5:あなたと俺の真心を形にしたなら

「その人はつまり、世捨て人、ってやつだろうな」

 ツン、なんて擬音が可愛いと思えるほどに濃い香水の匂いを振りまいて、先交屋先生がこちらへ振り返った。


 保健室に備え付けてあるベッドの、メイキングがひと段落したところだ。

 天目さんのお宅にお邪魔した翌日の放課後、引っかかることがあって、信頼できる大人に相談するべく保健室に参上していた。


 つまり、天目・一が何を意図して山の中に一人で暮らしているものなのか、と。


 窓の外はあいにくの秋雨模様で、湿気がこもる。結果、眼鏡は曇り額に汗が浮かび、どちらも白衣の袖で拭う姿を目撃することになって、

「暑いなら、スーツだけでも脱いだらどうです、先生」

 奇天烈なファッションセンスの是正を、機能面から訴えでる。

 けれども、薄く固い笑みのまま鼻を鳴らし、


「私は学校職員だぞ? つまり公僕の端くれで、社会規範を示さなければならない立場だ。それがだらしない恰好を生徒に見せられるものか」

「いや、普通の教師もスーツの人なんか少数ですよ?」

「まったく……言動がフリーダムだから、価値観の確立は終えていると思っていたが、なんだかんだ、君もまだまだ思春期なんだな」

 流れるように、こちらの人格への攻撃にシフトしてきた。


「いいかい、人は人、自分は自分だ。あの人がこう言ったから、自分がこう思うから、で他者の、とりわけ己の価値観を左右しようなんて、愚かなことだよ。思春期は、特別に他人からどう思われているか、見られているかをひどく気にしてしまうがね、そこを経て自我同一性の確立に至る。つまり、他人と自分の価値観の相違を区別できていない状態は、まあせいぜい高校生程度のメンタルであり」

 つまり、と口端をほんのり和らげ、

「言葉の通り稚拙、ということだ」


 まさに侮蔑であり、事の発端が「俺が思春期」というところでもあって、思わずむっとしてしまう。

 こちらの沈黙に慮ったのか、


「おっと、言葉を選ぶべきだったな。何も、現役の思春期ど真ん中をバカにするつもりはさらさらなかったんだ。特殊な例を除けば、誰しもが体験することだからね」

「いやまあ、誹謗なんかじゃないことは、先生の人となりを知っていますから」

「そうかい、ありがとう。虹珠の大人な部分のおかげで、すれ違いは避けられたね」


 また、そうやってバカにしたような物言いを……なんて眉をしかめて見せて、抗議とした。

 まあ、意に介した様子を微塵も見せないので、ため息をつく。


「じゃあ、どうやったら、その自我同一性の確立ができるんです?」

「それこそ、人に寄りけり千差万別さ。友人との些細なすれ違い、テレビジョンの向こうで輝く著名人と己の比較、言葉足らずな伝言による致命的なミス……とにかく、自分と他者が違うことに『気付く』ことだよ」

「気付く?」

「そう、気付かなきゃならない。どうせわかり合えないんだ、なんて諦めや、いつかわかりあえる、なんて先送りではダメなんだよ」


 なんだか抽象的で、イメージしにくい話だ。

 困惑に腕を組む姿を軽く笑って、


「気付けば、そこがスタートだ。思想思考に上下なんかなくて、だからこそ己を確かにして、他者を疎かになんかしない。諦めも先送りも、スタート地点に立っていないだろ?」

「あぁ確かに」

 おぼろげな影に手を触れたかのような、不確かな感触だ。


 けれど、理解の前進はできたと感じられて、

「で、さっきの世捨て人さんだがね」

 話が、本題に戻ってきた。

「まさしく、その『気付き』を得て、自らの意思と考えでそうしているんだろう」

 だから、と、


「詮索も同情も、失礼にあたる話さ。その人が口にしない限り、どうしたって虹珠自身の尺度で図ることになるんだからね」


 大人らしい事なかれ的な結論を、示されてしまったのだ。


      ※


 満足のいく答えがどんな形をしているのか、俺自身ですら判然としていないモヤモヤとした状況だ。

 だから、先生の答えに不満はあれど言語化ができず、ううむ、と唸ってしまう。


 結局のところ本当に引っ掛かっているのは、ガラスの塊を『親父殿』と呼び、会えるからと言われたままに実践をしてはいるものの一度として成功していない、という支離滅裂な行動に対してである。

