第9話 小凪と恋人(仮)

 ──あたしのカレシになって。




 その言葉が、まるで静かな部屋に反響しているかのように脳内で繰り返される。


 どういう、ことだ……?


 あまりに突飛で、あまりに頓狂で、あまりに異常な言葉に、どうやら俺の思考はしばらくの間停止していたようだ。


 我に返ると、視界にある時計の針が五分ほど進んでいることを認識した。


 相変わらず差し込んでくる夕陽は眩しいし、部屋に漂う甘い匂いも変わらず鼻腔をくすぐる。


 小凪こなぎの〝お願い〟を聞く前となにも変わっていないはずなのに、なぜかすべてが違うように感じた。


 まるでパラレルワールドを渡ったとでも言うかのように、なにかがズレて感じる。


 ……ダメだ、頭が全然追いつかない。


 たった一言のはずなのに、そのたった一言によって俺の思考はこれ以上ないほど乱された。


 いくら考えても、小凪の真意を読み取ることもできないし、この〝お願い〟に対する返答も見つからない。


 それなら、と俺はやけに渇いた口を開く。



「どういう、ことだ?」


「そのままの意味だけど」


 しかし返ってきた言葉は、要領を得なかった。


 そのままの意味とは、どういう意味なのだろうか。


「もしかして、俺のこと好きなのか?」


 そのまま、という言葉に着目してなんとか考えついたのは、そんな非現実的な答え。


 しかし俺の考えは外れたようで、俺の答えを聞いた小凪は顔を真っ赤に染め上げ、見開いた瞳を鋭くして睨んできた。


「ばっ、ばっかじゃないの!? なんでそうなるわけ!?」


「い、いや。だって、そのままの意味って言われたから」


「だからどうしてそこからあたしが兄さんのことす、すすす好きってことになるの!?」


 普段のクールな一面からは想像できないほど感情的になった小凪の姿に、ちょっとした新鮮さを感じつつ「ならどういうことだよ」と問いかける。


「なに? 兄妹なのにあたしの考えわからなかったの?」


「なんでそんな喧嘩腰なんだよ……」


 喧嘩腰じゃないしっ、と吠えた小凪は、ため息を挟んで続ける。


「カレシって言っても、仮だから」


「仮?」


「そ。あたし、今結構な頻度でコクられてるの」


「そうなのか? なんで?」


「……アイツと別れてから、チャンスと思ったやつらが次々にコクってくるの」


「なるほど」


「それで毎回断るのが面倒に思えてきて」


「だから俺を仮の彼氏として立てて、告白の嵐を静めようと?」


「そういうこと」


 なるほど、と頷いてから、俺は一つ疑問を口にする。


「なんでそんな告白されてんだ?」


「だからアイツと別れたから──」


「本当にそれだけか?」


「っ、…………」


 わずかな違和感からそう尋ねると、小凪は驚いたかのように目を見開き口を閉ざす。


 たしかに、小凪は可愛い。兄として胸を張って公言できるくらいに。


 しかし、だ。俺の記憶がただしければ、日常的に告白をされるなんてことはなかったはずだ。


 小凪は中学時代、そのクールな雰囲気や俺と似た鋭い目つき、そして少しキツい言い方から、頻繁に言い寄られることはなかったと聞いている。


 それが高校に上がって無謀に挑むやからが増えるとは考えづらい。それがいくらフラれた直後であったとしても。


 だから、なにかあるのではないか。そう推測して繰り返し尋ねると、やがて諦めたように小凪はため息をこぼした。


「……なんか、変なうわさが立ってるみたいなの」


「変な噂?」


「……あたしが、頼めばヤらせてくれるやつだって」


「……ッ!」


 一瞬、怒りで頭が真っ白になった。


 誰がそんなことを言っているんだ? 誰がそんなデタラメなことを言いふらしている?


