そのきになーる。
増田朋美
そのきになーる。
そのきになーる。
少々曇って、寒い日だった。これでやっと、12月らしい日々がやってくると、みんな喜んでいるのであるが、喜ぶというのには程遠い社会情勢であった。もう、先日からはやってる発疹熱のせいで、みんな疲れてしまっているというか、疲弊していて、何もする気はないという感じだった。もう、どこかへ出かけるとか、そういうこと以外の事で、経済活動をさせるということを発明でもさせない限り、無理そうだった。
そんな話を、経済産業省の審議官としゃべってきたジョチさんは、自宅にかえる前に、なんとなく気になって、静鉄所に立ち寄った。こんにちは、と言って、インターフォンのない玄関を開けると、利用者が応答してくれたのであるが、いま来られてはまずいという顔をしている。どうしたんですか、と聞いてみると、女の泣き声が聞こえてくるのであった。なだめようとしているのか、男性の声も聞こえる。とりあえず、入らせてくださいとジョチさんは、草履を脱いで、四畳半に入っていった。
四畳半のふすまを開けると、水穂さんが眠っている音が聞こえてくる。近くでは、由紀子が、床に突っ伏して泣いているのが見えた。水穂さんの枕の周りは、おそらく彼の吐き出した吐瀉物で真っ赤に染まっていた。其れを、五郎さんが、何も言わないで片づけようとしていた。
「一体どうしたんですか。と言っても、大体何が在ったかつかめはしますけどね。」
と、ジョチさんは、大きなためいきをつきながら、四畳半に入った。ところが由紀子は答えない。いつまでも、涙を流して泣いているのである。五郎さんの処理している様子から、吐瀉物はいつもより大量であり、おそらく由紀子が、それを誘発してしまったのだろうか、と、すぐにわかってしまった。
「由紀子さん、説明していただけないでしょうか!」
一寸強く言うと、由紀子はやっと顔をあげて、
「私、そんなつもりはなかったんです。水穂さんにただ、ご飯をたべてもらいたかっただけなんです。」
と、だけ言った。その前後に、水穂さんがどんな様子だったか等、ジョチさんは聞きたいこともあったが、由紀子に聞くには無理そうだった。畳に染みついてしまった吐瀉物を、五郎さんは、アルコールで消毒しながら、
「ど、んな、時でも、水穂さ、んに感情、を、ぶつけ、て、は、いけません。食べてくれ、な、くたって、し、んぼう、強く、食べさせ、なくちゃ。確か、に、食べて、欲し、い、気持ちは、わ、かりますが。」
と、由紀子に言ったので、ジョチさんは、つまり、由紀子が、無理やり水穂さんにご飯をたべさせようとして、その反動で水穂さんが中身をはきだしてしまったのだと、理解できた。でも、五郎さんの正確ではない発音のため、理解するのは非常に難しかったけれど。
「ああ、又そうなりましたか。一体何日くらい、食事をしなかったんですかね。」
ジョチさんが聞くと、
「ええと、みか。」
又、そういう不鮮明な発音が返ってきたが、これで、三日間何も食べていないということが分かった。
「そうですか。確かに三日間、何も食べないのは、心配ですね。ただでさえ、肉魚一切取れないんですから、もっと食事に関しては、気を付けてもらいたいんですけど。」
ジョチさんは、由紀子の起こしたことには、あえて言及せず、腕組みをして、考え込んだ。水穂さんが、食事を一切取らなくなってしまうのは、これまで何度か経験してきたが、その時は、帝大さんなどに、栄養剤を注射してもらって乗り切ってきた。でも、そういうことを、医者に頼りすぎても、いけないよなあとジョチさんは思う。
「おーい、誰もいないのかあ。なんでみんな返事してくれないんだ?」
と、でかい声で、玄関先から誰かの間延びした声がする。この特徴的なしゃべり方は、すぐに杉ちゃんとわかった。
「ああ、一寸今、取り込み中なんですよ。上がってきてくれます?」
ジョチさんは、急いでそういうと、言わなくてもわかってらいと言って、杉ちゃんが、車いすを動かして、四畳半にやってきた。一体どうしたのよ、と杉ちゃんに聞かれて、五郎さんも由紀子も、一寸困ってしまった。でも、すぐに読み取ってしまうのが杉ちゃんなのである。そして、思ったことをなんでも口にしてしまうのも、杉ちゃんだった。
「そういうことか、全く、お前さんたちにとっちゃ、水穂さんも困るよなあ。多分、ご飯を食わそうと思って、由紀子さんが一生懸命やったけど、水穂さんは全く受け付けなかったのか。それで、由紀子さんは、困ってしまったわけねえ。」
由紀子は、泣きながら頷いた。
