第25話 兄だから
土曜日の夜。
夕食を済ませた俺は、動きやすい格好に着替え玄関にいた。アイツに会うためである。
母さんには夕食後にコンビニ行ってくると伝えてあるので、怪しまれることはないだろう。
靴の紐を固く結び、体の調子を確認する。
まぁ、どこか悪いってことはないな。絶好調ってわけでもないが。
「そんな体動かしてると、喧嘩しに行くみたい」
腕を回したりしていると、
「たしかにな」
苦笑を返し、俺は小凪の顔をジッと見つめる。
昨日の泣き腫れはなく、顔色は至って普通。不安の色などは
「じゃあ、行ってくる」
「うん、いってらっしゃい。……頑張ってね」
「おう」
小凪に見送られ、俺は家を出た。
十二月となると外は暗く、頬を撫でる風は冷たい。
ったく、こんな中小凪を呼び出そうとしたのか。アイツ、正真正銘のバカだろ。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと道の先に人影が見えた。
一瞬こんな時間に散歩かと疑問を抱いたが、街灯の明かりで見えた顔に息を呑む。
「お、親父……」
こちらに向かって歩いていたのは、俺の親父だった。
まさか親父に出くわすとは思っておらず、動揺を
「
「あ、え、ちょっとコンビニに」
「それにしては、運動でもするみたいな格好じゃないか」
「ま、まぁ、コンビニ行くついでに軽く走っとこうかなって思ったんだよ」
「……」
なんとか誤魔化そうと
「あまり遅くなるんじゃないぞ」
「あ、あぁ」
横を通りすぎていった親父の後ろ姿を少しの間眺め、俺は再びアイツの待つ公園へと足を進めた。
ーーーーーーーーーー
公園に到着した俺は、少ない明かりを頼りにアイツの姿を探す。
「あっれぇ? オニーサンじゃないですか」
すると実に不愉快な声音が聞こえてきた。
声のするほうへ目を向けてみれば、アイツが木の陰からこちらを覗き込んでいた。もうその姿だけで通報できそうだ。
「よう、そんなところに立ってると不審者に見えるぞ」
「そうなんですけどね、ベンチで座っていても時間が時間なので、補導されるかもって思って隠れてたんですよ」
本当だろうか。小凪に不意打ちしようとしていたとしか思えない。もしくは俺の足音で隠れたとか。
まぁ、そんなことはどうだっていい。今宵俺がやるべきことはたった一つ、コイツを諦めさせることのみ。
俺は浅く呼吸を繰り返し、いつでも動けるよう準備をしておく。
「それよりも、なんでオニーサンがいるんですか? オレは小凪ちゃんを呼び出したつもりなんですけど」
「代理だよ、代理。こんな夜中に妹一人で歩かせるわけにはいかないからな。てか『小凪ちゃん』って呼ぶな気持ち悪い」
「えぇ、どうしてですか? まぁオニーサンが心配するのもわかりますけど。世の中物騒ですからね。けど、そういうことならオレが小凪ちゃんを守りますから、安心してください」
「安心できるかボケ。お前が一番の不安要素だ。あと『小凪ちゃん』呼ぶな」
「ひどいですね、オレのどこが不安なんですか?」
「全部としか言い様がないな。その薄ら気色悪い笑顔とか、鳥肌が立つような喋り方とか──吐き気を
そう告げると、途端にアイツの顔から笑みがスゥと抜けた。
「なんとなく察してはいましたけど、やっぱり知ってたんですね」
「あぁ、小凪から聞かせてもらったよ。まぁ、俺は一目見たときからお前のことが嫌いだったが。生理的に無理ってやつだ」
「ヒドイこと言いますね、オレだって傷つきますよ?」
そう言って泣き真似をしてみせるが、その顔はとても愉快そうな笑みを浮かべていた。
同じ笑い方でも、まだ
「そもそも、生理的に無理ってどういうことですか? オレ、初めて会ったときはカンペキに演じてたと思うんですけど」
「まぁ、たしかに好青年っぽかったな、見た目は。けど、軽薄そうというか、クズの臭いがしたんだよ」
「第六感ってやつですか? スゴいですねー」
「棒読みで言われても、全然嬉しくねぇよ」
まぁコイツにどれだけ褒められても嬉しくはないんだが。
「正直、それだけイヤなオーラが出てるのに、誰もお前の正体に気づけてないってのは信じがたいけどな」
「だから、それはオレの演技が上手いからですよ。あと、お前って言うの止めてくれません?
