3:子犬の鼻が濡れる
保健室を後にした俺は、待機していた真上とともに校内を徘徊していた。
真上の鋭い鼻を頼って、栄の臭いを辿っているのだ。
教室棟の逆になる、特別室へ向かう狭い南階段を横に並んで昇っていく。
階段を蹴る音は高く、けれども重い。二人の口数が少なくなっていることも、足音が響く理由だろう。
俺たちが、言葉を減らしているのは明瞭だ。
引っ掻くような微かな疑問と、撫でるようなほんのりとした不快感のせい。
栄とすれ違いになっている状況に、
「鞄はまだあった。学内にはいるはずなんだよな」
「だな。臭いもまだ濃いし、ここを通ったのは間違いないぞ」
「ああ……だけど、なんで特別室に向かっているんだ?」
不可解な彼女の足取りに、ひどく違和感を掻きたててられているのだ。
踊り場を回り、二階の廊下へ。
夕暮れを映す窓の並ぶ寂しく眩しい廊下を、教室の待ち構える暗がりへ足を向ける。
はて、栄はどこに行ったのか。俺との約束も果たさずに、どこをうろうろしているものか。
疑問を反芻するたび、違和感が、引っ掻く痕をほんのり深めてくるが、
「なあ、虹珠」
胸に立ち込めだした黒いもやを、真上の声が救うように掻き割ってきた。
「昼に言った通りな、私はお前に感謝しているんだ」
「うん、聞いたな」
「何もかも嫌いだって投げ捨てて、けれどそれじゃあ最後には破綻するって諭してくれただろ。あれで、おじさんたちとも上手くいったし、親父とお袋とも少しは話ができたんだ」
だから、と歩くこちらの手を取り、
「感謝しているんだよ」
引き留める。
自然、足が止まり、体が慣性から半身で振り返って、
「私をハッピーエンドに引っ張り込んで、なら私も、お前がハッピーエンドに辿り着いて欲しいんだ。傷つくところなんか、見たくないんだ」
睨むような、叫ぶような、必死の鋭い眼差しに撃ちぬかれる。
犬歯を剥き出し、唸るように言葉を迷い、一息を呑んで、
「栄と一緒になって、虹珠。お前は幸せになれるのかよ」
一歩を踏み出して、絞り出すように、問いをこぼしてきた。
※
のめるように前に出て、バランスを崩した真上が、
「……っ!」
咄嗟に両肩を支えた俺を、依然と睨んだまま。
少女の肩は、粗野で力強さを湛える彼女からは意外なほど軽く薄くて、驚いてしまう。
腕の中に飛び込んだ彼女は視線を強め、だけど逃れようと抵抗をするでもなく、掴み抑えられることを是とする。
まるで、触れられる事すら望みのうちとでも言わんばかりに。
「大丈夫か?」
様子のおかしい友人に、慮る言葉をかける。
が、睨む視線が強くなるばかりで、
「もう、いいから、質問に答えろよ」
窓から差す夕日に光るから、瞳が薄く涙を湛えていたことに気が付く。
だから、思い上がりでもなく、確信に近く、
「真上」
彼女にとって、俺はとても近い異性になっていたのだ。
好意を寄せられるのは嬉しいとこであって、けれど、その言葉に真摯を込めなければならなくて、
「何もかも、栄に言葉を伝えてからだ。伝えて、答えを貰って、それでようやくなんだよ」
遅きに失した俺の気持ちであるが、だからこそ決着が欲しい。
偽らざる本心に、
「……じゃあ、栄をとっとと見つけないとな」
それまでの泣きそうな顔を、に、と鋭く笑う顔に変え、妥協案を強引に突き付けてくるのだった。
※
「なあ、真上」
「ん? どうした?」
俺たちは、巻・栄の捜索を続けていたのだけど、
「さっきから、学校の中をぐるぐる歩いていないか?」
もう二週はしている。今は三階の教室棟だ。
さすがに幼馴染もぐるぐるしているわけもないし、おかしいのでは、と指摘をすると、
「変なんだよ」
困り顔で、鼻の頭を掻いてみせた。
彼女にも想定外のようで、
「臭いはあるんだけどな、なんだかふわふわしているんだよ」
「ふわふわ?」
「揺れるというか、消えたり出たりするというか」
不明瞭、ということであろうか。
「ただでさえ栄の臭いが濃いのにふわふわしていて、そのうえで無臭があちこちに広がっていて」
「あんまりフィーリングで喋るなよ。語彙の底が割れるぞ?」
「うるせぇな、文系じゃないんだよ」
しかし、不思議な言い方をする。
「無臭が広がる? 無臭を嗅ぎ取るなんて、透明を見る、みたいなもんで、他の色に負けるだろ? 無臭も、周りの臭いに呑まれやしないか?」
「そうか? そうか……いや、上手く言えないんだけどな」
つまり、初めての経験ということだ。それだと、上手く表現できないのも仕方がないだろう。
「栄が無臭になったのか?」
「あいつの臭いは濃い、って言っているだろ。それこそ、何度も行ったり来たりしたみたいに……うん?」
眉を寄せて腕を組んでいたオオカミが、ふと窓の外に何かを見つけたようで、怪訝に染まる。
視線を追いかければ、
「……うん?」
学外に広がるグラウンド。その真ん中に、革パンツと原色ワイシャツの長身の女性と、学生服を着た発光している女学生の姿が。
革パンツの方が、手に巨大なラッパのようなものを握りしめて振り回し、女学生が何やら熱心に頷いては光量を上げ下げしており、
「何してんだ、あの神様とロボットは」
「あ、ビーム出た」
「おい、こっち見て手を振ってないか?」
俺たちは顔を見合わせ、どうしよう、見なかったことにできないだろうか、なんてひそひそと重大な会議を始めざるをえないことになってしまった。
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