「まあ、あったことを口に出されるのは嫌な気持ちもするけどさ、初めっからちゃんと、整理しておかなきゃいけないことは、わかっているから、それは、ちゃんとしなきゃな。」
「杉ちゃんの発言って、こんなにつらい時もあるのね。」
由紀子は、小さな声でつぶやいた。
「それで、食べものを口にしなくなって、何日たつんだよ。」
「もう三日も。」
杉ちゃんに言われて、由紀子は、そう答える。
「何と、かして、食べ、てもらい、たい、ん、ですけど、おさじ、を、もっ、て、いけば、嫌がって、反対の、方へ、顔を、向け、て、しまう、んです。それでは、いけ、ない、何か、食べない、と、体力も、つ、かないって、何回も、いい、き、かせて、いるん、ですけど。」
五郎さんの説明は一生懸命ではあるが、発音が悪いため、うまく伝わらないのだった。
「まあ、そういうことなんだね。やれやれいつものパターンか。」
と、杉ちゃんは、はあとため息をついた。
「それにしても、三日間、何も口にしないというのは確かに心配です。これまでも、栄養剤の投与などで、何とかしのいできましたが、こういう風に、食事を拒否することが、何回も続いてしまうと、僕たちも叱られますよ。それではいけないですよね。」
「ほんとだほんとだ。何とかして、食べ物を食べさせなくちゃ。」
ジョチさんの話に、杉ちゃんも参入する。
「其れ、は、食べ物を、口に、いれ、て、飲み込、めない、という、問題で、しょうか。其れとも、水穂さ、ん、の、体のしょうじょ、う、の問題で、しょ、うか。其れとも、食べたく、な、いと、いうことで、しょうかね。」
と、五郎さんが言った。
「そうだねえ。多分、食べたくないというか、本人の言葉通り、食べる気がしないんだろ。ほら、こないださ、帝大さんが、水穂さんは精神的に疲れていると言ってたよな。其れが度を越して、ご飯をたべる気がしないということなんじゃないのかな。」
杉ちゃんが五郎さんに言った。
「そ、れでは、せ、いしん、て、きとい、うことに、な、りますと、きょしょくしょ、という病名が、つく、んで、すか。」
五郎さんがいう言葉が拒食症という症状なのを理解するのに、一寸時間がかかったが、
「でも、水穂さんは、痩せようなんてこれっぽっちも思ってないですし、ダイエットしようとか、そういう気持ちはありませんよ。」
と、由紀子は急いで訂正する。訂正することができてよかったと思った。
「ダイエットのし過ぎが拒食症というわけではありません。ハンガーストライキだって、医学的にみれば拒食症と言える可能性もあります。其れよりも、大事なことは、水穂さんにどうやってご飯をたべるように、持っていくか。これでしょう。」
ジョチさんが、そういうことを言った。確かに実業家らしく、問題点を探すのがうまかった。
「そうだねえ。まず初めに、ご飯をたべようという気に本人がならないと。」
杉ちゃんが、直ぐ彼に言う。
「そうなんですよね。それは、やっぱり生きたいというか、命を得たいと思っていないとできないんじゃないかなと、僕は思いますけどね。ほら、癌の治療でもそうだけど、患者さんが生きようという気にならないと、何も進まないでしょう。」
ジョチさんがすぐそういうと、
「理事長さん私を脅かすようなこと言わないでください!」
と、由紀子が声をあげて泣いた。
「ああ、わかりましたよ。由紀子さんの思いに水穂さんが答えてくれようと思ってくれたら、理想的かもしれないけど、それを妨げる大きな壁のようなものがあるというのは、皆さんもご存じですよね?口に出して言わないでも結構です。」
ジョチさんは、由紀子の話にすぐそういうことを言った。
「まあ、これを、解決するには、同和問題を解決しなければなりませんので、僕たちにはできやしないんですよね。それは、置いておいて、僕たちにできることをやりましょう。水穂さんがどうやって食べ物を食べてくれるようになるか。幾ら食べろと言っても、効果のないことは、僕たちも知っている。」
「根気よく呼びかけるとか、そういうやり方はダメだよ。食べ物のありがたさを教えてやった方がいい。食べ物は、これほど重要だということを、教えてやるんだ。其れは、偉い人じゃダメ。身近な人でもだめだな。でも、教えなくちゃならないんだよな。」
直ぐ、杉ちゃんが間に立った。
「そん、な、じ、んぶ、つ、どこ、に、いるんです、か。食べ物で、困った、こと、の、ある、ひと、なんて、よほど、お年より、でないと。」