「あぁ、聞いたけど、なんか口に出すのもイヤだったんだよな」
「……オニーサン、喧嘩売ってます?」
素直に答えると、アイツもとい葛井は明確な怒りを
怒りの沸点がわからんやつだな。
そんなことを考えていると、葛井は咳払いをして「それで」と改めた。
「オニーサンはなにをしに来たんですか?」
「聞かなくてもわかってんだろ。俺が言いたいのはただ一つ、小凪に二度と近づくな、それだけだ」
「あはは、ですよね、知ってしました。けど、オレがそれを聞くメリットはなんですか? 言っておきますけど、立場が有利なのはオレのほうですよ?」
簡潔に用件を伝えると、葛井は挑発するような笑みを作りそう返してきた。
たしかに、クズだが人望があり脅す材料を持ち合わせている葛井と、葛井を止める材料もなく兄妹で付き合っている(フリだが)という俺たちでは、葛井のほうが有利なのは確かだ。
しかしだからといって、葛井の好きにさせるわけにはいかない。
小凪に助けてやるって言ったからな。
「なぁ、やっぱり小凪は諦めてくれねぇか?」
「何度言われても、オニーサンが望む答えは出せませんよ」
「なんでそこまで小凪にこだわるんだ?」
「なんでって、わかるでしょう? 小凪ちゃんが可愛いからですよ。あの顔を、オレの手で泣かせてみたいですね」
そう答える葛井の顔は、思わず眉をひそめてしまうほどの下卑た笑みに歪んでいた。
どんなことを考えているのか想像するのもイヤになる表情に俺は悟る。
あぁ、わかった。話し合いなんかじゃ解決しない。
こうなれば、意地でも諦めさせるしかないな。
「最後通告だが、やはり小凪を諦めてくれないか? できれば、二度と小凪に近づかないでほしい」
「最後通告ってなんですか? まぁ、何度聞かれても、オレの気持ちは変わりませんが」
「そうか……」
「まったく。小凪ちゃんは来ないみたいですし、帰りますね」
葛井はため息をこぼすと、そう言って
「それではオニーサン、さようなら」
一度振り向いてそう告げた葛井は、ゆったりと歩きだす。
しかし葛井はすぐに足を止めることになる。俺によって。
「……なんのつもりですか?」
葛井の進行方向に回り込み両手を広げると、葛井は不愉快そうに表情を歪ませた。
「お前が首を縦に振ってくれるまで、返すわけにはいかない」
「そんなことされても、頷きませんよ」
「いいさ、一時間でも二時間でも、朝になっても平日になっても、お前が二度と小凪に近づかないと約束してくれるまで待ってやる」
「バカですか? そんなことされても諦めるつもりはありせんよ」
「いいや、諦めてもらう。これ以上、小凪を傷つけさせない」
「オニーサン、もしかしてバカですか? こんなことされてはいわかりましたって頷く人はいませんよ?」
「そんなこと知るか。退いてほしけりゃ、小凪を諦めろ」
そう返すと、葛井はイラついたように髪を掻き乱し舌打ちをした。
それから睨み合うこと数分。痺れを切らしたように葛井が地面を蹴る。
「はぁ……あの、早く退いてくれませんか? そろそろ帰りたいんですけど」
「なら小凪を諦めろ」
「嫌ですよ。というか、オニーサンが諦めてください」
「俺が諦めることなんてなにもねぇよ。あるとすりゃ、お前が真人間になることくらいだ」
「……オニーサン、ウザいですね」
「安心しろ、お前の存在には負ける」
「……本当、ウザいですよ。あまりイライラさせないでくれます?」
「ちょっと挑発してみただけなんだが、すまんな。そこまで短気だとは思わなかった」
「失礼ですね、ホント。オニーサン友達いないでしょ」
「まぁ、たしかにそこまで多くはないな。けど、少なくともお前が大勢と築いてきた薄っぺらいモンよりは強い信頼があるぞ」
「……チッ」
