「オッケーぇ?」
若林貢
第1話
震える声で、それでも保母は懸命に声を上げた。
「その子を、放して下さい!」
「ガタガタ騒ぐなあ!」
保母は、泣き震える子供達を抱えて、自分が泣き出したいのを懸命に堪えている。
今日はいい天気だ。ほんの三十分前には、子供達は皆静かに昼寝をしていた。小さなグラウンドに続くサッシ戸は開け放ってあった。男は何食わぬ顔で、そこから教室に入って来たのだ。小さな保育園だ。園長が銀行が閉まる前に、と出かけてしまっている今は、この場の大人は保母一人だけである。子供達は十人に満たない。それでも、彼女が一人で子供達を守り切るのは、とても無理に思われた。
突然の禍々しい闖入者の手に、一人の子供が捕らわれている。いつもは一番元気の良い男の子だ。抱え込まれ、顔の前に汚れたナイフを晒され、涙目になって、声は出ないのか、出さないのか。
「……ははは、さっき一人、刺して来たからな! 大人しくしてろよ、二人も三人も一緒だぞ!」
神経質な声で笑う男は、学生か社会人か。男はじりじりと後退する。
「大人しくしてれば、途中で放してやるかもな?」
子供を人質に取ったまま、逃げるつもりなのだ。保母の脇で、ぎりぎりと歯を噛んでいた子供が、飛び出した!
「だめ、
「
「やめてえ!」
保母の声は届かず、若い男は、ナイフを持つ手を振り回した。向かって行った子供は叩き付けられ、床に転がる。頬が、ざっくりと切れている。
「オトメええ!」
叫ぶ子供を抱えたまま、男は身を翻してサッシ戸を飛び出た。が、ぎゃっと叫んで、立ち止まる。人質の子供が、自分を抱える腕に噛み付いている!
「放せ! 放さねえか、このガキ……!」
子供は噛み付いて放さない。保母は子供達にしがみ付かれ、そうでなくても、足が竦んで、すぐには動けなかった。男のナイフを持つ手が振り上げられる。噛み付く子供は男を放さず、目を瞑る。頬を切られた子供は、床に転がったまま顔を上げて、……見た。
男のナイフは、いつまで経っても振り下ろされなかった。
「こら。子供相手になにしてる。危ないだろ? こんなもん」
久し振りに買った宝くじは、やっぱり外れだった。……そんな感じの不機嫌さで、男の腕を捕まえている。
「な、なんだお前、放せ……!」
外は眩しく、床に転がる子供以外の教室の中にいた者達には、後から現れた男の顔は、逆光で見えなかった。
「……没収」
男の手からナイフをもぎ取って、彼は命ずる。
「子供を放せ」
得物を奪われ、静かに睨まれ。男はがくがくと震え出した。何分か振りに地面に足を付けて、人質だった子供は、口を開いて……犯人の男よりは年長らしい、彼を見た。
「保母さん、警察呼んで」
は、はい、と保母が応える声がして……犯人はぺたりと座り込み……彼は教室に向けていた視線を戻し、解放された子供に、にいっと笑った。
ぽろぽろと涙を落とす子供の頭に、ぽん、と手を置き。
――その人は、俺の頭に手を置いて、こう言った。
「頑張ったな、坊主。オッケーだ」
※
夕暮れの土手。明日、学校でテストされる文部省唱歌を口遊みながら、中学の夏服の袖を捲り上げた男子が、錆び付いた自転車を漕いでいる。自転車の荷台に乗っている木箱には『魚辰』と書いてある。彼が着けている前掛けにも、同じ文字があった。口遊む歌詞は一番と二番がごっちゃになっていたけれど、間違っている事に気付いているのかいないのか、特に気にした様子もなく、メロディーは滞りなく流れていく。
不意に、土手の脇から、数人の男が彼の漕ぐ自転車のすぐ前に駆け出て来た。いきなり道を塞がれて、彼は歌うのを止め、キッと自転車を停めた。
「ん? 何だ? 危ねえな」
