第2話

 米の届け先の茨城のばあちゃんはいい人で、慶太郎がポカをしても、いつも一寸位は大目に見てくれる。品物が丸で駄目になった時はしょうがないが、今日の米程度だったら、ポカした事も、米屋のおっちゃんには内緒にしてくれる。ほんとは、駄目なんだけれども。結局はバレるんだけれども。

 その代わりに、茨城のばあちゃんは、慶太郎にお使いを頼む。今日は友達が経営してる居酒屋まで、ばあちゃん手作りの熱々おでんを届けること。慶太郎に駄賃に一つ、がんもを頬張らせてくれた。

「よっ……と」

 零したら大変なので、鍋は荷台に乗せただけで、自転車は漕がずに押して来た。そうっと自転車のスタンドを立てて、慶太郎は鍋を両手でしっかりと持った。

「ちわー。茨城のばあちゃんからおでんだよー」

「おう、電話もらってるよ、ご苦労さん」

 準備中の居酒屋のドアを肩で押し開けると、店主の親父が手招きをする。指差すカウンターに鍋を置くと、親父が慶太郎の口に炙ったばかりのするめを突っ込んだ。

「ふアチ、ふぁんきゅー」

 親父に笑われながら、するめを噛み噛み店を出る。今日のバイトはこれで御仕舞いだ。

「ふぁーて……」

 米屋に戻って……多分失敗の事は話してしまうだろうけど……前掛けを返して、バイト代をもらえるならもらって、家に帰ろう。

 自転車に跨がり、ペダルに足を乗せて力を込めた。すい、と自転車が前進して、

 ――声を聞いた。

「よーし、偉いぞ、オッケーだ」


(――――……)


 急ブレーキを掛けた。キキキキッ! とタイヤが鳴って、慶太郎の体は前につんのめる。

 するめが口から落ちたのにも気付かずに、自転車を放り出し、声のした方へと駆けた。

 路地裏、居酒屋の裏口のある通りだ。見渡す。それらしい人はいない。

「あれ? どうした慶ちゃん、忘れもんか?」

 居酒屋の親父が裏口からビールケースを運び出している。傍らには膝をすりむいた男児が座っている。

 慶太郎は、どちらにともなく口にする。

「今、ここにいた人は?」

「あ?」

「ここにいた人は?!」

 慶太郎の必死の形相の意味が、親父にはわからないのだ。

「誰かいたのか?」

 困ったように、足元の子供に尋ねる。子供は黙って、一方を指差した。慶太郎はそちらの方へと走り出す。

「あ、おい慶ちゃん……」

 自転車を置いて来てしまったという考えは浮かばなかった。

 声を聞けば、絶対にわかる。

 間違えるもんか。

 今もきっと、転んだ子供が痛みを耐えたのを褒めたのだ。慶太郎の記憶にある、あの笑顔と同じ顔で。

 ポン、と頭に手を置いて、

 「オッケーだ」と。

 息を切らして、慶太郎は走った。走りながら、目が回る程に首を巡らす。どこだ。どこに。いつの間にか繁華街に入った。日も落ち掛けて、慶太郎は息苦しさと落胆で泣きそうになった。

 昼間音馬とぶっ飛ばしたようなチンピラ達が、道に多く屯している。慶太郎はチンピラの一人と肩がぶつかって、それに気付いた。

「コラ、気ィつけろや、いてえだろが」

 慶太郎はぎっとチンピラを睨み付け、「ごめんなさい!」と怒鳴って先を急いだ。大声に目を見開いたチンピラは、「このガキ」と慶太郎の腕を掴む。

「ふざけやがって! それが謝ってる態度かよ!」

 独り言のように慶太郎は言い放つ。

「放せ、お前じゃない」

「ああ?!」

「――おい、迎えは一人でいいって言ったぜ」

 不機嫌な声が割って入った。

「――……」

 慶太郎も、チンピラも声の方を振り返る。

 声相応に不機嫌そうな男が一人、よれよれのシャツの裾を小汚いズボンの上に半分出して、もう間もなく履き潰すであろうスニーカーの踵を裸足で踏み付け、面倒臭そうにやって来る。

潮谷しおたにさん!」

 チンピラ達は一斉に頭を下げた。

「お疲れです!」

 慶太郎は手足が震えるのを感じた。

 憶えているのは十年前の顔だ。

 ……この人が。この人が?