「おいおい、仮面が剥がれてるぞ? 自慢の演技はどこに行ったんだ?」
「ちょっと黙ってください、うるさいんで」
「おいおい、そんな短気でいいのか? 短気は損気ってよく言うぞ?」
「うっさい! ちょっと黙ってくれますか!?」
煽りを続けていると、ついに葛井が本性を現し始めた。
この姿を録画して広めれば、コイツの地位も落とせるかもしれないな。
「あの、いくら時間かけてもオレの答えは変わらないんで。帰らせてもらえますか?」
「断る。お前が小凪を諦めるまで、ここは通さない」
「ッ、あぁもうウゼェなぁッ、いいから退けよッ!」
葛井は声を荒らげたと思うと、拳を振り上げた。
次の瞬間、その拳が俺の頬を襲い、少し遅れて痛みが広がっていく。
「っ……! いってぇな、なにすんだよ」
「お前がオレの邪魔をするからだ! さっさと退けよ!」
「退いてほしけりゃ、小凪を諦めろっ」
「うるせぇな! 断るつってんだろッ! テメテェそこ諦めろッ!」
また一つ、拳が飛んでくる。避けることは叶わず、まだ痛む頬に続けて衝撃が走る。
っ、いってぇ……。
頬からジンジンと広がる痛みに耐えながら、俺は葛井を睨みつける。
「んだよ、なんだその目ェ!」
続けて葛井が拳を構える。
その姿を見て、俺は空かさず葛井の左頬目がけて拳を放つ。
まさか反撃を食らうとは思っていなかったのだろう。葛井は少しの間呆けた様子で固まった。
しかしなにが起こったのか理解したらしく、葛井は赤く腫れた頬に手を当てて、こちらをキッと睨んだ。
「テメェ! よくもやったなッ!」
「うるせ、お前が小凪に与えた痛みはこの程度じゃねぇんだよっ」
俺と葛井は、揃って拳を握った。
ーーーーーーーーーー
そこからはただの殴り合いだった。
時間も忘れ、ただ互いの主張と拳が交差する。
男二人の叫びと鈍い音が夜の公園に響く。
頬だけでなく全身を激痛が襲う。しかしそれでも膝は突かない。
「っ、はぁっ、しつ、こい……ッ! 早く倒れろよッ!」
「断る、ね。っ……お前が、小凪を諦めるって言うまで、ここは遠さねぇ……っ」
俺も葛井も息を切らしているが、見ると葛井のほうはまだ余裕がありそうだ。
ったく、鍛えてる証拠か。くそっ。
今ばかりは己の非力さが悔しい。
しかしそれでも、ここを退くわけにはいかない。小凪と交わした約束のために、倒れるわけにはいかないのだ。
俺と葛井は揃って拳を構える。
葛井の向けてくる瞳が、ここで仕留めると語っていた。
「っ、オラァッ! さっさと沈めッ!」
「イヤだ、ね! お前こそさっさと諦めろ!」
回避なんて考えず、相手に向けて拳を振るう。
この度に鈍い音が響き、さらには血が飛び散る。
それでも止まらない。
「クソッ、クソッ、クソッ! 退けッ! 邪魔すんなッ!」
「こと、わる……っ、ぐっ……ッ!」
鈍い音が続く。
続く。
続く。
「──かはっ」
どれくらい叫んだだろうか。どれくらい殴り合っただろうか。
折れるわけにはいかない。小凪を守るんだ。そう誓い葛井の前に立ちはだかり続けた。
その意志を鎮めるような地面の冷たさが、俺の痛みを覆っていく。
心はいまだ折れてはいない。しかし、体が限界を迎えてしまったのだ。
本当に、己の非力さが悔しい。
口の中に血と土の味が広がる。
「っ、はぁっ、くそっ、いてぇ。ホント、バカじゃねぇの、マジで……っ」
葛井のそんな声が聞こえてくる。
「ったく、無駄に体力使わせやがって……。あーあ、月曜までに治るか? ……まぁいい。それじゃあな、オニーサン」
ザッザッと足音が地面を伝い響いてくる。
音はどんどんと大きくなり、そして徐々に遠ざかっていく。
このままでは、約束が果たせない。小凪を守れない。
動け、動け、動け……っ!