五郎さんの言う通りである。日本社会で、食べ物に困っている人を探してくるのは、難しい。食べ物に命を救われたなんていう経験をしたことが在る人なんて、もう80歳を超えた高齢者ばかりになってしまうと思う。
「問題は、そこですね。」
と、ジョチさんは、大きなため息をついた。
「じゃあ、日本人でできないんだったら、外国人を探せばいいだろ。食べ物に苦労している国家から、誰かを探してくればいいんだ。簡単なことじゃないか。どっかの少数民族とか、そういうひと、いないかな。」
「杉ちゃんは、簡単にそういうこと言いますけどね。そういう国家は、どんどん減ってきていますよね。果たして、そういうところの出身で、日本で暮らしている人は、いるでしょうかね。」
と、ジョチさんが言うと、
「いるじゃないかよ。あの、バラフォンたたいてる人に、頼めばいいじゃないか。あの人は、ガスや水道を初めてみたって言ってたよな。其れなら、そういうことを教えてくれるんじゃないの?」
と、杉ちゃんはにこやかに言った。
「そうですね。確かにそうかもしれないですけれど、彼も、高級な身分のひとですからね。杉ちゃんが望む人物とは、ちょっと違うのではないでしょうか。」
と、ジョチさんはそういうが、杉ちゃんは一度決めたらすぐに実行してしまうひとだ。そして、言いだしたら聞かない人である事も知っている。
「でも、お願いしてもいいんじゃないの。僕たちにはできないことを知っている人だぜ。」
杉ちゃんがそういうと、
「理事長さんやってください!あたしからも、お願いします!」
と、由紀子が懇願するように頼むので、ジョチさんは、わかりましたとカバンを開けて、スマートフォンを出した。ジョチさんが、一寸相談があるんですけどと言って、カーリー・キュイに電話すると、キュイは内容を聞いて、わかりました、近いうちにそちらに伺います、と言ってくれた。
数日後。
キュイが、製鉄所に尋ねてきた。しかし、一人ではなかった。五歳くらいの小さな男の子を連れている。その子は、一寸背が低くて、いつも鼻水を垂らしている、まるではなたれ小僧様のような印象がある子だった。キュイの話によると、言葉なんて全く話せないそうだ。五郎さんよりも、もっと、重い障害のある子がいるんだな、と、由紀子もジョチさんも驚いてしまった。
「こんにちは、水穂さん。」
と、キュイは水穂さんの枕元に座る。
「今日は、何を?」
水穂さんは、げっそり痩せて、力のない声で言った。
「いえ、彼がね、バラフォンを練習したいというものですから。一寸、伴奏でもつけてやってくださいませ。」
キュイはにこやかに言った。そして、そのはなたれ小僧様の名前を、板谷君と言って紹介し、どうぞ、バラフォンをたたいてみて、と、指示を出して、マレットを渡した。板谷君と呼ばれた少年は、マレットを受け取って、バラフォンをたたき始める。何の曲なのかわからないけど、見事な即興演奏だ。
「ほら、彼の演奏に伴奏つけてやってくれませんかね。ピアノとバラフォンは、相性が良いと思いますので。」
と、キュイは水穂さんにお願いした。多分、このメロディは、どこか外国のロックバンドが、演奏していたフレーズだと思う。其れを少年は思い出して、バラフォンでたたいているのである。
「わかりました。」
と、水穂さんは、立ち上がろうとしたが、力がなくて、よろよろ布団に倒れこんでしまうのであった。
「ほら、立ってください。大丈夫ですか。」
キュイが支えてやって、水穂さんはやっと立ち上がって、つかみかかるようにピアノにもたれた。心配になった五郎さんが、水穂さんを支えてやって、何とかして椅子に座らせる。その間にも少年は、ロックバンドが演奏していたフレーズを繰り返し繰り返し、バラフォンでたたき続けている。水穂さんが、ピアノをふたを開け、ピアノを弾き始めると、彼は、にこやかに笑って、さらに大音量でバラフォンをたたいた。由紀子は、これが海外の有名なバンドの曲であると、すぐわかったが、しかし一体この少年、なんでそのフレーズばかり繰り返してたたいているのだろうとおもった。
「あの、一体なぜ、この曲ばかりたたいているんでしょうか。」
由紀子はこっそりとキュイに聞いてみる。
「ああ、親御さんが好きな曲で、それで、車の中とかで聞いていたのを思い出してたたいているんでしょう。その代わり彼は、バラフォン以外の楽器には決して触れたながらなかったそうですよ。何をやらせても上達しなかったけど、バラフォンだけは別だと思っていたようです。」
キュイはにこやかに答えた。