 とはいえ事情をそのまま口にすると俺の脳が疑われかねないので、外堀について相談してヒントでも得られないものか、と思った次第なのだが、結局は思春期の相談窓口みたいな応答をされてしまった。


 なので、どうしようかと首を傾げると、

「良い話をしてやろうか」

 先生は笑顔のまま回転椅子に腰を下ろして、長い足を組んで見せた。


「今さっきの、自分と他者は違う、その気付きの話だがね。虹珠は、スサノオノミコトという日本の神様を知っているかい?」

「なんです、急に……ええ、有名ですから。高天原追放されたり、ヤマタノオロチを退治したり、三貴神のうちじゃあ一番に目立つ神様ですよね。まさか、スサノオの思春期とかそういう話ですか?」

 思わず、というように先生は噴き出す。


「それも面白い題材かもだけれど、今回は彼が他者を理解するために、己を理解させるために採った方法についてだ」


      ※


「昔々、なんやかんやあって、アマテラスの元を訪れたスサノオは、素行の悪さから天を奪いに来たと勘違いされてしまい、アマテラスの率いる軍勢に包囲されてしまったんだ」

「初手から雑ですね。なんやかんやって、何があったんです?」


「今回の講義には不要な部分だからね、自分で調べてみると良い。で、勘違いを解こうと、互いの持ち物を交換し」

「交換し、仲直りしたんですか?」


「どちらも噛み砕いて、神様を生み出したんだ。ちなみに、スサノオが噛んだのが玉で、アマテラスの噛み砕いたのは剣だ。で、玉からは五人、剣からは三人生まれて、数が多いから俺の勝ちだ! と勝利宣言を」

「待ってください。あまねく日本人の先祖が、兄弟揃ってそんなエクストリーム競技をしていたとか初耳なんですが。競技内容も決着方法も、正気を疑いますよ?」


「はは、すまんな。少し嘘をついた」

「はあ、安心しましたよ。で、どっから嘘なんです?」

「勝利宣言だな」

「つまり競技自体は間違いないと」

「ああ、記紀に記されている。で、本当は、自分の方が数多く神を生んだから、心にやましいことはない、と宣言したんだ」


「待ってください。実質勝利宣言じゃないですか? 目を逸らしてもダメですよ? ねえ」

 

      ※


 自分の体に流れる血の正気度に深刻な懸念を抱く段に至って、


「今の話で分かる通り、彼は物理的な手段を持って、己の心根を相手に証明して見せたわけだ」

 先生はこちらの困惑など一顧だにせず、講義を進めていく。

 落ち着くにつれ、いまの結論の意味合いが沁み込んできて、はた、と気が付く。


「つまり、他人に己を示すには、なにかしら中継をしなければならない、と?」

「下品だがわかりやすいのは、誠意の金額、というものだろうね」

 たしかに、悪例だが的確だ。


 客観的に観測できる物に置き換えなければ、わかり合うことは神様でもできない、ということ。

 けれど、それはなんだか、

「すごく寂しい話ですね」

 物悲しくなることで、


「そうかい? 人の真心が目に見える、と考えれば、こんなにも賑やかなことはないと思うんだがね」

 ああ、と気が付く。


 この寂しいという思いも、

「虹珠自身の尺度でしかないだろう?」


 だから、指摘された通り、俺はまだまだ思春期の只中を揺蕩っているのだと気が付かされてしまって。

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