腕に力を入れて、限界を迎えた体を無理矢理起こし、葛井の足に手を伸ばす。
「……なんのつもりですか?」
ガシッと足を掴むと、葛井は面倒そうに俺を見下した。
呼吸すらままならない口で、無理矢理に言葉を吐く。
「い……っ、行かせ、ねぇ……っ」
「っ、本当しつこいですねぇ……。どうしてですか? どうしてそこまでするんですか? 妹のことなんてあなたには関係ないでしょう?」
「ハッ、そんなこと、決まってる……っ。俺は小凪の兄、だからな。っ、守ってやるのが、当然だろ……がはっ」
そう返すと、葛井は「……そうかよ」と静かに呟いた。
「んだよ、とんだシスコンだな」
「あ、あぁ、そう、だな……っ。それで、いいさ。はぁっ……だから、よぉ、俺はシスコン、だからなっ、お前が小凪を、狙う限り、っ……何度でも、お前の前に立ちはだかってやる……っ。例え、今日みたいにやられても……っ、絶対にっ」
葛井の足を掴む手に力を込めながら、不敵に笑ってみせる。
すると葛井は深くため息をこぼし、頭を掻いた。
「くそっ、わかった、オレの負けだ。アンタの妹には、もう手を出さねぇよ」
「いっ……たなぁっ、ぐっ……。もう、二度と小凪に、近づくんじゃ、ねぇぞ……っ?」
「あぁ、約束してやるよ。手ェ出そうとする度にこんな殴られて邪魔されちゃ、ストレス溜まるからな。ったく。シスコンの兄とブラコンの妹とか気持ちわりぃ」
そう吐き捨てて、葛井は俺を手を振り払って再び進み始めた。
「絶対っ、絶対だぞっ! 二度、とっ! っ、小凪に手を出すんじゃねぇぞぉおおおっ! ぜったっ、げほっ……!」
地面に血を吐きながら、遠ざかっていく葛井の背中に叫ぶ。
葛井の姿が見えなくなり、俺の荒い息のみが耳に届く。
持てる力を使い果たした俺は、立ち上がること叶わず地面に倒れた。
「はぁ、っ……はぁっ、げほっ」
ダメだ、体が動かねぇ……。
こんなところで寝たら、凍死しそうだな。薄れていく意識の中そんなことを考えていると、不意になにかが聞こえた、ような気がした。
なん、だ……? 誰か来たのか?
しかし顔を上げて確認することすらできないほどに、俺の体には余力がなかった。
どうか、次に目を覚ますときは天井がある場所でありますように。
そう願いながら、俺は目を閉じて意識の糸を手放す──
「兄さんっ!」
──つもりだったのだが、聞こえてきた声にパッと目を見開く。
するとこちらに向かって走っている小凪の姿が見えた。
小凪はすぐそこまでやって来ると、膝を突いて俺の体を抱き上げた。
そんなことしたら、小凪の服が汚れるだろ……。
「こ、なぎ……」
「兄さんっ! なんで、なんで……っ」
家で待っている約束だったはずなのに、どうしてここに小凪が……?
そんな疑問が頭に浮かぶ。
「なん、ではっ、こっちのセリフ、だっ。なんでここに、小凪がいるんだ?」
「兄さんが心配で見に来たの。そしたら兄さん、アイツと殴り合い始めるし……っ! ばかっ! 危ないことしないでって、言ったよね!? ばかっ!」
小凪は涙声で「ばか」と連呼する。
ふと、頬に温かいものが落ちてきた。
「泣いてる、のか?」
「当たり前じゃん! 兄さんがこんなにボロボロになって、泣かないわけないじゃん! ばかなの!?」
「えっ、ご、ごめん……?」
そう謝罪しながら、俺はぼろぼろと涙をこぼす小凪の頭に手を伸ばす。
「ありがと、な」
頭を撫でてやると、小凪は一瞬止まって「……ばか」と小さくこぼした。
「でも、なんとか約束は、守れたぞ。もう、大丈夫、だ」
「……ばか。兄さんのばかっ!」
「な、……え?」
先ほどよりも強い「ばか」に戸惑っていると、小凪はキッと俺を睨んで、
「そんなにされたら、諦められなくなるじゃん……っ!」
そう叫んだ。
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