 俺は深呼吸でなんとか思考を落ち着かせ、尋ねる。


「誰が、根も葉もない噂を広めたんだ?」


「……わかんない。でも、アイツじゃないらしい、ってことは聞いた」


「なるほど……」


 たしかに、ヤらせてくれないからとフったのに、そんな噂を流す理由がない。


 もちろんアイツの考えなんて一切わからないから、俺の想像を越える異常な目的があるのかもしれないが、その場合推測するのは不可能だ。


 可能性があるとすれば、第三者。例えば小凪を鬱陶うっとうしく思っている女子とか。


 ……そういえば、アイツって顔とか立ち振舞いは好青年っぽかったんだよな。


 なら、アイツと付き合っていた小凪を妬んだ女子の一人や二人、いてもおかしくないのではないか。


「そういえば、学校ではどうなってるんだ?」


「どういうこと?」


「小凪がアイツと別れた話。まさか、アイツがヤれないから別れたって言ったことが広まってるわけじゃないんだろ?」


「……うん。あたしがフったことになってる」


 なら、噂を流したのは小凪を鬱陶しく思っている女子って線が濃厚か。


 そう答えを出していると、小凪が「ねぇ」と口を開いた。


「それで、どうするの?」


「え?」


「仮のカレシ、やってくれるの?」


 あぁ、そういえばそんな話あったな……。


「まぁ、男避けとして必要ってなら断る理由もないが、それだけでいいのか?」


「どういうこと?」


「噂はどうするんだ?」


「……それは、べつに気にしてないし」


 そのままでもいい、と言いきる小凪の表情は、どこか憔悴しょうすいした様子だった。


 はぁ、とため息をこぼし、頭を掻く。


「いいわけあるか」


「え?」


「普通に嫌だろ、そんな噂。それに小凪もツラそうじゃん」


「……」


「だから、引き受けるからにはその噂もどうにかする」


 もちろん、解決策なんて現状では思いついていない。


 しかし、苦しんでいる妹を放っておけるほど人として、いや兄として腐ってはいない。


「なんで、そこまでしようとしてくれるの?」


 小凪は少し暗い表情で、そう尋ねてくる。


「なんでって。そりゃ俺は兄だからな。できる範囲ではあるが、妹を助けるのは当たり前だ」


「な、なにそれ」


 小凪はほのかに頬を赤らめ、迫力のない睨みをしてくる。


 なんだそれ、可愛いかよ。


「まぁそれに、ここ最近小凪にはたくさんのものをもらってるからな。そのお返しってことで」


「か、勝手にすればっ」


 小凪は腕を組んで、プイッと顔を逸らした。


 まったく、可愛い妹様だな。


 夕陽を背にして腕を組み、拗ねたように頬を膨らませた小凪の姿に俺は思わず苦笑を漏らした。




   ーーーーーーーーーー




「──それで、なんだが」


 それからしばらく。お互い無言のまま気づけば日も暮れて室内も暗くなってきた頃。


 俺はずっと思っていた疑問を小凪にぶつけた。


「彼氏(仮)って、なにすればいいんだ?」


 正直、これが本当に気になっていた。


 彼氏がいると公言するだけでは、信憑性しんぴょうせいもないし、男避けとして効果が出るのか怪しい。


 なら彼氏らしいこと、もしくは存在を証明するようななにかをしなければならないと思うのだが、なにをすればいいのかまったくわからない。


「あれか? 放課後迎えにでも行けばいいのか?」


「は? なに言ってんの? キモいんだけど」


 おっとー? いきなり辛辣しんらつだぞー?


 突然の罵倒に固まっていると、小凪は少し考える仕草を見せ、俺を見下ろした。


「正直、兄さんにしてもらうことはほとんどないから」


「そ、そうなのか?」


「だって、カレシがいるって言えばもうコクられないと思うし」


「……」


 妹よ、考えが甘いぞ。少なくとも、確証がない情報では思春期男子を止められないとお兄ちゃん思うな。


 少しばかり妹の将来に不安を覚えつつ、「それだけで大丈夫なのか?」と確認するように問いかける。


「じゃあなに? 兄さんはダメだって言うの?」


「まぁ、な。ただ小凪が口で言うだけじゃ、諦めるやつなんてほとんどいないと思う」


「ふぅん」


「いや反応薄くない? 小凪のことなんだけど」


 こんなことで大丈夫なのか、俺の妹は。


「じゃあ兄さんならどういうことするの?」


「え? 俺なら?」


「だって兄さんが言ってきたことだし」


「いやまぁ、そうなんだけどさ」


 小凪も少しくらいは考えてくれよ、なんて言葉は呑み込んで、少しばかり考えにふける。


「やっぱ、迎えに行くのは有効だと思うんだが。彼氏の存在を不特定多数に見せられるから、充分な証拠になるんじゃないのか?」


 そう言うと、小凪は明らかに嫌そうな表情を浮かべた。


「なに? そんなにあたしの迎えに来たいの? シスコンなの?」


「えっなに、俺がおかしいの?」


 どうして小凪の〝お願い〟を叶えるために思案しているのに、当人にシスコンを疑われなければならないのか。


「というか、アイツは兄さんのこと知ってるんだから、バレちゃうでしょ」


「あ、あぁ、そうだったな」


 たしかに、アイツの存在を忘れていた。どうせなら一生記憶から抹消したいところだが。


「まぁギリギリ顔がわからないくらいの写真なら、兄さんって気づかれないと思うけど」


「それで彼氏がいると信じてもらえるなら、俺はいくらでも撮ってもらって構わないが」


「じゃあとりあえず一枚ね」


 言うが早いか、小凪はスマホを取り出してこちらに向けパシャリと写真を撮った。


「いや、今撮るのかよ」


「べつにいいでしょ」


「構わんが、せめて場所をどうにかしろよ。背景お前の部屋だぞ」


「そうね。というか、誰が『お前』よ」


 おっと、なんだか妹様はお怒りのようだ。


 どうしてそこで怒るのかはわからないが、少しはご機嫌取りをしたほうがいいのだろう。いやどう機嫌を取れと。


「すまんすまん、悪かったよ」


「ふんっ」


 ひとまずと謝ってみたのだが、どうやら小凪の機嫌は戻らなかったようで、結局部屋を追い出されてしまった。


 写真は……また今度でいいか。


「はぁ、疲れたなぁ」


 この疲労具合、今日はよく眠れそうだ。


 そんなことを考えながら、俺は自室に向かった。




 こうしてこの日、俺と小凪は仮の恋人となったのだ。

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