僕と金魚




 夏休みも終わりに近付いてきた頃。デメ子を飼って約一ヶ月。……最近、デメ子の元気がないみたいだ。水の中でじっとしていることが多いし、エサの食い付きも悪い。


 何かの病気だろうか。


 心配になった僕は図書館に行って本やネットで色々と調べた。結局何の病気かはわからなかったけど、デメ子はとにかく弱っていて、このままだと危ない状態だということだけは分かった。だから僕はせめてもの対策として水温を一定に保ったりエアーポンプを交換したり、水を換えたり疲労回復に効くという塩浴も試したりした。これで少しでも元気になってくれればいいけど……。


 金魚の寿命は十年〜十五年らしいけど、屋台で取ってきた金魚はストレスのせいで弱っているため、早く死んでしまうことが多いという。下手すると屋台に出る前に死んでしまう金魚もいるそうだ。……いや、でも。家で何十年も飼ってる金魚だっているし、デメ子は大丈夫。大丈夫だ。僕は自分に言い聞かせるように大丈夫を繰り返した。





 僕の努力も虚しく、デメ子の症状は日に日に悪化しているようだった。時々水面付近でぼーっとしているし、横向きに浮いていることもあった。ケースを少し叩くと元通りに泳ぎ出すけど、僕はその姿を見つけるたびこのまま動かなくなったらどうしようと心臓が止まりそうになる。


 どうしよう、どうしたらいい? どうしたら君ともっと一緒にいれる? 君を失ってしまったら……僕には誰もいないのに。


 デメ子は水槽の底でじっと動かず、口からぽこぽこと泡を出して僕のことを見ていた。




 ──その日の夜。




 僕は、夢を見た。透明度の高い海底のような、静かな場所にぽつんと一人で立っている。水の中だけど息が出来るし、地に足が着くわけでもないのに普通に歩けるという、変な場所だった。周りにはこれといって何もない。どこからか光が射し込んできているらしく、水中がキラキラと輝いているのが印象的だった。ここはどこだろう。


 ひらり。


 突然目の前に現れた、帯のような赤い尾鰭。広い広いこの不思議な空間を、縦横無尽に泳ぎ回っている一匹の金魚。


「……デメ子?」


 気付けば、僕はその名を口にしていた。


「デメ子!!」


 僕は確信を持って叫んだ。ひらりとなめらかな動きで向きを変えたデメ子は、つぶらな黒い瞳で僕を見る。デメ子は素早く僕の前まで泳いでくると、ニコリと笑顔を見せた。


「……ユウキ」


 デメ子が僕の名前を呼んだ。僕はハッと息を呑む。これは夢だ、絶対に。だって、金魚が喋るわけない。


「驚かせてごめんね。ボクは君にもらった金魚。デメ子だよ」


 デメ子はまん丸の口をパクパクと動かす。それは、いつも水槽越しに見ていた仕草とすっかり同じだった。


「ボクはたぶんもうすぐ死んじゃうから。だからその前にユウキに言いたいことがあって呼んだんだ。こんな何もない所でごめんね」


 衝撃的な発言に僕は何も言えなくなる。デメ子が死ぬ……? そんなバカな。呆然としてる間に、デメ子は話しを続ける。


「あの日、お祭りの屋台でボクの合図に気付いてくれてありがとう。ボクをあの狭い場所から救ってくれてありがとう」

「僕は……何も」


 僕は何もしてない。僕はただ、たまたま行った夏祭り会場で、あの薄っぺらいポイで気まぐれに金魚すくいをしただけだ。


「ボクはね、あの小さな箱の中で短い生涯を終えるんだって思ってたんだ。何をしたわけでもないのに人間の大きな手に追い回されて、次の場所に行ってもそれは変わらなくて、すくわれなかったら処分されて終わり。だったらその前に、せめて誰かにすくってもらってあの場所から出てみたいなと思ったんだ。跳ねて合図を出していたんだけど、誰にも気付かれなかった。でもあの日、君が気付いてくれた」


 合図……ぱしゃりと上がった水しぶきのことを思い出した。


「嬉しかったんだ。ボクに気付いてくれて。ボクのために毎日エサをくれて、掃除もしてくれて、元気がないと心配してくれて。お母さんに怒られてもボクのことを気にして広い場所で泳がせてくれた。君は心の優しい男の子だ。短い間だったけど君と過ごせて幸せだったよ。……ユウキ、ボクに名前を付けてくれてありがとう」


 その言葉に胸のあたりが熱くなる。小さく息を吸って、震える口をなんとか開いた。


「君は……デメ子は、僕を連れて行ってはくれないの?」

「うん。連れて行かないよ。ユウキを道連れになんかしない」

「どうして? なんで連れてってくれないの? 僕は……僕は君がいなくなったら一人ぼっちなのに!!」


 僕が叫ぶと、デメ子はふわりと笑った。


「大丈夫。君は一人じゃないよ。ボクを心配するその優しさがあるなら、君にはたくさんの友達が出来るから。今はまだみんな君の優しさに気付いてないだけさ。夏休みが明けたらみんなと話してごらんよ。もちろん、お母さんとも」

「でも、」

「知ってる? 君のお母さん、君が寝ている時にこっそり部屋に入って君の頭を撫でてるんだよ? ごめんなさいって謝りながら」

「えっ……」


 僕は目を見開いた。お母さん……が? 僕の頭を撫でて謝ってるだって? そんなこと、一度もされた記憶がない。


「ユウキはちゃんと愛されてるよ。自信を持って」

「……本当に?」

「もちろん。だからさ、思い切って一歩踏み出してみようよ。世界は広いんだからさ」


 射し込む光が強くなった。雪の結晶のようなキラキラがデメ子の周りを囲む。デメ子はふと上を見上げた。


「……そろそろ時間みたいだ」

「ま、待って! 待ってよデメ子! 行かないで! 僕だって君に伝えたいことが……!」

「今まで本当にありがとう、ユウキ。ボクはユウキに救われた。君の幸せを遠くから願っているよ」


 デメ子はひらひらと尾鰭を靡かせながら上に向かって泳いで行った。


「デメ子!!」


 違う、違うんだ。デメ子は僕に救われたって言ってたけど、あれは違う。救われたのは僕の方だ。君といて幸せだったのは僕の方だ。一人ぼっちだった僕の、唯一の友達。


 光の向こうに消えていくデメ子に手を伸ばすが、その手は届かない。カメラのフラッシュのような強い光に、僕は反射的に目を閉じた。

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