進路に立ち塞がっただぶだぶズボンの男は、自転車が止まるなり、「こいつですよ、こいつ!」と叫んで後ろを向いた。
男の後ろには、似たようなのが他に四人。その真ん中が、二、三歩進み出た。彼は二人の男を見比べながら口を利く。
「何か用か? 俺、忙しいんだけど」
「お前か。ふざけた前掛け野郎ってのは」
「? 用なら早くしてくれよ。急いでんだから」
彼は今、バイトの最中である。今日は魚屋の配達員だ。着けている前掛けは、黒いゴム製である。ちなみに昨日は八百屋、一昨日は花屋、一昨々日は金物屋……
「こいつです! 何か、前掛けは違うけど……」
彼は首を傾げる。
「何だ? 俺はお前なんか知らねえぞ」
「ふざけんな! てめえ昼寝中の俺の足、自転車でひいてっただろうが!」
男がズボンをめくって見せた足首には白い包帯があったが、彼には覚えがない。
「知るか! お前、勝手にひかれたんだろ!」
「んな訳あるかあ!」
「まあ待て」
兄貴分らしい男が、フーフーと鼻息を吹く弟分の肩を叩く。
「聞けばよ。こいつはちゃんと公園の芝生で寝てたそうだ。その足をお前がひいてったんだと」
彼はビシッと男を指差した。
「駄目じゃねえか! 公園の芝生は立入禁止だぞ!」
指されて男は怒鳴り返す。
「お前はそこを自転車で通っただろうが!」
「だって、近道だから」
一陣の風が、場を寒くする。温度変化を感じていないのは、彼ただ一人だ。
「なあ、まだ終わんねえ? 俺、急いでんだよ。魚が煮えちまう」
「……ふざけんなあ!」
「……あ!」
男が自転車を蹴った。自転車と跨がっている彼は倒れなかったが、ガシャン、と音を立てて、荷台の箱が地面に落ちた。
「わび入れれば許してやると思ってたが、もう勘弁ならねえ! ぼこぼこにしてやる!」
彼は無言で自転車を下りて、落ちた箱を確かめた。蓋が開いて、生魚が数匹、土に触れている。
「……さんま」
「ああ?」
「……さんまだぞ! 平木のばあちゃんの好物なんだぞ!」
振り返り、怒鳴り、彼は立ち上がる。
「食い物を、粗末にするなあ!」
言うなり、ぐっと左足を踏み込んだ。右手を握り、肩の後ろにぐいっと引き付け、腰の回転に乗せて、腕を突き出す。男の顔面に拳が当たり、みしっと軋む音がした。
「……!」
彼が腕を振り抜くと、殴られた男は吹っ飛び、仲間にぶつかり、諸共に倒れ込む。下敷きにされた男たちが、「きさまあ……!」と喚いた。
「……やるか?!」
彼の剣幕に一瞬怯んだ素振りを見せて、しかし男たちは、「覚悟しろ!」と身を起こす。
そこへ。
「楽しそうだな、おい。俺も混ぜろよ」
のんびりとした声がかけられた。
「……なんだてめえは!」
人通りの少ない土手道を、彼が自転車で来た方向から、彼より幾分背の高い男がやって来る。彼と同じ制服のシャツを着て、右肩に木刀を担ぐ男の、右目の下から右耳の下に向かって、頬に古い傷跡がある。後ろ髪を短い尻尾のように縛った彼の、にやりとした顔を振り向いて、彼は間抜けた声で呼びかけた。
「……オトメ」
「オトメ言うな!」
手の木刀をびしっと向ける音馬の要求は、
「だってオトメじゃん」
で今回も終わりにされた。
「……オトメ?」
今度呼んだのは、彼に殴られた男だ。歩み寄って来る音馬をまじまじと眺め。
「……木刀……右頬の傷……
「まさか、じゃあこっちは、
音馬は、ん、と、慶太郎は、え? と男たちを向く。
「何だ?」
「そうだけど?」
「……! ! !」
男たちは息を吸い、出会い頭に鬼を見たとばかり、大声を上げた。
「オッケーコンビかあ!!」
音馬は顔を顰め、慶太郎はにっと笑う。
「あのなあ。漫才コンビか、俺たちは!」
「ひひひ。おう、オッケーコンビだ!」
