8:息継ぎの姿勢
「カッパがどう、ってのはきっかけに過ぎなくて、あいつの精神的な躓きからくる迷いだったんだろうな」
濡れ鼠となった俺と真上は、とりあえず教室の運動着を確保するために、帰り支度を始めた伊草と別れ、夜に隠れる教室へ戻っていた。
校内の大半を覆う闇に対し、心もとない一教室の明りの下、着替える彼女を待っていた。
ちなみに、俺の運動着は昨日の今日なので乾いておらず、家までこの様が決定している。
「じゃあカッパの末裔、ってのはホラ話か、でなくとも伊草の冗談だったのかよ? あぶねぇなぁ、もう少しで私もカミングアウトするところだったぞ?」
「いやあ……どうだろうな。トリップしている様子も普通じゃなかったし、栄がカッパだって言ってるし、たぶん真実なんだろうさ。けど、自覚があるかどうかは別の話だからなあ」
衣擦れの音を隠しでもするように、栄が? と疑問を投げてくる。
「じゃあ、世界の危機だったってわけか?」
「伊草になんかあったら、カッパの軍勢が人類の尻子玉をコンプリートしに攻めあがってくるんだってよ」
「なんだそりゃ」
吹き出しているが、こっちは命がかかっていたわけだからあまり笑えない。
「けど、精神的なもんが原因なら、その不調は自力でどうにかしなきゃなんないだろ?」
「そうなるけど……まあ、最後の顔を見たら大丈夫だと思うぞ」
心が原因なら、心が解決する。
「それに、解消できてないって言うなら……」
「泣いて叫んで許しを乞うても、ハッピーエンドに連れ込んでくれるんすよね、先輩」
暗い廊下から、悪戯気に笑う制服姿の後輩が、突然に姿を現してくる。少々、俺が彼女に与えた言葉のニュアンスを、ぐい、と曲げながら。結果、
「おい、虹珠。お前、言葉選びピンク色じゃねえか?」
「俺じゃない! 俺は引きずり出してやる、って言ったんだよ!」
「……それはそれでフェティッシュに溢れてやしないか?」
けらけらと笑っている。
そんな彼女へ、呆れたように肩を落とすと、
「帰ったんじゃなかったのか」
「なんすか。可愛い後輩を、夜道に一人放り出す気っすか?」
いやお前、毎日自主練してるんじゃなかったのかよ、と反論するために口を開けようとしたところで、
「……なんだ? こっちの口元じっと見て」
まじまじとした視線に気が付く。
いや、と首を傾げて、
「プールで、酸素の口移ししてくれたじゃないっすか」
「はあ⁉ おいバカ! 何してんだ、おい! 人前で、そんな、高難度な……!」
うるせえ、発情駄犬が。
「それからなんか口の中がヒリヒリ、ジンジンして……こう沁みるような押されるような……」
あぁ、と心当たりに行き付く。
カッパの伝承に、唾鉄砲で追い払った、というものがあって、ということは人間の唾液はカッパにとって刺激物になるのかもしれない。
憶測であって、確かな話ではないけど、
「じゃあっすね」
彼女は笑顔のままで一歩近づき、戸惑うこちらを誘うように、塩素の清潔な香りを振りまいてくる。
「確かめていいっすか?」
「おい! なにしてんだ! ああ、くそ! 濡れたブラウスってのはこんなに脱ぎづらいのかよ!」
「……先輩、ほんとに真上先輩と付き合ってないんすか?」
説明するに面倒な関係なのは確かだ。
こっちが言葉に困っている姿に、あはは、と笑って身を離すと、
「冗談っすよ」
だけど、
「自分、次の大会までがんばるんで、その時の御褒美ってことでお願いするっす。それなら自分、きっとちゃんと泳げると思うっすから」
とまあ、ハッピーエンドを信奉する俺ではなんとも断りづらい殺し文句を囁かれ、約束をもぎ取られてしまったのだ。
参った、なんて口にはしてしまう。
けれど、溺れていた彼女の息継ぎになれるのなら、ハッピーエンドには違いないのかな、なんて思わず頬を綻ばせてしまった。
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