第3話

 放課後、真っ直昨日の飲み屋へ向かったところ、西松組の下っ端に紙切れを一枚渡された。

「引き止めたんだがね。ビジネスホテルがいいと言われて、ウチの若いモンも断られた。中坊とはいえ、少しは頼りになるんだろ? 潮谷さんの警護、頼むよ」

 飲み屋を出しなに、腹を摩る西松に声を掛けられた。

 音馬は今、紙切れに記されたビジネスホテルに向かっている。

 慶太郎とは、話しそびれた。学校での慶太郎の様子が、いつも通りのようで、決して普通でないとわかったから。

 あいつどうしたの? と敦子に尋かれたが、応えなかった。慶太郎の変調は、音馬と敦子しか気付かぬ程の……もっと言えば、そこまで慶太郎が堪えているのだから、音馬は何も言えなかったのだ。

 授業が終わると、慶太郎はいつものようにバイトに走った。今もきっと、あの日のオッケーを目指している。

 ――あいつの人となりは、俺が見定めてやる。

 あの人かどうかも、突き止めてやる。

 例えそうだったとしても、音馬は潮谷を許すつもりはない。奴は慶太郎を泣かせたのだ。あんなに純粋な憧れを、踏み躙ったのだ。

 余りにも真っ直目指してきたばっかりに、慶太郎は他に自分を支える術を知らない。

 昔役に立てなかった音馬は、その役を果たせる自分になろうと努めて来たんだのに。

 ここに至っても、慶太郎は、自分を頼らない。

(……くそっ)