(……でも、声は憶えてる)

(オッケーだって言ってくれたあの声は、絶対に忘れない)

「ん。別にいいよ」

 ……この、声だ、多分。

「あ、あの、俺」

 声も震えた。男は、凶悪な顔で慶太郎をジロリと睨んだ。

「……何見てんだガキ」

「……!」

 慶太郎は唾をゴクリと飲み込む。

「お、俺、もみじ幼稚園のひまわり組でした。む、昔」

「知らねえよ」

「幼稚園の時に助けてもらった」

「ああ? 知らねえな」

「このガキ」

 チンピラが、慶太郎の胸倉をぐいっと捩じ上げた。

「潮谷さんに売り込みかコラ」

「おい、とっとと案内しろ」

 潮谷と呼ばれた男は催促するなり歩き出す。チンピラ達は慌てて追い掛け、先導する為に前を行く。慶太郎を掴んだ男も、投げるように慶太郎を放し、後を付いて行った。




 家に帰るなり母親に練りわさびを買ってきてくれと頼まれた音馬は、そういや慶太郎の奴は、米屋のバイトをちゃんと済ませたんだろうなと、練りわさびの入ったスーパーのビニール袋をぶら下げて、米屋の前まで足を伸ばした。

「……戻ってない?」

 米屋の親父は、そうなんだよ、と音馬に困った顔をして見せた。

「届け先の茨木さんとこに電話してみたが、配達はちゃんと終わってるんだ。米袋を破いて零しちまったのが気詰まりで戻れねえのかってえと、慶ちゃんが今更そういう玉じゃねえだろしなあ。そんな様子もなかったそうだし」

 どっかで喧嘩でも買ってんのかねえ、音坊なんか知らねえかい、と親父が尋ねた所で、米屋の奥で電話が鳴った。

 米袋を破いたのはバレてるな、と音馬はさして悪意もなく考えながら、親父が店の中に戻るのを見送った。しかし慶太郎は何やってやがんだか、と道の向こうを見やると、丁度自転車を手で押してこちらへと戻って来るところの慶太郎を見付けた。

