6:水妖は心構えに慰める
「巻先輩っすか? いや、見てないっすよ?」
プール棟の鍵をかけながら、伊草・水奈が首を傾げて見せた。
天目さんのお手製である「迷彩とおぼしき反応感知器」に従って辿り着いたのが、無人の体育館を抜けた先のプール棟であった。
自主練を終えたエースが、その出入口の戸締りを確かめているところ。中には誰もいないと保証してくれるから、同行者一同困り顔を作る次第。
乾ききっていない髪を疑問に揺らし、
「どうしたんすか? 天目さんまで……なんです、そのおっきい機械。怪しさ全開っすよ」
「天目さんは風体が怪しすぎですもんね……」
「なにおう、希刹め。だったら制服を着たら溶け込めるかの」
「で、虹珠をパパ呼びだろ? 絵面がヤバすぎねぇか?」
鳥肌が天を衝きそうになるんで、本当にやめてほしい。
ともあれ、腹を抱えて笑う伊草へ事情を説明。
「巻先輩が? それこそすれ違いじゃないんすか? 携帯で連絡はしたんです?」
「通話はダメ。メッセージも、既読はつくけど返事はない」
「それは……うーん……一応、中も見てみるっすか。取り残されて溺れたとかなったら大変すっから」
と、心配そうに目を細め、今一度、鍵を開けてもらうことになった。
※
「やっぱり、誰もいませんねえ」
「一応、トイレとシャワー室、器材室も見てくるわ」
「わしも行こう。何か反応があるかもしれん」
明り取りから差す暮れかけた夕空の明かりの下、ぼんやりと波打つプールはやはり無人であった。
それぞれが隠れられそうな場所を探そうと、手分けをすることに。
男子側を一通り確かめた俺がプールサイドに戻ると、伊草が一人、積み重ねられている長椅子をしげしげと見つめていた。
防腐を考えてプラスチックでできているが、とりわけ珍しいものではない。
「どうした、伊草?」
「あ、先輩。巻先輩は……居なかったみたいっすね」
まだ女子側が戻ってきていないが、居たら大騒ぎになるはずだから、まあそういうことだ。
「で、この長椅子がどうしたんだ?」
「いやあ、勝手に動いていることがあるんすよ」
「は? 怪奇現象じゃないか」
「いや、そこまで大げさじゃなくて……こうやって、私が最後にプール出るっすよね? それで次の日に一番乗りすると、向きが変わっていたりするんすよ」
「変わっているって、どれぐらい?」
「うーん、壁がこう、いや、こんな……やっぱりこうか」
伊草が、苦心しながら右手で壁を造り、左手を長椅子に見立てて、
「壁すみにあるっすよね。これが、片側だけぐっと押されたようにずれて、角度で言ったら二十度くらいっすかねぇ」
「それはまた微妙な」
「うん、だから最初は気のせいだと思ってたんすよ。だけど、何回も気のせいが続いたら、まあ間違いないだろうなって」
検証をしたわけでないし、朝は事務員さんが鍵を開けているので、誰かが動かしているのかもしれないと、彼女は結論づけているようで、
「とにかく、ここは人の出入りが多いし」
「こっちは誰もいないわ! そっちはどうだった⁉」
伊草の背後、更衣室から顔を覗かせた真上が、遠吠えのように声を反響させるから、
「ああいう、不法侵入者もあとが絶たないっすからね」
呆れを溶かした細めた目で、声を落として、遠回しな苦情を俺に届ける。
不法に作成した合鍵で忍び込んで溺れた伊草を助けた経緯がある以上、俺らは言い訳も持ち合わせていなくて。
「プレイに使うのは結構っすけど、痕跡はどうにかしてくださいっすよ? 誤魔化すの大変なんすから」
だから、と、顔を近づけ、声を隠して、
「大変だから、見合ったお礼、貰いたいっすよ? 足の裏舐める以外で」
笑うように囁いて、
「なんだあ? お前ら、なに話してんだ?」
「なんでもないっす! 誰もいないなら、今度こそ鍵閉めちゃうっすね?」
言い逃げするように、するりと離れていってしまった。
※
プールの鍵を職員室に返すため、暗く長い廊下を、肩を並べていく。
学外の人間である天目さんがいるため全員での同行とはいかず、彼女と真上と安貞さんは先に昇降口に向かってもらっている。
伊草が自主練を終える時間になったといことは、これ以上は学生が学内をうろうろしていると怪しまれる時間ということ。
栄の捜索も限界であり、
「保健室の先生が言うには、具合悪かったんすよね? きっともう帰っていますって」
「……まあ、そうだな」
後輩の言葉に縋るように、引き上げざるを得なくなった。
ちなみに天目さんの目的である、なんらかの迷彩追跡と未知の金属探索もまた後日に。
生徒が帰りきった校内は、賑やかさの残滓もなく、しんと沈み込んでいる。
続く廊下に、俺と伊草の足音だけが無規則に響いていく。
「先輩」
落ち込むような静寂を、後輩の固い声が割いて、
「巻先輩に、告白するつもりなんすよね?」
放課後の目論見が言い当てられてしまう。思わす足が止まり、
「図星っすね? フラれた、なんて言っていたっすけど、先輩からまだちゃんと伝えてないんすもんね」
四歩ほど先に行った彼女が、落ち切っていない塩素の透けるような香りを振りまいて、くるりと振り返る。
「それで、改めてフラれたらどうするっすか?」
伊草の表情は、遠く職員室明かりが逆光になって伺えない。だけど、声音は固いままなので真剣な問いであるとわかるから、答えを示す必要があるのだと思い、
「俺は、皆にハッピーエンドしてやる、という我儘を押し付けてきただろ?」
「そうっすね。ひどい我儘っすよ」
「だろ? だから」
一つを強く望むのだから、二つを望むことは、
「ハッピーエンドになりたいなんて我儘を言うのは、欲張りだ」
つまり、
「フラれたら、それまでだよ。栄のハッピーエンドを願うだけさ」
これが本心であり、落としどころ。
真上にはハッピーエンドになれ、とか言われはしたが、相手に選んでもらえなければそこが着地点なのだ。
心底から言葉を受け取った伊草は、息を詰めて、それから大きく吐き出し、くるりと身をひるがえして俺の隣にポジションを戻した。
終始、顔はこちらを見たままで、
「じゃあっすよ」
最後にようやく、遠い明かりでほんのり照らされる。
「ダメだったら、私と付き合わないっすか?」
その後輩の幼い顔は、冗談ともつかないお誘いを勧めて、
「こう見えて、人柱は得意なんすよ?」
自嘲のように、だけど満面に笑っていた。
※
「ええっと、だな」
後輩の気持ちは暖かく、けれど失敗を前提に交わしてよい約束とも思えず。
反応に困っていると、
「あれ? 先輩……」
伊草に袖を引かれるまでもなく、気が付いている。
職員室から出てきた、二つの影。
一つは平均の枠内に収まる成人女性のもので、もう一つは平均の枠下になる女学生のもの。
見間違いようもない。
高い方は、白衣を着こんだままの先交屋先生。
もう一つは、なおさら見謝るわけがない。毎日のように顔を合わせ、さらには焦がれているシルエットなのだから。
間違いようもなく、幼馴染、巻・栄のうなだれた姿であった。
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