うっぎゃああああー! と叫んで踵を返そうとする男達を、兄貴分の男は引き止める。
「まあ待て待て、こいつらがオッケーコンビなら、そいつを倒せば」
「ムチャでーす!」
皆まで言わさず子分共は泣き声を上げる。自分の陰に残らず隠れた子分共に、情けねえことを言うな、と叱る兄貴の実際の台詞は、「情けねえことを言うばァ」だった。
ザッと距離を詰めた慶太郎と音馬の、拳と木刀が振り抜かれた時、兄貴分の男は後ろの子分共々、「ばァ」という音を残して、土手の向こうへと吹っ飛んで消えた。
「……何だ、手応えがねえな」
つまらなそうにグチったのは音馬。木刀を担ぎ直し、息を吐く。横で慶太郎は両腕の拳を上に突き出し、空を向いて叫んでいた。
「いよーっしゃ! オッケーイ!」
音馬は毎度の文句を垂れる。
「だあから、それ止めろ! 俺までオッケーコンビじゃねえか!」
「コンビだから二人でいいじゃん。それに
オッケーコンビの名付け親である幼馴染みの少女の家は、音馬と慶太郎の家に挟まれて建っている。
「いつかシメる、あの女ァ……」
「お前、敦子に勝てねえじゃん」
「女相手に木刀振るえるかよ」
「いつかシメるって言った癖に」
「……」
「ひひひ」
顔を顰め、いつかだ、いつか、と音馬は、多分永久にやって来ない日を、更に先送りした。
「……それより、いいのか?」
慶太郎に、音馬は足元に来た猫を木刀で指し示す。
「ん? お、猫だ、猫!」
瞬間喜んだ慶太郎は、猫の動向を見て顔色を変える。
「ああーっ! 泥棒猫ーっ!」
さんまを一尾、攫われた。
しまった、配達の途中だったー! と頭を掻き回す慶太郎に、やれやれとばかり音馬は笑う。
「……オッケーじゃねえなあ」
くそう、と木箱を拾い上げ、慶太郎は幾ら引かれるかなあ、と情けない声を出す。
音馬の喧嘩修業と同様、慶太郎のバイトは、己のオッケー度アップへの日々の重要なステップである。
――そう、あの日から。
ずっと続けて来た。
あの時の自分と遠ざかる為。
あの日の憧れに近付く為。
何も出来なかった自分を、音馬は憎んでいる。
頭を撫でてくれた人の声を、慶太郎は忘れないでいる。
よりオッケーな自分に近付く為に。
「目標の五十万は貯まったか?」
「ん……まだ」
だってよ、と慶太郎は愚痴る。
「最初にもらったバイト代、十円だぜ? 当時はそりゃすげー嬉しかったけど、今にして思えばよ……いくら幼稚園児だからって」
聞いた、と音馬は応える。
「それによ、父ちゃん母ちゃんも、稼いでるなら給食代は自分で払え、だし」
それも聞いた、と音馬。
「十年働いて五十万貯まらねえなんて……ローン払ってるサラリーマンかっての、俺は」
でも! と慶太郎は鼻息を吹く。
「中学卒業したら、予定通り、旅に出るけどな!」
「……あと半年か」
おう、日本全国、渡り歩いてやらあ、と慶太郎は笑う。
木箱を自転車の荷台に乗せながら、明日テストの文部省唱歌を口遊む。
「……おい。それ二番の歌詞だぜ」
「えっ嘘!」
じゃあ一番の歌詞はこうか?! と三番の歌詞を歌う慶太郎に、いいから配達行けよ、と音馬は促した。
「おばさん、これ、母が持ってけって」
「あら、いつも悪いわね、敦子ちゃん」
「いえいえ。作り過ぎる我が母が間抜けなの」
玄関で煮物の詰まったタッパーを受け取った慶太郎の母親は、にこにこと笑う敦子の手にもう一つ同じタッパーがあるのを見て、ふふふと笑う。
「音馬くんちにも?」
「うん、そう」
学校でもよく食べるもん、あいつら、と敦子は肩を竦めて見せる。食べ盛りの男の子を養っているお隣さんへの敦子の母の気遣いを、慶太郎の母は、何時も有難いと思っている。それを重荷に思わせないように我が母を悪者にする敦子も、しっかり者だ。