「慶太郎……」

 元気がない。どこか悄然としている。

「おい――?」

 米屋の親父は、脱ぎ捨てたサンダルをつっかけて戻って来た。

「茨木さんからだったよ、慶ちゃんにお使い頼んだ先の居酒屋で……お、慶ちゃん!」

 慶太郎は米屋の前で自転車を止めて、前掛けを外し、店先に出て来た親父に差し出した。

「ただいま……米袋破けちまったんだ、ごめんな」

「ああ……慶ちゃんどうした、元気がねえな」

「そんなことねえよ」

 親父は前掛けを受け取り、そんなことねえってこたねえだろ、と続けた。

「茨木さんから電話もらってるよ。お使いに行った居酒屋で、血相変えて誰か捜してたみたいだってじゃねえか。見つからなかったのかい?」

 音馬は目を見開いた。土手の上から見かけた男が、咄嗟に脳裏に閃いた。

 慶太郎が捜したのなら、それはきっとそうなのだろう。

「慶太郎……会えたのか?」

 慶太郎はぐっと唇を噛んで、尋ねた音馬を見た。その目から、ぽろっと涙が落ちた。

「……!」

「う……ぐ……ひっく」

 口を噛んで耐えるのは数秒ともたなかった。しゃくり上げ始めるなり、慶太郎は自転車に跨がって、猛スピードで走り去った。

「……音坊、慶ちゃん……な、泣いてたな……?」

 音馬は拳を握り込む。うろたえる親父の問に答えてやらずに、質問で返した。

「茨城のばあちゃんがお使いに頼む居酒屋なら『幾蔵』だな?」

「ああ、そうだろうな……あ、音坊!」

 音馬は駆け出した。慶太郎の自転車が去ったのとは逆の、居酒屋に向かって。




 前掛けを着けた慶太郎の姿を、人はよく憶えていた。居酒屋で訊き、その先の繁華街で訊き、店先の道でチンピラ達と一悶着起こしてくれて、ちょっとどうしようと思ったのよね、と証言した客引きの男に更に訊き、音馬は今、慶太郎と別れたチンピラ達が入って行ったという一軒の飲み屋の前にいる。

 音馬の手に、木刀はない。ぶら下げているのはスーパーで買った練りわさび(チューブ入り)だ。だが音馬は躊躇なく飲み屋のドアを開けた。中は薄暗く、数人のチンピラが思い思いの席でホステスと酒を飲んでいる。

「……なんだ? このガキ」

 音馬は入口で見渡して、彼らしい男がいない事と、店内の脇に二階へ昇る階段があることを見付けた。

「邪魔するぜ」

 一言告げて、音馬は階段に向かって歩き出す。途端にチンピラ達は席を立ち、音馬の行く手を遮った。

「……通して欲しいんだが」

「おい……何しに来た? ここを西松組の店と知ってのことか」

「知らねえよ。とにかく通せ」

「ふざけんな!」

「手に持ってんのぁ何だ、ああ?」

 音馬の腕を掴もうとしたチンピラは、逆に音馬に腕を捩じ上げられて悲鳴を上げる事になった。

「野郎……!」

 階段前で突如始まった乱闘に、ホステス達は席を立ち、一つところに固まったが、騒ぎ立てないのは、こうした荒事を見慣れているのか。

 チンピラの二、三人をぶん殴り蹴り飛ばし、階段に駆け登ろうとした音馬を別のチンピラが掴んで引き戻す。

「どこの組のモンだ、ああ?!」

 大声で質したチンピラを音馬が蹴った時、階段の上から、楽しそうな声がした。

「ああ、遅かったな。上がって来い」

 ばっと振り仰いだ先には、手摺に身を凭せて見下ろしている男が一人。

「……潮谷さん」

 間抜けな声でチンピラが呼んだ。

「俺がお使い頼んだ奴だ。悪かったなあ、言っときゃ良かったか?」

 チンピラ達はぱちくりとし、そういうことなら、と音馬を放した。音馬は潮谷を見据えて、階段に足をかけた。

「潮谷さん」

 チンピラが一人、音馬の手の袋を掴まえて尋ねた。

「疑う訳じゃないですが、お使いの品はなんです」

 振り向いた音馬に、てめえは黙ってろ、とチンピラが言う。上からの潮谷の声は、さらりと答えた。

「ワサビだが?」

「……」

 チンピラは袋の中身を確かめる。軽く舌打ちして、行け、と音馬に命令した。

 階段の上には一階よりも品の良いフロアがあった。中央のテーブルには二人分のグラスがあり、刺し身を肴に誰かと酒を飲んでいたらしい。

「驚いたな、ほんとにワサビか」

 二階に上がって来た音馬に、潮谷は笑った。

「ま、袋に緑の箱が透けて見えてたんだけどな」

 さて、と潮谷はソファに座る。

「何の用だ? 下のチンピラ共のボスなら、さっきから腹の具合が悪くてトイレを行ったり来たりだ。俺が用向きを聞くが……都合が悪けりゃ帰るんだな。ワサビはズボンにでも隠してけよ。持って帰ったんじゃ疑われる」

