域を広げる。

 だから、治安維持のために早急な対処が必要なのだろう。


 数十分後、目的地のオフィスビル。

 意思に反して発砲してきた義手の受付嬢2人を撃ち殺し、俺はすぐさま距離を取った。ウィルスは最期に自爆コマンドを起動し、豪奢なエントランスから調度品が吹き飛ぶ!

 初めての任務のはずなのに手慣れているのは、きっと身体が記憶しているのだろう。業務プロトコルが妙に詳しいのも、累積した任務の記録が日常と化していることの証だ。


「ゲート、突入します」


 ゲートを開ければ、無数の社員がフロア内を徘徊していた。網膜に重なる対象にレッドアラートのサインが刻まれ、表示される数値は100%を超えている。

 身体を完全に機械に置換した人々は、ウィルスへの対抗策を持たない。リビングデッドめいた自我無しに成り下がるのだ。俺はプロトコルに従い、徘徊社員のコアがある場所に銃口を向けた。

 確かに、これは辛い仕事だ。自我を失っているとはいえ、同胞を殺さねばならない。記憶操作によって職務の記憶を飛ばさないことには、精神が持たないのだ。俺は治安維持の崇高な使命を胸に、なるべくプロトコルに従うことで精神の安寧を図っていた。


 オフィスの奥に進むにつれ、社員の感染率は高まっていく。俺はパラ・ライフルを握ったまま、奥へ奥へと進んでいった。

 感染源を見つけ出して処理しないことには、この地獄は終わらない。さっさと終わらせて、記憶処理を受けるのだ。そうして、再び日常に帰らねばならない。

 何が来ようと、的確に殺す。俺は覚悟を決め、最上階へ歩を進めた。


 広い部屋だった。大きなアクリル板を加工した窓は降り続ける人工雪を映し、眼下で動き続ける市井の人々は蟻のように小さい。恐らくこのオフィスの最高責任者が陣取っていた、豪奢な執務室である。

 その主である男は、既に自我を失っていた。高級なスーツに身を包んだシリコン義体の男が俺の足に縋る。蹴り倒し、片手間にトリガを引いた。俺の目は、別の場所に釘付けだったのだ。


『また逢いましたね、スナッフル』

「……カサンドラ?」


 そんな筈はない。彼女がこんな場所にいるなど、あり得ないのだ。それも、自我を保った状態で。


『ここなら逢えると思って、待っていたんですよ? 昨日も、一昨日も、その前の前の前の前の前の時からずっと!』


 ホワイトノイズが聴覚を貫く。歪む視界に、銃口が揺れる。違う、最初からだ。最初から、彼女はこの世界に居なかった。俺の視界が捉えた幻か、ホログラムの集合体か。

 彼女を示す網膜上の影は、500%の数値を叩き出している。保菌者キャリアどころではない。カサンドラは、ウィルスデータそのものだ。


『やっとあたしと一緒に踊ってくれたんですから、今日こそはいける気がしたんです。あの時、目が合いましたもんね? 今日くらいはあなたの印象に残るように、殺して頂けるんでしょう?』


 カサンドラの蠱惑的な笑みが、痛い。少し影を帯びた眼光が、滑らかな肢体が、いじらしく漏らす声が、俺にトリガを引かせない。


『これは、昨日あなたに消去された時の傷。これは一昨日逢った時の銃創。これは…………』

 彼女は傷ひとつない自らの身体をひとつひとつ指し示し、ケラケラと嗤う。

『知っていますか? データ塊でも、消される時は痛いんですよ。やるなら一息で、ちゃんと狙ってくださいね?』


 ホワイトノイズは響き続けている。俺は、俺の義体は、勝手に銃口を向け、トリガを引いた。


 目が合う。燃えるような髪と同じ色をした、鮮やかなルビーの瞳だった。満足げに閉じられ、彼女の身体は霧散していく。


「……番号2861、対象をデリート完了。帰還します……!」


 俺の記憶を消してくれ。彼女が遺した呪いを、すぐにでも取り払ってくれ。狂ってしまいそうだ。


『帰還は却下されました。義体の感染を確認、切り離してください』


 そうだ、カサンドラを撃ったのは俺の意思じゃない。さっさと切り離して、帰還するんだ!

 俺は鎧めいた金属義体を脱ぎ捨て、もう一度コールした。


『承認、帰還を許可します』


 程なくして、俺の意識は薄れていく。記憶処理が始まった。あとは回収され、再起動の時を待つだけだ。俺は安心し、流れに身を委ねた。


    *    *    *


 ——Reboot, failure.


『忘れてしまうんですか、あたしのこと?』


 番号2861、記憶処理不可能。

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