第三章:燃える瞳を疑心に揺らすのは

1:虹を見に行こうと君を誘えば

 誰かに伝えなければならない言葉というものを、誰も一度ならず持ち合わせたことがあるはずだ。


 休日に赴く商店街における待ち合わせ場所の確認、おっかない先生が担当する宿題を忘れた言い訳、あなたを好いているという愛の告白。

 そんな、違えられない大切なメッセージは、けれどどれも常に、適切な時節という設定項目が設けられている。好機を逃せば効果は薄まり、意図は変容し、最悪は意味を失い噤まれることになってしまう。


 これは、俺の実体験からくる考え方だ。

 己の恋心を認めず、幼馴染という距離感に甘え、幾度も機を逸し続けてきた経験則。


 だから現状は、罰なのだろう。


 意を決して告白を志すも、相手が交通事故に巻き込まれて伝えることができず。

 奇跡的に即日で目を覚ますも「一緒になると世界が滅ぶから」なんてビーンボールでこっちの意識がもぎ取られ。

 そして、再び意を決し、世界の破滅に立ち向かう覚悟で彼女を放課後に誘い出すも、


「巻先輩、ほんと可愛いっすね! だっこしていいっすか?」

「えへへ、いいよ! 水奈ちゃんは手足長くてカッコいいよね!」

 昇降口で部活休みのカッパ後輩に見つかり、無理矢理に同行されてしまっている。


 伝えるべき時に伝えることのできなかった、大切な言葉。

 それはきっと俺の罪で、だから変なタイミングで変な輩に絡まれているのだろう、と肩を落とす。


 贖いのすべを、神様に嘆き求めながら。


      ※


 放課後になる直前まで降りしきっていた強い雨は、夕空に追われるように跡形もなくなっている。

 強い西日に、空を見れば七色のアーチが見事な弧を描いていた。


 我が母校、牟生東高校が居を構える多田等山は、山とはいうもののその頂上は標高一〇〇メートルほどの控えめな小山だ。

 学校から下校のために降りていく道の反対を進めば、切り開いたニュータウンに辿り着き、さらに下っていけば蔵屋敷が並ぶ旧市街に行き付くことになる。

 その途中で山頂方面に足を向ければ、訪れる人の少ない寂れた多田羅山公園に向かう。


 俺たち三人は、舗装こそされているものの人通りのない、そんな寂しい公園へと登るアスファルトを進んでいた。

 勝手についてきている伊草が、


「ちょっと先輩? 自分らを人気のないとこに連れ込もうとしてないっすか? あそこの公園、木が生い茂っていて薄暗いじゃないっすか。周りは藪だし」

 ニヤニヤ笑いながらこちらの背中をつついてくる。

 お前は呼んでねぇよ、としかめた眉で応えてやると、


「幸ちゃんがね、虹を見に行こうって誘ってくれたんだよ!」

「虹? ああ、展望台あるっすもんね、あそこ。着くまでもってくれるっすかねぇ」

「どうだかなあ。まあけど、かもしれない、ってだけで諦めるのはくだらないだろ」

「はは、確かにっすね。どっちかというと、ポジティブに使いたい言葉っすよ、競技者としては」


 笑い、見上げる。

 木々と染まる葉々の合間にすでにかかる虹は、いまにも消えてしまいそうなほどおぼろげだ。

 まあ、本来、栄を呼び出す口実でしかなかったわけで、虹の有無は是非にあらずなのだけれども、目論見が外れた以上は堪能しておきたいところではある。


 こんな、木から木へ渡る蛇のようなさもしい影ではなく、大空を往く大龍の如く雄大な姿を、だ。


「へぇ! それじゃあ、もう溺れることはなくなったんだね!」

 虹が、ちょうど木の陰に隠れてしまったところで、女子二人が会話を弾ませていることに気が付いた。

 どうやら、先日に伊草を助けた話題のようだ。


「いやあ、その節はお恥ずかしい姿を見せちゃったっす」

「そんなことないよ! 無事でなによりだし、調子が戻ったらハッピーエンドだもんね!」

「今や、至ってこの通り、ピンピンっす! それもこれも」

 入り損ねた二人の会話を傍から聞いていたのだが、水泳部エースが急に、悪戯げな視線をこちらに向けたかと思うと、

「先輩のチューのおかげっすよ!」

「おい。おい」


 罰か? 俺の告白を逸した罪の、これは罰なのか?