 潮谷は、ホテルの狭い部屋でビールを飲んでいた。

 やっぱり来たのか、とドアを開けて音馬を招き入れた潮谷は、諦めたように笑った。音馬はまず、ポケットに手を突っ込んで掴み出した千円札を潮谷に突き出した。

「返さなくていい、ワサビ代だ」

 千円もしねえ、と音馬は手を引っ込めない。じゃあ幾らだ、釣りをと潮谷が言うので、音馬は札を壁際の机上にバンと乗せた。

「……ドリンクサービスに致しましょうか」

 苦笑して潮谷は椅子を立つ。

 腹のでかいオヤジにあんたの警護を頼まれた、と音馬が言うと、酒臭い息で、そりゃ有難い、と嘯いた。

「あんたに警護がいるようには思えねえが」

「ははっ俺の知ってることを西松に教えて欲しくない連中は、いっそ俺を撃ち殺せと思ってるだろうからな」

 さすがの俺も銃弾は避けられねえ、せいぜいその木刀で守ってくれ、と音馬の持つ木刀を指した。

 馬鹿にしている。

 音馬とて、銃弾なぞ、実際に見た事すらない。

「中学生はジュースだな」

 備え付けの冷蔵庫の前に屈み、オレンジジュースしか入ってねえや、と呟いた。

「なんで俺の名前を知ってた?」

 潮谷は振り返る。

「……ああ、シバタオトメくんね。オッケーコンビ、有名じゃないか」

 あ、こりゃリキュールだ、スポーツドリンクでいいか、と缶を掴んで立ち上がる。

「いらねえ」

「ん? 遠慮はいらんぞ」

「俺はここに寛ぎに来たんじゃねえ! 思い出したかよ?」

 酔っ払いは惚けた顔で首を捻る。

「……なんだっけ?」

 イライラと音馬は吐き捨てる。

「十年前だ!」

「ああ……」

 十年前ねえ、と潮谷は冷蔵庫を閉める。憶えがねえなあ、と音馬に缶を放った。音馬はそれを受けず、缶はどすんと床に落ちた。

「十年前、俺と慶太郎は五才、幼稚園にナイフを持った男が入った、慶太郎が人質になって、それをあんたが……!」

 潮谷は音馬に掌を向けた。眉を寄せて、困ったように口を開いた。

「待て、待て、だから、悪いが憶えがないんだ。……それは本当に俺だったのか?」

「……それは……」

 そうはっきり否定されると、自信はない。

だが、あやふやながら、似ているのだ。十年前の「あの人」と、潮谷は。

「……」

 黙り込んだ音馬に、ぽりぽりと頭を掻いて、ああそうだ、と潮谷は言った。

「ケータロウくんには、謝っといてくれたか?」

 音馬は口をひん曲げる。

「……話しそびれた」

 何だ、ダメじゃないかオトメくん、などと潮谷が言うもので、音馬はくわっと歯を剥いた。

「オトメ言うな! だったらてめえが直接謝れ! 慶太郎はあれから一度だって泣きゃしなかったんだ! てめえが『あの人』でもそうじゃなくても、俺は許さねえからな!」

「……あの人?」

 音馬は、ぐっと口を噛む。

「……慶太郎が、ずっと憧れて来たヒーローだ!」

 潮谷は、どこか淋しそうな顔をして、床の缶を拾い上げた。

「悪いが、俺は背負えねえ」

 ぽつりと言うと、ほれ、と音馬に缶を差し出した。にっと笑って「オジサン、物覚えが悪くてね」と悪戯けた。

 音馬が缶を受け取らないので、潮谷は冷蔵庫の上に缶を置いた。

「許さなくてもいいから、もう来るなよ。ヤクザのケンカになる。中坊には荷が重い。友達のケータロウくんには泣く程怖い顔して悪かったな。これもオトメくんから言ってくれ」

 オトメ言うな、と音馬が睨むと、おっと悪い、と潮谷は笑う。「言ったろ、オジサン物覚えが悪いんだ」

 携帯電話が鳴った。潮谷の胸ポケットだ。

「……っとと」

 潮谷は音馬に体の横を向けて、ポケットから掴み出した携帯を耳に当てた。

「ああ服部。ん? ああ。……酒臭い? 嘘吐け!」

 ビール一本で臭ってたまるか、と潮谷は笑う。いやそれ以前に電話だろ、と音馬は突っ込みたくなった。

「うん。……いやあ? さあ……どうだっけかなあ」

 電話の内容はわからないが、潮谷はやはり記憶に自信がないらしい。元々の質なのか、酒のせいなのか。いずれ電話にげらげら笑う潮谷は、ただの酔っ払いに見えた。

(十年前の……あの人じゃ、ねえのか?)