 音馬は、グラスを掴んで酒を飲み出した男をじっと睨んで、自分の記憶の中の男と照らし合わせていた。

 ……こいつのような、そうでないような。

 何しろ、五才の子供の記憶だ。憶えようと思って眺めていた顔でもない。

 目の前の男は、三十代の半ばといった頃か。なら十年前には二十代半ば……記憶の姿と年頃は一致する。

「あんた……十年程前にもこの町に来たか?」

「十年前?……さあ……来たかもしれねえし、来なかったかもしれねえし」

 よれよれの格好の男はちょっと考えるように首を傾げた。額の真ん中で分けられているいつ散髪したのかわからない前髪が、頭が揺れると顔に掛かった。

 何だ、俺に用なのか? と潮谷は音馬を振り返る。そうして、ハハッと笑った。

「今日はよくガキに絡まれるな」

「……よく絡まれる?」

「米屋の前掛けした、お前くらいのガキだった。ひょっとして知り合いか?」

 ――ではやはり。

 こいつが十年前のあいつかはともかくも。

 今、慶太郎を泣かせたのは、この男だ!

 音馬はぐぐっと拳を握り込む。

「そうか、お前、米屋のガキの友達か。それでこんなところまで来……」

「よくも慶太郎を泣かしやがったな……!」

 突き出した音馬の拳は、するりとかわされた。

「……!」

「っとと、アブねえ。酒が零れるところだ。ハハッいい奴だなあお前」

「……フザケんなッ!」

 潮谷は立ち上がり、するりするりと拳をかわす。

「そうか、米屋の息子はケータロウか……泣いたのか、悪かったなあ。見るからにシロウトさんなガキをヤバイ事に巻き込みたくなかったんだよ、謝っといてくれ」

 音馬の拳が当たらない。

(こいつ、強い……!)

 ぱしん、とグラスを持つ反対の手で、潮谷は音馬の拳を受け止めた。

「さ、気が済んだら帰んな。子供がいていい場所じゃねえ」

 音馬は空いているソファの上に、白木の鞘に入った一本の刀を見付けた。木刀でないのはわかったが、このまま拳を幾ら振るおうとも、この男には届かない。手を払って、ソファの刀を掴んだ。持ち上げてすぐに、ずしりとわかる。――重い!