 あんまりなペナルティに、再審請求の手続きを模索するほどだった。具体的にはタイムマシンの確保についてである。


      ※


 MMAで例えたなら、ノースサウスポジションからの頭部へのニードロップであったが、


「そうなの? それじゃあもっとチューしておかないと!」

 セコンドがジャンピングニーで、上下諸共にこめかみをぶち抜くという暴挙に出てきた。


 ふと流れた沈黙の後、衝撃に思考の焦点が定まらないままなカッパがこちらに身を寄せ、

「まじすか。まじで言ってるっすか」

 ひそついてくる。

 俺は慣れてきているので、伊草ほどの動転は起こしていないが、それでも目頭は押さえてしまう。


「言ったろ……告白する前に振られたって……」

「いや、なんか……ええ……」

 ヒクな、ヒクな。

「どうしたの、二人とも? 内緒話?」

「あ、いや、ごめんなさいっす」


 当人の目の前で陰口に近いことをしていたためか、後輩は素直に頭をさげる。俺としては、伊草に非はこれっぽちもないと思うけれども、そのあたり少々変わり者とはいえ体育会系なのだろう。

 で、誤魔化すように、


「巻先輩って、先輩が誰かとチューしても大丈夫なんすか?」

 直球を放っていく。

 おいやめろ、その先は闇だぞ、と真顔になるが、


「うーん……私としては、幸ちゃんにいろんな人と仲良くなって欲しいかな、って」

「仲良く?」

「そう。私が幸ちゃんと一緒になったら世界が滅んじゃうの。だから別の、私じゃない誰かと一緒になって欲しいな、って」

「いやあ……」

「あれ? どうしたの? 変なこと言っちゃったかな……?」

 不安げに指と指を合わせて慌てる姿も、もうなんかこう、ねえ、可愛い。

 可愛いけれど、


「いやあ、面白い人だなあ、って思っただけっす。だから、変なところは何もないっすよ」

「そ、そうかな……?」

「うん、大丈夫っす。変って言ったら、虹珠先輩のほうがよっぽどっすから」

「それなら良いけど……だけど、幸ちゃんがうずくまっちゃって……」

「せ、先輩⁉」

 告白前に振られた上に追い打ちまで見事に決まって、膝から崩れ落ちてしまっていた。


 もう、見込みなんかこれっぽっちもなくない?


      ※


「だからね、定期的に岳ちゃんの足の裏舐めてあげているから、キスぐらいじゃ物足りないんじゃないかな」

「……なんすか? 先輩って、思った十倍はレベル高くないっすか?」

「そりゃあ年上だもん! ね、幸ちゃん」

 やめろ。誇らしげに胸を張るな。


「じゃあ、大会のご褒美考え直さないと、っすねぇ」

 後輩がニヤニヤしながら突ついてくるのを無視しながら、俺たちは公園に足を踏み入れた。

 小さな自然公園であり、広々とした敷地にはベンチや何やらかの記念碑、奥に牟生市を一望できる展望台が見える。

 木々がうっそうと茂って、ただでさえ弱い夕暮れの陽が隠れてしまい、いまにも夜が訪れそうな静けさである。


「ほら、まだ虹出てるかな? 見に行こうぜ」

「あ、逃げる気っすか!」

 頭おかしいフェティッシュ談議に付き合ってられるか。


 敷き詰められた砂利を踏み、光の溢れている展望台を目指すと、

「……ないのう。どうしたもんかのう」

 微か、艶の深い声が聞こえた。


 見渡せば、薄明りの染まる公園のなかに一人、下を向いて歩きまわる影を見つける。

 口ぶりから困りごとなのは間違いなく、ハッピーエンドを信奉する自分としては声をかけざるをえない。


「あの、何か手伝いましょうか?」

「うん?」


 声に、今まさにこちらに気が付いた風に、下ばかりを見下ろしていたその人は顔をゆっくりと上げてくれた。

 思わず、俺だけでなく女子二人も息を呑んでしまう。

 薄明りに持ち上げられ露わになるのは、まなこに煌々と火を灯し、反するように眉目は研ぎ澄まされたような鋭さを持ち合わせる、見事な美貌であった。


 ただただ、美しい、とため息が漏れるほどに。

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