 恐ろしい目に遭った幼稚園児には、ヒーローは必要以上にかっこよく見えたかも知れない。酒の臭いが目の前の男を、一層割り引かせて見せる。

 「十年前のあの人」は、慶太郎だけのヒーローではない。

 通話はどうやらすぐには終わらない。音馬は部屋を出ようとした。

「ああそうだ、服部、お前十年前の事ってわかるか……俺、憶えてなくってな……ああ」

 音馬は足を止めて振り返る。潮谷は電話に向かって他人事のように説明する。

 不思議な光景だった。潮谷は他人事なのか自分事なのか、本当に判別が付かないような調子で話す。

 自分で判別が付かないのに、例えどんなに親しい友達だとしても、そいつに尋いてわかるのか。「あの日の合宿の夕食メニューは何だったかな」といった内容ではないのだ。

「ん、悪いな、調べといてくれ」

 二、三、他の会話を交わし、通話は終わった。突っ立ち眺める音馬に、潮谷はにっと笑って寄越す。

「ダチだ。俺よりよっぽど頼りになるから、何かわかるかも知れねえぞ」

 そう言ってから、しまった、とばかり顔を顰めた。

「……あ、はっは、オトメくん……」

「また、来る」

「……だよなあ」

 オジサン失敗、と呟いた後、潮谷は携帯に向かって、掛けて来るタイミングが悪い、と既に切れている通話相手に毒突いた。

 音馬が帰る前に話題を出したのは自分だということは、忘れているのか棚の上なのか。

 音馬は手の木刀をちらと見る。

 ヤクザ同士の喧嘩になるなら、実際木刀だけでは心許ない。脳裏に白木鞘の得物が浮かぶ。

 携帯電話を胸ポケットにしまって、潮谷は部屋の鍵を拾い上げた。

「俺はこれから出掛けるが、付いてこなくていいからな。それと、オトメくんはケンカしなくていいんだからな。西村んとこに真剣盗りに行こうなんて思うなよ」

 見抜かれている。音馬はにやっと笑う。

「あんたの言う事をきく義理はねえ」

「うわ、生意気なガキだ」

 呆れたように瞬き苦笑して、潮谷は出ろとばかり手を振った。




 河田に渡されたメモに書かれたビジネスホテルに、慶太郎が花屋のバイトが引けてから「オッケー号」で乗り付けたのは丁度日没の頃で、キキイッとゴムの磨り減った音をさせて自転車を止めた慶太郎は、愛車の鍵をポケットに突っ込んで、ドキドキとホテルのフロントを素通りしてエレベーターに乗った。

(えっと……)

 目的の階でエレベーターを降りてきょろきょろとすると、廊下にチンピラが一人。寄って行くと、チンピラが立っているのは、目指す潮谷の部屋の前だ。

 メモを掴み出して書いてある番号と部屋のドアを見比べていると、隣の男がじろりと慶太郎を睨んだ。

「なんだ、お前……あってめえ」

 ん、と慶太郎は顔を上げる。

「この間潮谷さんに絡んでたガキだな。何の用だ」

 慶太郎は首を傾げる。見覚えはないが、あの時、潮谷を迎えに来ていたチンピラの集団の中にいたのだろう。

「なんでお前に言うんだ。俺は潮谷って人に話しに来たんだ」

「潮谷さんは留守だ」

「えっ」

「ちっ、兄貴に連れて来いって言われてんのによお。どこ行っちまったんだか」

 何だ、留守か。慶太郎は少しほっとして、少しがっくりとする。

「しょうがねえ、兄貴に尋いてみるか」

 ぼやいて男はズボンから携帯電話を掴み出す。

 十年前の「あの人」と先日の潮谷が、慶太郎の根っこの部分で、否定とも容認ともとれぬ食い合いをしている。同じなら同じ、別なら別で、揺らぐ「オッケー」に決着をつけられるかもと思ってたのに。