「慶太郎は、まだバイト?」
「ええ。今日は魚辰さん……ねえ敦子ちゃん、慶太郎のお嫁さんにならない?」
「あたしは堅実な男が好きなの。慶太郎も音馬もお断り」
尤も、稼いだ五十万をそっくりあたしに貢いでくれる、ってんなら、話は別だけど。そう言って笑う。慶太郎の母は、諦めて呟く。
「バイトしてる中学生、ってそれだけ言えば、堅実に聞こえない事もないのにねえ」
慶太郎が恩人の「あの人」を捜す旅に出る為にバイトで金を貯めていることは、この町では有名な事実だ。何時か厭きるだろうと思って保育園時代から息子にバイトを許していた慶太郎の両親も、最早半年後に迫った息子の出立を、半ば諦めている。二つ向こう隣の音馬の両親も、スポーツでもやってくれればいいのに、と喧嘩に明け暮れる息子を嘆いている。
音馬は、音馬の運動能力を惜しむ、剣道部を始めとした学校のクラブからの誘いは悉く断っている。スポーツマンなんぞになったら喧嘩出来なくなる。それが理由だ。
慶太郎は慶太郎で、お前バイトして金持ってるんだってな、と絡まれたのを吹っ飛ばしたのが、武勇伝の始まりだ。
敦子自身、十年前、保母の陰で理不尽な恐怖に震えていた子供だ。慶太郎も忘れてしまっているけれど、慶太郎は、犯人の手から敦子を引き剥して、それで替わりに捕まったのだ。音馬は、その慶太郎を助けようとして、頬に傷を負った。
「ったく、あのオッケーコンビは……」
男って、そんなに強くなりたいものかしら。呟く敦子に、慶太郎の母親は苦笑する。
「息子を取られた、って、うちの亭主は思ってるみたい」
「あ、それ柴田のおじさんも言ってた」
敦子ちゃん、うちの音馬は乗り越えるべき父親と設定する相手を間違えているんだよ、と先月の夏祭りで、ほろ酔いになった音馬の父親は、敦子の浴衣を色っぽくなったねと褒めるついでに愚痴もこぼした。
当の音馬はその日、縁日にやって来た柄の悪い余所者相手に喧嘩三昧で、腕っ節の名を更に上げていた。因に慶太郎は屋台のバイトに精を出していて、小金を貯めるのに忙しかった。時々遠くから慶太郎の「いよーしゃ、オッケーイ!」という叫びが聞こえて来たから、店の売り物や売り上げにちょっかいを出すならず者相手に、多少のバトルはあったようだが。
「男の子なんてつまんないわねえー」
慶太郎の母親は、頬に手を当てて、溜め息を吐いて見せた。
「だから、ね、敦子ちゃん」
「だーかーら、慶太郎はお断り」
敦子はにっこり笑って、おばさんの娘にならない? という毎度の台詞を遮った。
逆隣の音馬の家にも煮物のタッパーを届けて、……ここでも「しっかり者の敦子ちゃんなら、音馬を尻に敷けるんだけどねえ」という音馬の母親に(家の奥から「馬鹿言ってんじゃねえ!」という音馬の怒声も聞こえた)毎度の断りを入れて……敦子は自分の家の前で、聞き慣れた自転車の音に振り返った。
「お、敦子!」
キキイ、と年季の入ったブレーキの音をさせて、慶太郎の自転車は敦子の横に止まる。
貯めたバイトの金で、慶太郎が初めて買った自転車。その名も『オッケー号』だ。配達の為に買った物だが、慶太郎はこれで「あの人」捜しの旅に出るつもりでいる。既にぼこぼこな自転車が、慶太郎の思い描く長旅に耐えられるかは定かではない。
「ただいま! お、なんかいい匂いだ、煮物だな!」
慶太郎は敦子の方に顔を突き出し、ふんふんと鼻を鳴らして嬉しそうに笑う。
「大当たり。あんたんちにもちゃんと持ってったから、うちに食べに来ないでよね」
「おう、サンキュ! お前んちの煮物好きだ! オトメんとこにも持ってったのか?」
「持ってったわよ。あんたも音馬もよっく食べるから」
