第8話『知られざる真実』
夜。
大蛇さんとの楽しいデートを終え、僕は家に帰っていた。
玄関には、学年が一つ下の妹の革靴が脱ぎ捨ててある。
テレビのローカルニュースの音声が聞こえてくるから、きっとリビングのソファにでも寝転がっているんだろう。
「ただいまー」
いちおう挨拶はしてみたが、当然返事はない。
まあ、最初から返事なんてあいつがするわけないしな。
僕は気にせず靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。
リビングには、予想通り妹の
予想と違ったことといえば、ソファではなく床のビーズクッションに腹ばいになっていたことくらいか。
一心不乱にスマホをいじくり倒しており、僕の方など見向きもしない。
「
今日はパートの日じゃないから、僕より先に帰宅しているはず。
すると、美佐は画面から目を離さずに、無言でダイニングテーブルの方を頭でしゃくってみせた。
テーブルの上には、A4のコピー用紙に書き置きがされてある。
あれを読めってことか。相変わらず無愛想な妹だ。
「……PTAの会合。夕飯はカレーか」
必要な情報だけを読み取り、僕は書き置きを処分した。
台所のコンロの上には、カレールーの入った大鍋が載っている。
中火でかき混ぜながら、待つこと十分。
ほどよく温まったカレーを、炊飯器からよそったライスにかけて、僕は食卓についた。
「カレー、温めたからお前も食えよ」
「……今いらない」
「あっそ」
わざわざ美佐の食い
僕は手を合わせると、さっさと食べ始めた。
僕と美佐の関係は、ひどく無味乾燥だ。
お互いに無関心。好きでも嫌いでもない。
ただ家族だから一緒の家に暮らしているだけ。
……いつからこうなったんだろうなー。
昔はもう少し仲がよかったような覚えもあるんだけど。
具体的には、小学校低学年の頃ぐらい。
在りし日の何気ないやり取りが、ふと思い起こされる。
◆
『お兄ちゃん。おトイレついてきて……』
『はあ? 一人で行けよ』
『だって、お化け出るもん』
『はあ……だから怖いテレビ観るなって言っただろ』
『いいじゃん! ドアの前で待っててくれればいいから!』
『しょうがないな……』
◆
うん、今じゃ絶対ありえないな。
風呂上がりに出くわしただけで、変質者を見るような目で見られるってのに。
トイレの前で出待ちなんかしてたら通報ものだ。
……可愛かったんだけどなーあの頃はなー。
兄ゆえの葛藤に苦しんでいると、
「……今日遅かったね」
なんという激レアイベント。
美佐の方から話しかけてくるなんて、リアルに数年ぶりだ。
僕は大急ぎで口の中身を水で流し込み、喋れる状態に戻した。
「ああ。カフェ寄ってた」
「兄貴が?」
「悪いかよ」
「キモ……」
「何がだよ。意味が分からん」
久々に妹とコミュニケーションができると思ったらこれである。
なんでこう、思春期の女の子って簡単にキモいって言葉を使うんですかね?
僕、それ言われるの一番傷つくんでやめてもらっていいすか?
くそ、ちょっとでも浮足立ってた自分がバカみたいだ。
僕は
うーん、母さんのカレーはいつも通り美味い。
中辛のピリッとした辛味を、隠し味のヨーグルトのさっぱりした甘みが中和し、絶妙な味わいを生み出している。
美佐に傷つけられた心がみるみる癒えていくようだ。
「一人で行ったの?」
少し間を置いて、また美佐が尋ねてきた。
自分で言うのもなんだが、僕は人生で一度も自発的にカフェなんぞに行ったことはない。
美佐もそれが分かっているから、僕の珍しい行動に興味を持っているのだろう。
「そんなわけないだろ」
「じゃあ誰と行ったの?」
まあ、そうくるわな。
僕は内心ニヤリとした。
身内びいきかもしれないが、美佐はそこそこ可愛い。
ファッションや身だしなみにも気を使っているようだし、人並みに恋愛もしているようだ。多分。
僕のことをキモいキモいと言うようになったのも、思春期に入ってからのこと。
つまり、奴は僕を男として見下しているに違いない。
フ、今日こそはその屈辱をすすぐときだ。
僕は落ち着き払って言った。
「
「嘘でしょ?」
「本当だよ。僕にだって一緒にカフェに行く友達の一人や二人くらいいるさ」
大蛇さんのことを彼女と言わなかったのは、恐れ多かったのと、一週間経ったら振られるのが確定しているからに他ならない。
だが、女の子とカフェを訪れたのは事実だから、嘘ではないだろう。
さあどうだ。少しは僕を見直したか。生意気な妹め。
美佐はクッションから上体を起こし、信じられないと言わんばかりに目を丸くした。
よしよし、期待を裏切らない反応だ。
「兄貴、友達いたの?」
「いるわ! おかしいだろ目のつけどころが!」
どうやら思っていたより見下されていたらしい。
しかし、僕への関心度はにわかに高まったようだ。
すばしっこい動きで、美佐が僕の対面に腰を下ろした。
「てか、女の子? 嘘、誰?」
「誰でもいいだろ」
「いや、気になるじゃん。教えてよ」
こうまでせっつかれては、兄として教えないわけにもいくまい。
僕は満を持して答えた。
「同じクラスの、大蛇夏巳って人。結構可愛いんだけど知ってる?」
「……大蛇さんって、あの?」
「大蛇なんて名字そうそういないだろ」
「ふーん、じゃあその人か……へー……」
あれ、なんだか反応が
もしかして、あんまり評判よくないとか?