「馬鹿、よせ、そりゃ真剣……」

 声を上げた潮谷が、構えた音馬を見て瞬いた。「へえ……?」

 しかし音馬は一撃を潮谷に食らわせる事は出来なかった。

「いや、すまんね潮谷さん」

 濁声が時間切れを告げた。席を外していたチンピラ共のボスが戻って来たのだ。

「……なんですかな、その子供は?」

 抜いていないとはいえ、知らぬ間に、刀を構えた子供がいたのだ。出張った腹を撫でながら音馬を睨む男の目は、警戒と攻撃で凶悪だ。

「……どうしても刀を触りたいってワガママ言うもんでね」

 面倒臭そうに説明して、潮谷はソファに座った。

「ちょっとだけ弄らせてやったんですよ。ほら、もう返せ」

 顎で音馬を促した。頭に来たが、返さない訳にも行かない。音馬は元のソファに刀を置いた。

「腹の具合はどうです? 西松さん」

 ああ、と言うだけで、西松は音馬から目を逸らさない。潮谷は、そうそう、と言葉を継いだ。

「ちょっとしたことに西松さんとこの若いのを借りるのも悪いと思ってね」

「いや、そりゃ使ってくれて構わねえが」

「ワサビをね」

 潮谷は、にいーっこ、と笑った。音馬に向けて掌を出す。音馬は、刀を掴む時に放り出していたスーパーの袋を、テーブルの上から拾い上げ、仏頂面で潮谷の手に乗せた。

「ごくろーさん。西松さん、刺し身が温くなっちまいましたかね」

 袋からわさびの箱をだしながら、潮谷は悩ましげにテーブルの上の皿を見た。西松も刺し身を眺めながら、「いや、俺はもういい」と多少膨らみ過ぎの腹を摩った。

「帰んな」

 潮谷が、音馬に千円札を差し出している。

 受け取るのは悔しかったが、替えのわさびを買う金がない。仕方なく紙幣を引ったくると、拳毎ズボンのポケットに突っ込み、吐き捨てる。

「また来る」

 潮谷は掌を顔に当てて、ぐう、と妙な声を漏らした。音馬が背を向け、階段に向かうと、「待て待て待て」と潮谷の声がした。

「西松さん」

 振り向くと、潮谷は音馬を親指で指して、西松に話していた。

「一応断っとく。ちょこちょこ出入りさせるよ。シバタオトメくんだ」

「――……」

 音馬は目を見開く。

「柴田……オッケーコンビとかいう……」

 西松は、ほう、という顔で音馬を見た。

(……俺は名乗ってねえ)

「なんだ、そうか。まあ、潮谷さんが使うなら、ただの子供じゃねえとは思ったんだが」

「ハハッ、ま、ヨロシク」

 西松に笑った後、じゃーな、オトメくん、と潮谷は手を振る。音馬は余程駆け戻って潮谷を問い質したかったが、ここは帰る事にした。笑顔で手を振る潮谷の無言の圧力が、引き返す事をさせなかったのだ、と、音馬はとても認めるのが悔しかったのだが。




 慶太郎がバイトを休んだのは、小学生の時に風邪を引いて、熱を出して寝込んだ一日切りだった。だから、もし今日バイトを休んだなら、すわ二度目の大事かと、町内中が慶太郎の心配をするはずだった。だが、悩みながらも、とにかくバイト先まで出向いた慶太郎に「じゃあ頼むわね」と言い置いて、怪我をした花屋のお姉さんが病院へ行ってしまったので、慶太郎はバイトを断る訳にはいかなくなってしまった。

 慶太郎はバイトする意味を見失っている。あれが「あの人」でない可能性も勿論あるのだが、とにかく今は何をするにも意欲が湧かない。

 目指して来た「オッケー」が、何だか正体不明の物に摩り替わってしまったようで。

 花屋の店内で、慶太郎はぽつんと椅子に座っている。

「スミマセンー」

 花屋の扉を開けたのは、去年この町に越して来たカナダからの留学生だ。彼は、趣味で絵を描いていて、時々この花屋にモデルにする花を買いに来る。目当ては花だけではなく、若くて綺麗な花屋の店主にも、いつかモデルを頼もうと思っている。