「まあ、こんな時代ですからね。どんな楽器でも手に入ってしまうのが、今の時代だし、こうしてピアノなどと一緒に、セッション出来てしまう時代でもありますよね。それは、感謝しています。」
そんなことを話して、キュイは水穂さんのご飯の事をどうやって解決してくれるんだろうかと、由紀子は言いたくなってしまったが、ジョチさんがそれを止めた。僕たちにはできることではない、キュイさんに任せましょう、とジョチさんは言う。
不意に、ピアノの演奏が止まった。水穂さんはせき込んで、椅子から落ちそうになってしまう。五郎さんが急いでそれを止め、口の回りにくっついている赤い液体をふき取った。
「み、ずほ、さん。も、う、ね、ますか?」
と、五郎さんが言うと、水穂さんはもう疲れてしまったと言った。時計を見るが、五分しかたっていない。同時にバラフォンの演奏も止まる。そして、例の少年が、つまらなそうに水穂さんを眺めている。キュイは、仕方ないんですよ、優しいおじさんなんですけど、体力がないんですよね。と説明していた。其れが彼に届いたか届かないかは、別であるが。
五郎さんが急いで水穂さんを布団に寝かせてかけ布団をかけてやると、キュイが、例の少年に聞いた。
「どうですか。優しいおじさんと一緒に、バラフォンを叩けて楽しかった?」
少年は、再びはなたれ小僧様に戻って、でも、がたがたになった前歯をにんまりと見せて、
「うん!」
と一言言った。
「それでは、もう一回やりたいかな?」
キュイがそういう事を言うと、
「うん!」
という少年。多分それしか言葉は出ないのだと思った。其れしか、意思を伝える手段を知らないのかもしれない。でも、その顔に嘘偽りはなさそうだ。本当に楽しかった、またやりたいということを示しているような気がした。
「じゃあ、そうしましょう。また、来週来ますから、今度は、五分だけのセッションではなく、もっと長くやれるように、水穂さんも準備しておいてくださいね。」
キュイは、にこやかに笑って、水穂さんにそういうことを言った。
「水穂さん、そういうわけですから、もうちょっと体力をつけておいてください。其れは、あなたにとって、必要なことなんですから、あなたも使命感を持って、待っていてもらわなければね。」
「すごいわ。キュイさん、見事な手だわ。そういうことをやって、水穂さんにご飯をたべさせようと、持っていけるなんて。」
と、由紀子は、思わずそう言いかけるが、又ジョチさんに種明かしはしてはいけないと言われて、いうことはできなかった。
「あ、りが、とう、ご、ざいま、し、た。本当に、あ、りがとう、ござい、ました。」
五郎さんは、丁寧にお礼を言っているが、由紀子はまだ半信半疑なところも在った。ジョチさんが水穂さんの生きようとする気持ちに賭けるしかないと言っていたけれど、そうするしかないかもしれないと思われた。
水穂さんは、もう疲れてしまったのだろうか。眠ってしまっている。
「きっとね、又私たちが来ると言えば、その気になってくれると思いますよ。食べ物のありがたさを語って聞かせるよりも、こういう風に、自分が必要とされていると思って、結果として食べ物を食べてくれるようになってくれれば、という魂胆で彼を連れてきました。」
と、キュイがやっと種明かししてくれた。
「日本では、食べ物をどうのと言ってもピンとこない人のほうが多いと思うんです。其れよりも、使命感とか、そっちの方を伸ばしてあげれば、なんでも前向きに動いてくれると思うんですね。」
ああなるほど。そういうことか、キュイさんはやっぱり外国人だ。そして、神官の家系に生まれた人でもある。ちゃんと、自分たちがしてほしいことを知っている。
「もし、水穂さんが、又食べ物を拒否することになったら、板谷薫君との約束を忘れていないか、と言い聞かせてください。彼は、あなたと、バラフォンとピアノで合奏することを、楽しみに待っている、というところを、強調させれば、水穂さんは、きっと考え直してくれると思います。」
なるほどなるほど。キュイさんは、ちゃんと目的を果たしてくれた。このはなたれ小僧様が板谷薫君という美しい名前を持ってくれるなんて、ほんとにこの少年の存在がありがたいな、と由紀子は思ってしまった。
「ありがとうございました!」
由紀子は、帰り支度を始めている、キュイと薫君をにこやかに見つめた。と、同時に、こういう魔法をかけてくれることは、日本人では絶対できないだろうなと思った。
そのきになーる。 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます