どこにも行けない

みたか

どこにも行けない

 長い坂をのぼると、そこには海が広がっていた。でこぼこした陸地に縁取られた海面が、きらきらと光を反射している。風が海を渡って、顔を優しく撫でていく。すうっと息を吸うと、豊かな緑の香りに包まれたような気がした。

 初任給が出たら、必ずここに来ると決めていた。わたしが住む町からは、新幹線を使わないと来られない。一人で旅をするのは初めてだった。

 ここは、ようちゃん先輩が生まれた町だ。わたしはこの場所を、一度だけ写真で見せてもらったことがある。スマホの小さい画面に切り取られた海を、ようちゃん先輩はお気に入りの場所だと言った。



 みんながようちゃんと呼ぶのにならって、わたしはようちゃん先輩と呼んでいた。入学してすぐ、サークルの新入生歓迎会で出会った人だ。彼は大学の先輩で、学年は二つ上だったけれど歳は三つ離れていた。

 浜辺のクリーン活動をするというのが、わたしたちのサークルの目的だった。でも活動したのは年に二、三回で、普段は仲間と遊んだり飲んだりしていた。いつも遅刻ばかりしていて、だらけたような姿しか見せなかったようちゃん先輩は、数少ないクリーン活動をするときには真面目だった。

「ようちゃん先輩って、クリーン活動だけは真面目ですよね」

 わたしがそう茶化したとき、ようちゃん先輩はたれ目を緩ませて言った。

「だって俺、海好きだからさ」

 ようちゃん先輩は、心の隙間に入るのが上手かった。人懐っこい笑顔で、わたしたちの中に入ってくる。それが不快ではなく心地いい。誰からも愛されて、何をしても許される。そういう魅力を持った人だった。



 海を眺めながら、一つ一つを思い出していく。ようちゃん先輩のかわいいたれ目。癖毛が嫌だからと短く切っていた、ふわふわの柔らかい黒髪。小柄なわりに厚みのある体。なぞるように描いていくと、自分のすぐそばにようちゃん先輩がいるみたいに感じる。

「ここ、気持ちいいですよね」

 急に近くで声がして、ビクリと肩を揺らしてしまった。咄嗟に振り返ると、一人の女性と目が合った。わたしと同じくらいの歳に見える。

「……そうですね」

 心臓がばくばくと跳ねていて、声の震えを抑えるのに必死だ。そんなわたしに微笑みながら、女性は隣に並んだ。

 肩までのウェーブヘアがよく似合っている。艶のある栗色で、風に合わせて揺れている。綺麗な人だ、と思った。海をまっすぐ見つめる横顔は、強くて迷いがない。

 でも、半袖Tシャツとショートパンツという格好は、今の時期ではまだ肌寒いだろう。

「太陽のお友達ですか?」

「えっ?」

 太陽とは、ようちゃん先輩のことだ。ようちゃん先輩のことを名前で呼ぶ人は、大学にはいない。胸の奥がチクリと痛む。

「私、太陽からときどき話を聞いていたんです。それであなたを見かけて、そうかもと思って」

 いきなりごめんなさい、と柔らかく謝る姿に、心が乱されていく。もしかして、という嫌な予感に溺れそうだ。

「あなた、太陽の妹に少し似てる」

「妹がいたんですか?」

 初耳だった。ようちゃん先輩は、自分のことを話そうとしなかった。家族のことでさえも。たった一度だけ故郷の話をしてくれたとき、ここの写真を見せてくれたのだ。

「うん、三歳離れた妹がいる」

 女性が髪を耳にかけたとき、細い手首に目が行った。あ、と思った瞬間、体が固まった。汗ばんだ手のひらを握り合わせる。

「しばらく会えてなかったみたいだけどね。仲のいい兄妹だった」

 わたしは優しくしてくれたようちゃん先輩を思い出した。ようちゃん先輩はみんなに優しかったけれど、わたしには特別かまってくれた。それはようちゃん先輩に想いを寄せていたわたしにとって、宝物のような時間だった。

 わたしに優しくしてくれたのは、もしかしたら妹と重ねていたのかもしれない。

 そう思ったら、視界が滲んだ。



 わたしは夕日が水面に浸かるまで海を眺めていた。女性はどこかへ行ってしまって、わたしはまた一人になっていた。

 わたしはようちゃん先輩に憧れていて、とても好きだったけれど、彼の気持ちはもう分からない。彼は今、海の底にいる。

 海を見つめたまま、先ほどの女性の顔を思い出そうとした。それなのに、どれだけ記憶をたぐり寄せても、彼女の顔を思い出すことができない。ただ、わたしと同じ場所に、同じ傷痕があったことだけは記憶に残っている。

 ようちゃん先輩が死んでしまったことを、わたしはずっと受け入れられていない。現実が夢みたいに霞んでいって、本当なのか分からなくなる。

 もしかしたらスマホのメッセージに、変なスタンプを送ってくるかもしれない。わたしの部屋の呼び鈴を鳴らして、眠そうな目を擦りながら「おはよう」と言ってくれるかもしれない。いつも時間を潰していたカフェの窓際で、ミルクティーを飲みながらうとうとしているかもしれない。

 ようちゃん先輩の面影を、街中に見ていた。この世にいないという感じがしないのだ。目を瞑れば、人懐っこい笑顔も見ることができる。それなのに、もういないだなんて嘘みたいだった。

 けれど、ようちゃん先輩へのメッセージは既読になることはないし、呼び鈴も鳴らない。苦い飲み物が飲めなかったようちゃん先輩は、もういない。

 不思議だった。街に出れば、たくさんの人が当たり前に日常を過ごしている。わたしはそれが許せなかった。面影ばかり探しているわたしだけが日常に取り残され、時間に置いてけぼりにされているような気持ちだった。

 女性の姿は、もしかしたらわたしが見た幻覚だったのかもしれない。心の端っこで考えていた「もしかして」を、わたしの脳みそが現実そっくりに作り上げてしまったのかもしれない。そう考え始めたら足元がぐらついて、立っているのが精一杯だった。

 何が現実で、何が妄想なのか、分からなくなっていく。

 その中でただ一つ確かなことは、わたしはようちゃん先輩を覚えているということだった。

 できることなら、ようちゃん先輩のことは忘れてしまいたかった。ここで全てにけりを付けて、何もなかったかのように生きたかった。でも、やっぱりそれはできない。

 ようちゃん先輩は、たくさんの人の心の中にいる。家族、友達、全ての人の中に、それぞれの形で存在している。もしわたしが忘れてしまったら、ようちゃん先輩が一人消えてしまうことになる。

 ただの後輩でも、妹でもいい。わたしの勘違いでも良かった。わたしが感じたものは、紛れもない事実なのだから。

 記憶が、わたしを縛りつける。どこにも行けないように、足に鎖を絡められているみたいだ。

 けれど、わたしはずっとこの鎖に縛られていたい。これからどこへ行ったとしても、わたしの心はここにある。

 太陽が沈んで真っ黒になった海は、わたしみたいだった。もしわたしが海だったら、ようちゃん先輩を飲み込んで一つになれたのに。

 たった一つの街灯に照らされながら、わたしは長い坂を下って行った。



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