 しかし慶太郎の口から出て来た声は、間抜けていた。

「……なあ、お前ら、兄弟じゃなくても兄貴って言うのか?」

「……あぁ?」

 慶太郎の問に不審気に睨んだ男は、手の中で鳴り出した携帯電話に飛び上がった。

「へい、……ああ、兄貴」

 今掛けようと思ってたんで、と男は見えない相手にお辞儀する。

「え? そっちに?……なんだ、擦れ違いだったんですかい」

 すぐに戻りやす、と頭を下げる男の腕に、慶太郎は飛び付いた。

「俺も連れてけよ!」

「な……っこら!」

 携帯電話に噛み付く勢いで、慶太郎はむしゃぶりつく。

「話があるんだって! おーい!」


 舟木は顔を顰めて携帯電話を耳から遠ざけた。テーブルの脇に立つ部下を、椅子に沈んだ西松は見上げる。

「……どうした舟木」

「へい……ガキが」

 ガキい? と西松は眉を顰める。テーブルにはローストビーフと酒。西松は専らつまみを忙しく口に運んでいる。

 西松の向かいで、潮谷はグラスをコトッとテーブルに置いて、「ガキがどうしたって?」と尋ねた。

 それが、と舟木が言う前に、「連れてけってば!」と叫ぶ声が、舟木の持つ携帯電話から響いた。

『そこにいんのか潮谷サン! 俺今から行くからな! 悪い事しちゃダメだぞ!』

 西松と潮谷は目を丸くする。舟木は耳に人差し指を突っ込んで、「いいから戻って来い!」と電話に怒鳴って通話を切った。

 すんません、と舟木は西松に頭を下げる。西松は首を振って、「なんなんだか……」と潮谷を向き、瞬いた。

「……潮谷さん?」

 潮谷は肘掛けに体を倒して身を揺すっている。

「……おもしれえ……っ」

「知ってる子供ですかね?」

 西松は目を眇める。くっくっと笑いながら、潮谷は「ケータロウくんかなあ」と身を起こす。

「ケータロウ……オッケーコンビの」

 西松は瞬き、潮谷を睨んだ。

「オッケーコンビのケーが潮谷さんに悪い事するなたあ、どういうことですかね?」

「……さあ?」

 潮谷は愉快そうに笑うと立ち上がった。

「どっちにしろ面倒臭いことになりそうだ。今日はお暇しますよ」

「潮谷さん」

 呼んで西松は立ち上がる。

「話がまだ」

「ああ、またいずれ。俺は牛よりマグロが好きですねえ」

「ほんとに手え打ってくれるんでしょうな?」

「さあ?」

 潮谷は機嫌よく手を振って階段を下りていく。西松は舟木、と呼ぶと、顎で潮谷が消えた階段を指した。


「いててて、放せ、放さねえかこのガキ!」

 通話が切れた事に漸く気付いて、慶太郎は電話に齧り付く事は止めた。

「潮谷サンとこ戻るんだろ! 俺も連れてけ!」

 携帯電話をしまって、一つ大きく息を吐いた。

「うるせえ! てめえみてえなガキ連れてってみろ、俺がしばかれ……」

 しまったばかりの電話が鳴った。男は慌てて掴み出す。

「へい……兄貴? ……ガキ? いますぜ」

 男は慶太郎をちろと見る。

「へい……わかりやした」

 慶太郎はぱちくりと瞬く。




 店の入口を無造作に通り抜けた音馬を、チンピラの一人が見咎めた。

「潮谷さんなら帰ったぜ」

「ああ……忘れもんだ」

 さらりと応えて階段を昇る。不審気に見送るチンピラを無視して、前にはワサビが通行証となった部屋に入った。

 軽く見回す。無人だ。テーブルの上には粗方食い尽くされた料理の皿が乗っている。奥の方の椅子に、白木拵えの日本刀が立て掛けられてあった。

(警備が甘ぇな……)

 そのまま奥に進み、音馬は目指す刀を手に取った。右手の木刀と違って、やはりずしりと重い。

「おやおや……」

 声に顔を上げると、手をハンカチで拭き拭き戻って来る西松が音馬を見ていた。大方また食い過ぎで、トイレに行っていたのだろう。

 音馬は、ずい、と左手の刀を西松に向けて掲げた。

「抜いていいか?」

 西松は目を眇めてからハハハと笑った。

「それは本物だぞ? おもちゃじゃねえ。中坊の手にゃあ余るだろ。それとも」

 返せ、とばかり掌を見せて、西松は近付いて来る。

「潮谷さんが持って来いって言ったのかな」

「俺の興味だ」

 にっと笑って音馬は左手を引っ込めた。

 ぶっそうなガキだ、と西松は薄ら笑う。

「必要なら木刀を置いていく。見た目大して変わらねえだろ」

 音馬が日本刀のあった場所に右手の木刀を置くと、西松は音馬を凶悪な顔で睨んだ。

「コラガキ。フザケんのも大概にしとけや」

「俺あ真面目だぜ……ケンカすんだろ?」

 音馬が睨み返すと、西松はさっと懐に手を入れた。咄嗟に音馬は身を沈め、低い姿勢のまま椅子を乗り越え、刀を鞘ごと西松の腹に叩き込んだ。

「ゲッ……」

 カエルが潰れるような音を漏らして、西松はひっくり返った。取り出されるはずだった拳銃が、西松の懐からガラリと落ちた。

「……そうか、重いから……」

 仰向けに動かない西松と、じんと痺れる手の中の刀を見て考える。刃の重量だけでもこいつは大した武器になる。

 ぐっと鞘と柄を握り、ゆっくりと引いた。鈍く光る刃が現れる。それが使われた事のある身かどうか音馬にはわからなかったが、包丁やナイフとは目的の異なる刃物である事は重々知れた。暫眺めて、そのまま鞘を戻す。

「ボス、電話で……あっ?!」

 携帯電話を片手に部屋に入って来た男が、西松の有様を見て声を上げた。

「てめえ、何しやがった!」

 男は電話を握ったまま、逆の手を懐に入れてナイフを掴み出す。音馬は白木の鞘を肩にトントンと当てて、呟いた。

「……取り敢えず、抜かずにどこまでいけるか、やってみっか……」



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