もう、家計に大打撃で、と敦子は両手を肩まで持ち上げた。そうしてからニッと笑う。
「まあ、その分あたしに食費を渡してくれるんなら?」
持ち上げた片手を掌を上にして慶太郎に差し出す。う、と呻いて、慶太郎は下唇を突き出した。敦子は吹き出して手をひらひらさせた。
「……冗談だって。あんたのお金なんか当てにしてないわよ!」
それより、と敦子はその手を腰に当てる。
「魚辰のおじさんに聞いたわよ~喧嘩して、猫にさんま盗られたんだって? オッケーじゃないわねえー」
「……ちぇー」
慶太郎は唇を突き出したまま、自転車を降りて右足で自転車立てを蹴り立てた。
「しょうがねえじゃん、さんまが地面に落ちちまってさあ」
身振り手振りを交えて、慶太郎が事の顛末を語り出した。聞きながら敦子が相槌を打つ。
「そうなの、そりゃひどいわね」
「だろ? ひでえんだ、そいつら」
「あんたがよ!」
「そんで俺さあ……えっ、俺か?!」
がびんとばかりに敦子を振り向く慶太郎の顔を、敦子はびしっと指差した。
「公園の芝生を自転車で通って、寝てる人の足ひいたあんたが悪い!」
「……ひいたのかなあー……憶えがねえんだけどなあー」
慶太郎は怪訝に首を傾げている。敦子は額に手を当てて、幼なじみの性質について溜め息混じりに評価した。
「ったくあんたは、猪と言うか、猿と言うか……」
目標以外、目に入っていないのだ。
そして、興味のない事はあっという間に忘れる。
それでも敦子に悪いと言われて、懸命に思い出そうとしている姿が何だか笑えたので。敦子は、そうだ慶太郎、と口調を変えた。
「こないだ、重利おじさんから電話があってさ」
接骨院と柔道場を経営している、敦子の伯父である。慶太郎も音馬も小さい頃には敦子と一緒によく遊びに行ったのだが、音馬は喧嘩、慶太郎はバイトにそれぞれ忙しくなってから、足が遠退いていた。
「おう、おじさん、何だって?」
「あんた、おじさんの道場行ったんだって?」
「ん? 近くまで行ったかな?」
慶太郎は目だけで空を見る。
「その時にあんたが荷物持ってあげたのが、お弟子さんのお母さんなんだって」
慶太郎はぱっと笑って、大きく首を縦に振った。
「そっか、お弟子の母ちゃんか」
敦子は笑う。
「やっぱり慶太郎か。前掛けかけた男の子が、じゃあ俺バイトあるから、ってお礼も聞かずに自転車で消えちゃったって。お礼言っといてってさ。駅で不良に絡まれてるとこ、助けてあげたんでしょ?」
「おう! 俺、オッケーか?」
「あんたは一緒に暴れてたでしょ」
「ひひひ、そっか」
敦子は溜め息を吐く。慶太郎の目指す「オッケー」を評する。
「……まったく、ばっかみたい。手掛かりなんて何にもないのに。闇雲に日本中捜したって、見つかるもんでもないでしょうに」
「いいんだ! 捜しながら修業するから」
それに、手掛かりならあるぞ、と慶太郎は胸のポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出す。街灯の下でくしゃくしゃの紙を慶太郎が広げるのを、敦子は呆れて眺めていた。
「……あんたってさ。絵心ってもんが、さっぱりないのよね」
「失敬だな。似てるぞ? これ」
「……ふーん。じゃあ、あんたは人類じゃないものに助けられたのね」
慶太郎は顔を顰める。オトメじゃねえけど、いつかシメるぞ、と呟いた。
「……へえ、あいつ、そんなこと言ってんの」
敦子の目がきらりと光ったようで、慶太郎は、い、いや、と口籠る。
「……にしても、見るたんびにその似顔絵の顔が変わるのはどういうこと?」
「しかたねえだろ。描き直すたんびに変わっちまうんだから」
「……似てないのね。要するに」
「……かもしれねえ」
「あの人」の顔を見たのは慶太郎と音馬だけ。犯人も見たはずだが、憶えてない、と警察に答えたそうだ。「あの人」は慶太郎を助けた後さっさと姿を消してしまって、どこの誰だか、未だにわかっていない。
「……でも、声は憶えてる」
慶太郎の呟きに、敦子は瞬いて、似顔絵から顔を上げた。思った通りの、幼馴染みが時々見せる真摯な表情がそこにあった。
「あの人」について思い出し語る慶太郎の声は、何時もと違う。普段のおちゃらけた響きの一切がない、真面目な、真剣な声。
「オッケーだって言ってくれたあの声は、絶対に忘れない」
声を聞けば、絶対にわかる。自信たっぷりに慶太郎は断言する。
「……声が変わっちゃってたら、どうすんのよ」
「……そ、そりゃ、困ったな……」
うろたえる慶太郎に、馬鹿ね、敦子は決め付ける。慶太郎の声がいつもの響きに戻った事に、ほんの少しほっとした。
おう、敦子、慶太郎、と斜め上から声が降って来た。見ると、音馬が二階の自室の窓から覗いている。
「煮物旨かったぜ。お前らも冷める前に食えよ」
「ああっ! そうだ煮物!」
慶太郎は叫んで自転車を担ぐ勢いで自分の家へ駆けて行く。
「じゃな敦子!」
飯、飯、腹減った、と消えて行く慶太郎を見送り、あのねえ、と敦子は窓を見上げる。
「元々煮物はうちのなの。お礼は?」
「おう、ごっそさん。作ったのお前だろ」
「え……」
敦子の料理も母親の料理も、特に煮物は味が変わらないはずなのに。目を見開いた敦子に、音馬はにやっと笑って言った。
「おばさんのより、ちっとしょっぱかったぜ」
「……あっそう。ときにあんた、あたしをシメるとかなんとか……」
音馬は途端に顔色をなくして、そういや宿題があったっけか、と上擦った声を漏らして窓を閉めた。
宿題なんかやらない癖に、と敦子は溜め息を吐く。
「……んもう、どっちも馬鹿過ぎ」
あたしは絶対将来性のある男と付き合うんだから、と口に出して、自分もちょっとしょっぱいという夕食を食べる為に、自分の家のドアを潜った。
木刀を肩に担いで、音馬は土手をぶらぶらと歩いている。今日は学校帰りに隣町まで足を伸ばしたが、最近は音馬の名声がこの辺では上がり過ぎて、音馬と承知で喧嘩を売り買いする輩はいなくなってしまった。もうここ暫く、手応えのある相手とは巡り合っていない。
(ち、このままじゃ喧嘩修業もままならねえ。俺も修業の旅にでも出るかな……)
とするなら慶太郎じゃないが、少しは金も貯めないといけないな、などと考えながら土手を行くと、遠くに見慣れた後ろ姿と、それの行く手を阻む、数人のチンピラ風の男が見えた。
音馬がこの土手を良く歩くのは、慶太郎が配達のルートに良く使うと知っているからである。
音馬は内心にやりとほくそ笑む。案の定、幼馴染みは今日も厄介事を呼んでいる。
見慣れた後ろ頭は自転車に跨がったまま、涼しい声でヤクザの下っ端らしいチンピラ達に要求する。自転車の荷台には米袋。今日は米屋のバイトらしい。
「通れないからどいてくれよ」
「おめえの自転車が跳ねた砂利が、アニキのメガネに傷付けたんだよコラ。どうしてくれんだ、ああ?」
「知るか。狭い道に広がって歩いてるから悪いんだろ。どけって」
「なにい?!」
「おい、喧嘩なら俺が買うぜ」
声を掛けた音馬を、チンピラ達はぎろりと睨む。慶太郎は振り向いて、やはり間抜けた声で「オトメ」と呼んだ。
「だからオトメ言うなっつの!」
「だってオトメじゃん」
そりゃあそうだけどよ、と音馬は不満に口をひん曲げる。オトメという名も嫌いだが、これで自分の正体がバレて、相手が喧嘩を売らないかもしれない。
チンピラの一人が音馬に凄む。
「なんだ? てめえは」
(……お?)
音馬は瞬き、眉を上げて確かめた。
「ひょっとして、俺を知らない?」
「てめえみたいなガキ、知るかよ!」
「……ほほう」
自然と口端に笑みが上った。「そりゃ結構」打って変わった上機嫌で、音馬は木刀を肩でとんとんと鳴らす。殆ど愛想良いと言える笑いで、音馬はチンピラ達に提案した。
「さっきも言ったが、喧嘩なら俺が買う。そいつはバイトの途中なんだ、行かせちゃくれねえか」
「お前、喧嘩好きだなあー」
呆れた声を出したのは慶太郎。
「『喧嘩株式会社』とかあったら、就職決定だよな」
「そんなもんある訳……」
馬鹿馬鹿しいと否定し掛けて、音馬は目の前のチンピラ達を見やった。
「……あるかもな」
慶太郎も真顔で頷く。
「……ああそっか。じゃあ、オトメお前、こいつらの会社に就職するのか」
三人のチンピラを交互に眺める。
「……したかねえなあ」
「いい加減にしやがれガキどもがあ!」
チンピラの一人が慶太郎の自転車を蹴った。ガシャン! と鳴って前輪のスポークが一本曲がった。
「……」
慶太郎は黙って自転車を降りる。音馬は慶太郎が自転車のスタンドを立てるのを、溜め息を吐いて眺めた。
(あーあ。この喧嘩も割り勘だな)
「俺の……」
ぼそりと慶太郎は言った。音馬は木刀を肩から降ろす。
「ああ? 何か言ったか? ガキ」
耳を澄ます真似をしたチンピラは、次の瞬間には吹っ飛んだ。
「俺の『オッケー号』になにすんだー!!」
「はぶっ!!」
慶太郎の力の籠ったパンチは、チンピラその一を宙に運び、遥か後方へと落とす。仲間が地面を擦る音を聞いて、残りのチンピラ達は、漸く慶太郎が殴った事実に気が付いた。
「な……?!」
怒鳴る慶太郎の見幕は、びりびりと空気を鳴らす。
「俺の『オッケー号』がお前らに何かしたか?!」
だから、砂利を跳ね上げて眼鏡に傷を付けたのだ。
「オッケー号……? まさか、こいつらオッケーコ……」
叫ぶチンピラに、何だ知ってはいたのか、と思いつつ、音馬は容赦なく踏み込み、木刀を振り抜く。
「ンビぃ?!」
「遅え!」
せっかくの喧嘩を逃してたまるか。腕を磨く機会は、日々減少しているのだから!
「おらおらおっさん達、まさか中坊相手に尻尾巻いたりしねえよなあ?」
「『オッケー号』に謝れ!」
ぶん殴られ、吹っ飛ばされ、元はと言えば慶太郎の自転車が砂利を跳ねたのが原因で始まった諍いなのだ、チンピラ達の頭に多少血が上っても致し方ない所だろう。
「こんのガキどもォ……調子に乗りやがって……!」
尻餅を付いていた連中も立ち上がり、一様にポケットからナイフを取り出す。
「うわ! ナイフだ! 卑怯だな!」
「……別にいいんじゃねえか? 俺も木刀持ってるし」
「ん? それもそうだな」
慶太郎はすぐに頷き、しかし次には嫌悪を露にチンピラ達を睨み付けた。
「……でもナイフ持ち歩いてるような奴は、尚更腹が立つけどな」
「……はは」
音馬は笑って相槌にした。もう謝らなくていい、と慶太郎は拳を握る。
「お前ら皆、ぶっ飛ばすから」
おい、俺にも一人くらい残しとけ、と言う間に慶太郎と音馬はチンピラ達に突っ込んで行く。音馬の木刀がナイフを弾き飛ばし、慶太郎は身を捻って突き出されるナイフをいなし。
みしっと鳴るのはジャストミートした木刀と拳だ。ぎし、と接点に蓄えられた力は、殴られたチンピラ達を吹き飛ばす。残り一人。
「俺のだ!」
互いに譲らず、既に青ざめていた最後のチンピラを、音馬と慶太郎は同時にノックアウトした。気の毒なチンピラは、先に吹っ飛んでいた仲間の上に、仲良く重なり落ちて失神した。
「――うっし!」
右腕を掲げ、音馬と慶太郎が肘をぶつけ合う。それから慶太郎は、空を向いて叫ぼうとし……サラサラサラ、と何かが流れる音を聞いた。
「ん?……うわあ!」
見ると、吹き飛ばされたチンピラのナイフが、オッケー号の荷台の米袋に刺さっている。
「ぎゃあー! 配達の米ー!」
慶太郎が叫んで米袋を抑えたり前掛けに落ちる米を受けたりしている間に、音馬は土手の下の民家に向かって声を投げた。
「おおい、おっちゃん、悪ぃないつもの!」
間もなく庭で作業をしていた風の老人が一人、大きなビニール袋を手に、土手を登って来た。登り切るなり、尋ねるでもなく袋を差し出す
「ほらよ慶ちゃん、使いな」
「うう……ありがとうおっちゃん」
自転車の横で半泣きになって座り込んでいる慶太郎が、米を前掛けに受けているので動けないのを見て取ると、老人は袋を広げて自転車の荷台に近付いた。音馬と老人が荷台の米袋をビニール袋に入れるのを見て、慶太郎は、自分も前掛けに溜めていた米をざらざらと袋に流し込んだ。
「いつも悪いな」
然程悪びれている風でもなく、音馬。
「なあに、慶ちゃんと音坊がほんとに悪い訳ねえんだ。そこで寝てる連中は、警察に突き出しゃいいんだろ?」
「うん、よろしく」
慶太郎に至っては、ゴミの回収日は今日だよ、と同じ口調で頷く。
ビニール袋の口を縛って持ち上げた。……サラサラと音がした。
「……わあ、おっちゃん、このビニール、穴空いてる! 空いてる!」
「おっとと」
老人の作業ズボンから現れたガムテープがペタリと貼られて、一回りでかくなった米袋を荷台に積んだ慶太郎は手を振り、中断されたバイトへと戻って行った。
ガタガタ揺れる慶太郎の自転車を見送って、音馬は独り言のように口にした。
「ったくあれじゃ、五十万なんて貯まるわきゃねえか」
「音坊はどうなんだい」
振り向くと、老人はまだ慶太郎を見送っている。
「ああ?……俺は貯金なんざねえよ」
「その気になりゃ、無一文だって旅は出来るよ」
音馬は僅かに眉を寄せる。
「……唆すなよ」
老人はにっと笑って音馬を向いた。
「なに、わしは音坊も旅に出る方に五千円張ってんだ。大穴で慶ちゃんも行かない方に張ってるのもいるがね。そりゃないだろよ」
「……はあ?」
呆れた声が出た。賭けの対象にされているとは。慶太郎も知るまい。
「……何て町だ」
「心配すんな、老人会だけだて」
言ったそばから、青年会や町内会はどうか知らんぞー? と付け足しつつ、老人は土手を降りて行く。呆れた気持ちと揺すぶられた野心を抱えて見送っていると、家の玄関を入ろうとした老人に、通り掛かった男が話し掛けた。老人は道の一方を指差す。どうやら道を聞かれたらしい。
(……)
音馬は片眉を上げた。似てる気がしたのだ。
男はぺこりと老人に頭を下げて、老人が指差した方に歩いて行く。
(……まさかな)
音馬は暫く男の行く方を眺めて、自分はそれとは反対向きに、土手道を歩き出した。
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