「……あ、カっちゃん。いらっしゃい」

 客の名はカインだ。慶太郎が言うのがカインのカっちゃんなのか、カナダのカっちゃんなのか、定かではない。

 彼は金髪の頭をきょろきょろと動かして、花屋の店主が留守なのを見て取ると同時に、慶太郎の様子に瞬いた。

「……ケータロさん、どうしました。今日は何だか花が似合う」

「?」

「いつもはケータロさんのエネルギーで花が枯れてしまうかと思う程なのに」

「なにそれ」

 ぽかんと眉をハの字にした慶太郎にアッハッハと笑って、カインは桔梗を注文した。慶太郎がそれを包む間、彼は店内の花を眺め回して、呟いた。

「僕が思うに、ケータロさんはひまわりだね。ぱっと咲いててくれないと、見てる方も心配になる」

 慶太郎は瞬く。

「……心配か? ごめん」

「謝らなくていいよ、感想、僕の勝手な感想です」

 ところで、と彼は尋ねる。

「リヨコさんはどうしました?」

「あ、なんか手え怪我したって。医者に行ってる」

「なんと……!」

 カインはわたわたと追加の注文をした。

「ピンクのスイートピー十本、束にして下さい! あ、かすみ草付けて!」

「いいけど……入院じゃなくて、手当てに行ってるだけだぜ?」

 桔梗の包みをテーブルに置いて、慶太郎はスイートピーの前に進む。ひい、ふう、と数えながらバケツからスイートピーを抜いていると、店の扉が引き開けられた。

「いらっさーい」

 中腰のまま振り返ると、そこにいるのは見覚えのある男。趣味の悪いシャツを着たチンピラ。

「……あれ?」

 慶太郎は首を傾げる。

「いつ会ったっけ? 会ったよな、お前」

「昨日だ、昨日!」

 チンピラは怒鳴る。昨日土手で、音馬と一緒に慶太郎にぶっ飛ばされたチンピラ達の中にいた。

「……ああーっ! そうだお前! 俺の『オッケー号』蹴っ飛ばしやがって!」

 お前なんかに花は売らねえ! と慶太郎は怒鳴ったが、チンピラは思い切り不本意な顔をして、花を買いに来たんじゃねえ、と吐き捨てた。

「……? んじゃ何しに来たんだよ」

 男は渋い顔で用事を告げる。

「うちの兄貴が、てめえに話があんだとよ」

「……お前の兄ちゃんなんて知らねえぞ」

「兄弟じゃねえ! アホウかてめえ! いいからツラ貸せ!」

 失敬だな! と慶太郎は怒って、「どっちにしろ店が留守になるから行かないぞ」と断った。

 押し問答をハラハラと見守っていたカインは、「連れてかねえと俺が兄貴に殴られるんだよ」と男が泣き言を吐いたところで、「ケータロさん、僕が店番するから行って来たら?」と言い出した。

「スイートピーの花束持って、リヨコさんを待つから。それで、モデルになって下さいってお願いしてみるから」

 鼻息を吹いて、余計な心意気までカインは語る。チンピラはぱあっと笑った。

「そうかい、頼めるか兄ちゃん」

 カインの顔に、慶太郎もひひひと笑う。

「うんって言ってくれるといいな。でもバイトしてるのは俺だから行かねえ」

 チンピラはがくうーっとうなだれる。もう少しで、気のいいカインは気の毒なチンピラを慰めるところだった。慶太郎は手のスイートピーをずいと示して、一喝する。

「用があるならそっちから来いよ! 俺はここで仕事してんだから」

 男はうなだれたまま懐に手を入れた。掴み出したのは携帯電話だ。

 二十分後、花屋に柄の悪い客が増えた。店先にでんと駐車されたベンツに、邪魔だなあーと慶太郎が文句を言ったので、呼ぶまでその辺走らせとけ、と後部席から降りて来た男は運転席の舎弟に命じた。

「兄貴、ご足労、すんませんです!」

 電話で兄貴を呼び付けたチンピラは膝に手を着いて頭を下げる。それには応えず、兄貴と呼ばれた男は濃いサングラス越しに、慶太郎をじろじろと眺めた。昨日吹っ飛ばした中にはいなかった男だ。

「お前がオッケーコンビのケーか」

「? あ、うん、そう」

「俺は沢木組の河田ってもんだ」

 見下ろす河田に慶太郎は胸を反らせる。

「俺はオッケーコンビのケーだ」

「……ああ」

 間の抜けた自己紹介を、カインはスイートピーの花束を手にハラハラと見ている。

「用があるなら早くしてくれ。俺バイト中だから」

 下がって控えていたチンピラが、黙れや、と慶太郎に怒鳴ったが、河田の挙げた手で自分が黙った。河田はサングラスを外して、胸ポケットに引っかけた。邪魔して悪いな、と慶太郎に歯を見せて笑った。

「ここらは沢木組の縄張シマなんだが、最近西松って野郎が引っ越しの挨拶も無しに出張ってきやがってな」

「そんなの知らねえや」

「まあ聞いてくれや。それでウチの組長も、礼儀のなってねえ新興野郎に腹を立ててる。昔っからのウチの市場で勝手してくれて困ってんだ」

「だから知らねえってそんなこと。ヤクザ同士のイザコザだろ」

 ぷう、と膨れた慶太郎に、河田はにやりと笑った。

「ウチはこれでもシロウトさんにはひでえことをしねえ優良企業なんだぜ」

 へーそう、と慶太郎は鼻をほじる。河田の後ろのチンピラを指差す。

「俺はそいつに自転車壊されたけどな」

「ちょっと蹴飛ばしただけだろが! って、それ以前にあれはてめえが……!」

 カッと赤くなって怒鳴った男は、河田のビンタで「すんません!」と黙った。カインはふるふると震えて、気の毒そうに、殴られて小さくなったチンピラを眺めた。

「話が見えねえなあー。それで、シロウトの俺に、何の用なんだよ」

 河田は、一言ぽつんと言った。

「潮谷」

「……――」

 慶太郎に緊張が走る。

 昨日聞いた名前。「あの人」のものかもしれない名前。

 河田は慶太郎の変化を見て取った。慶太郎を見る目を細める。

「……って奴に、お前、昨日会ったそうだが、本当か?」

「……うん」

 慶太郎の威勢が僅かに萎む。

「知り合いか」

「……知り合いっていうか……」

 そこで頼みだが、と河田は続ける。

「西松組はチャカやヤクで荒稼ぎする気なのよ。沢木組はやってねえ、シロウト相手にな」

 夕べ、潮谷と呼ばれた男は、河田やその後ろにいるようなチンピラ達と一緒にいた。潮谷さん、と客分扱いされていた。

「……潮谷って何者?」

「密売ルートの顔利きだ」

「―――」

「お前に頼みてえのは、潮谷に西松組から手え引かせることだ。まだまだ西松は弱小だ、頼みの潮谷にフラレりゃ沢木にゃ勝てねえ。潮谷を懐柔してくれ。話によりゃあ奴あガキに甘え」

 ケータロさん、とカインが呼んだ。

「危ない事なんじゃないですか?」

 断りましょう、危ないです、と訴えるカインを河田は睨む。

「外人さんは黙ってな」

 はい、と頷いてから、でも、とカインは言い募る。それを、慶太郎が制した。

「やる」

「ケータロさんっ?!」

「俺、知りたいんだ」

 慶太郎の声。真面目な響き。ある意味むき出しで、無防備な。

 敦子が聞いたら眉を顰めたであろう類の、声。

「潮谷って人の事、知りたい。俺の……ほんとに、俺の、」

 呟きは次第に小さくなる。今ここにいる誰に話したところで仕方ないと知っている。

 俯いて、再び顔を上げた慶太郎の声は、しかし浮き浮きしていた。

「なあ! ちっとは暴れてもいいんだろ? 相手、ヤクザだし!」

 河田は笑う。

「もちろんだぜ。オッケーコンビのケーだ、腕っ節も信用してるぜ。バイト代も弾む」

「え! バイト代!」

 目を煌めかせた慶太郎を、ケータロさん、とカインは叱る。そこへ、医者から戻った店主の梨世子りよこが現れた。

「ただいま……あらっええと、いらっしゃいませ……?」

 包帯を巻いた左手に右手を添えて、店内の客の様子にきょろきょろとする。慶太郎がお帰り! と掛ける声に「リヨコさん!」とカインの叫びが重なった。

「お帰りなさいリヨコさん、お怪我は大丈夫ですか?」

「ええ、あら、カインさん、スイートピー買って下さったんですか?」

「はい! あなたの為に! それで、その、あの……」

 カインがもごもごと絵のモデルの件を話そうとしている間に、河田が「おい」と慶太郎を呼んだ。

「店中のバラ、束にしてくれ」

 見ると、河田はリヨコを向いて、口元をぎゅっと引き締め、サングラスを装着している。頬が赤い。

「……」

 慶太郎はにやにやと笑い、まいどありーと大きな花束を拵えた。

 女店主はありがとうございます、と気前のいい客に笑顔で礼をする。カイン一人が泣きそうな顔で、ケータロさあん、と訴えた。



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