いやいや、まさかね。
美人すぎてムカつくとか、そういう嫉妬の類だろう。
と思いつつも、僕は気になって聞いてみた。
「大蛇さんのこと知ってるのか?」
「……これ、うちが言ったって周りに言わないでね。もし本人の耳に入っ
たら、うちマジでヤバいから」
「分かった分かった」
かなり口が重い様子だが、
美佐はヒソヒソ声で話し始めた。
「大蛇さん、二股疑惑あるんだよね。もしかしたら三股かも」
「……嘘だろ?」
僕は頭を殴られたような気持ちになった。
あの大蛇さんが三股? なにかの間違いだろ?
「なんかね、大蛇さんがデートしてるとこ見たって子が何人かいるんだけど、一緒にいた男が全員違ったんだって」
「た、たまたまだろ。彼氏の変わり際だったとかだよ、きっと」
「それが、一ヶ月くらいの間に三回目撃されてて、三回とも違う男だったらしいの。ありえなくない? 一ヶ月で彼氏三回変わる?」
大蛇さんは確か、僕が三人目の彼氏だと言っていた。
この時点で、美佐の聞いた噂とは食い違っている。
「……一緒にいた男って、それきっと全員大蛇さんの兄弟じゃない?」
「大蛇さん、一人っ子って聞いたけど」
「じゃあ
「キスしてるとこ見たって子もいるけど。従兄弟とキスする普通?」
「……海外育ちなんだよ。だからキスなんてきっと挨拶代わりなんだ」
「いくら海外でも口と口のキスは挨拶でしないでしょ……」
「うるさいうるさいうるさーい! 辞めろ! 僕の脳を破壊するな!」
「いや。兄貴が勝手にキレてるだけじゃん。キモ」
それ以上、美佐の言葉は耳に入らなかった。
僕は猛スピードでカレーをかきこみ、自室に閉じこもった。
ベッドに飛び込み、頭から布団をかぶると、カフェで一緒にジュースを飲んだときの、大蛇さんの顔が脳裏に浮かぶ。
あの可愛らしい照れ顔が演技や何かとは思えない。
きっと何かの間違いだ。
大蛇さんのことを気に入らない誰かが流した悪評に違いない。
僕はそんなの絶対信じないぞ!
信じない、信じない、信じない……。
◆
ピロン♪
耳元で鳴ったスマホの通知音で目が覚めた。
時刻は夜の十一時。
現実逃避しているうちに、眠ってしまったらしい。
スマホの画面を見ると、LOVERSのメッセージが届いていた。
『大蛇夏巳:初めてメッセージ送ります! 今日はすごく楽しかったですね(頬を染めている顔文字)明日また学校で会えるのを楽しみにしてます! おやすみなさい』
疑似恋愛なんだから、目の前にいるときだけ彼女のフリをしていれば、それで恋愛力の向上には役立つはず。
なのに、こうしてメッセージを送ってくれるなんて、これはもう大蛇さんが本当にいい子である証だ。
そう、証なんだけど……。
寝て起きたことで、だいぶ僕の頭はスッキリしていた。
美佐は、あれでけっこう義理堅いというか、面白半分に不確かな噂を広めるようなタイプではない。
ましてや、僕に対して忠告という形で教えてくれたのだから、それなりに確かな情報だと判断したのだろう。
つまり、三股はいきすぎにしても、大蛇さんの男グセがあまりよろしくない可能性は十分にある。
うーん……あんまり信じたくはないけど、『もしかしたらそうかも』くらいの気持ちでいた方が、心の準備にはなるかもしれない。
まあ、別にいいじゃないか。
大蛇さんみたいな可愛い子に、彼女のフリをしてもらえるってだけで、僕みたいな非モテ男にとっては身に余る喜びだ。
これ以上を求めるなんておこがましいにも程がある。
ここは一つ、広い心ですべてを受け入れ――られれば苦労はしない。
相変わらず『大蛇さん三股疑惑』という疑念のトゲが、ちくちくと心を突き刺していた。
「はあ……聞かなきゃよかった、あんな話……」
げっそりと凹みながら、僕はシャワーを浴びるために一階に降りた。
明日からどんな顔して大蛇さんに会えばいいんだろう……。
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