7:踏み行く者、踏まれ残る者
「おい! 虹珠! おい!」
暗く閉じた、と思った視界が広がるのは、一瞬だった。
屈折に歪む水の中ではなく、煌々と輝くハロゲンランプの眩しい光の下。覗き込む真上の、怒りに近い眉の立った顔面が迫っていた。
覚醒の反射で手足が跳ねて、だけど右手は重みで動かず。
自然体は右に傾き、
「だ……いじょうぶ……っすか、先輩……」
ぜいぜいと、全身で呼吸を繰り返す伊草が、うつぶせで横たわっていた。
俺の右腕を下敷きにして。
なんだかちょっと柔らかな感触もあるけれど、指摘する余裕も、指摘されたところで応える余力もないようで。
「なにしてんだ、お前は! 私らいなかったら、お前! ミイラ取りがミイラじゃねぇか!」
察するに、あの後、この二人に助け上げられたのだろう。
どうも真上は、俺が助けに入って逆に溺れた、と思っているようであるけども。
※
溺れたということで全身の酸素が足りなくなっているのか、手足に力が入らないままプールサイドに横たわる。
同じく伊草も、限界まで泳ぎ切った後で俺を救出したことで、疲労困憊に突っ伏している。
安否を確かめられた真上だけが、ずぶ濡れではあるものの、腰を下ろす格好に。
誰も無事であったことで、俺たちは安堵の沈黙を迎えていて、
「インターハイが終わってからだったんすよ。調子悪くなったの」
水泳部エースの独白に、声を返さずに聞き入ることになる。
小学校中学校と当然ながら多大な成績を収め続けてきた未来のメダル候補は、だけど高校生活初めての大きな大会で成績を残したあとから違和感を覚え始めたという。
原因は、はっきりとわかっていない。
だけど会場を後にする際、他校の三年生が泣き崩れている現場に遭遇したらしい。その人は決勝で自分の隣レーンを泳いでいた人で、後から聞いたところによると、名門大学への推薦がかかっていたのだとか。
叫ぶように悔いるように恨むように、
「一年なんかに」
と。
かわいそうだ、と思いはしたが、勝ち負けの世界では当たり前のこと。
気にも留めず、日常の練習に戻りはしたが、その時から違和感が始まったという。
泳いでいるとプール底に向かっていく。
頭上からたくさんの視線。
呼吸ができなくて、
「だけどそれが怖くなくて」
押しつぶされた腕に、鼓動と呼吸と震えが伝わってくる。
どうしてそうなったのか、原因はわからない。
だけどきっと、誰かを踏みつけて先頭を走っていることを目の当たりにして、心が躓いてしまったのだ。
だから底の底に沈められていた種としての記録が、踏みつけられた記憶が、揺り起こされてしまったのだろう。
※
「自分、実はカッパなんすよ」
「はあ?」
水かき開いて見せる伊草に、間抜けな声で応えたのは真上だった。
後輩は悪戯気に笑いながら、
「正しくは、カッパの末裔っす。おばあちゃんちの家系図見ると、名前の脇に河童って但し書きあったり、床の間に尻子玉を名乗る玉が飾ってあったり」
冗談めかして、だけど確信を持っている俺はいっさい笑いなんかできない。
人狼であることを隠して生活をしている真上は、突然の言葉にオロオロと俺と彼女を見比べていて、だけど言葉を見つけ出せないでいるから、
「カッパが溺れるとか、笑い話っすよね」
実際に命を落としかけているうえでは単純に笑えない冗談へ、さらに言葉を詰まらせてしまっていた。
反応の薄さに、失敗したかな、なんて舌を出す笑い顔は、だけど影があって、
「笑えない話だぞ、溺れるカッパってのは」
少しばかり怒りを込めて、伊草に施された呪いじみた幻影を解くために、言葉を作っていく。
「人柱の話、だからな」
※
全国各地に、河童伝説は点在している。姿かたち、習性、とにかく多様であり、ひとくくりに『河童』と呼称するには乱暴すぎやしないか、と思うほどだ。
その中に、酷く痛ましい伝説がある。
荒れる海を鎮めるために贄とされた少女が、怨念から水辺の怪異となり人々に害をもたらしたのだという。時の為政者は討伐に武者を遣わすが、怪我を負わすも仕留めきれず、今もなお海原に身を隠しているのだとか。
幽霊や怪談の類であるが、水辺に現れる人型の怪異ということで、河童の類とされる物の怪である。
人狼の鼻で嗅ぎ取った『死の気配』とカッパという前情報から、俺が思い至ったところだ。
もしかして、人柱となった犠牲者の末路、そしてその末裔なのでは、と。
憶測は、水中に沈んでいた伊草の穏やかな表情で確信に成った。
己の犠牲で、水面に平穏が訪れたことを喜ぶ微笑み。
己を踏みつけ進んだ者たちが、健やかに進んでいることを貴ぶ眼差し。
だからきっと、彼女の先祖は、人々を守り、守ることを喜びとしていたのだろうと。
※
「恨みで悪鬼に堕ちる話があれば、徳で神に昇る話もある。伊草のご先祖様は、きっと後者のカッパだったんだろうな」
自嘲めいた後輩を慰めるつもりで語った話であるが、事実として存在する伝承に自分なりの解釈を交えた、今回の一件に対する見解でもある。
「変な慰めかたするっすね、先輩」
「それ聞かされて、どうしろって言うんだよ、虹珠」
だけど、女子二人からは半目の抗議を喰らわされること。
けれど意味はあるのだから、強く、跳ね返すように、
「その立派なご先祖さまの意志を教訓にしなきゃならない、って話だろ」
「ん? ちょっと、よくわかんないっすけど……」
「ご先祖さまは、人柱なんてブチ切れ必至な鬱イベントを経由して、だけど誰も恨まず、皆が健やかに過ごす毎日を見守ったんだろ? だけど、その犠牲をないがしろにするような、例えば治水工事をサボる、なんてことになったら悲しんだんじゃないか?」
「まあなあ。自分の代わりにあげた宝物を粗末にされたら、ブチ切れるよな」
「ああ! わかりやすいっす! 真上先輩、センスあるっすね!」
「ってか、こいつの話がまだるっこしいんだよ」
こいつら……!
「ま、まあ、そうだろ? ってことはだ。今まで一生懸命、それこそ高校生活の全てを注ぎ込んできた三年生の選手生命を、あっさりと踏みつけて乗り越えていったお前が、スランプだなんだでまともに泳げなくなったら、その三年生はどう思う?」
「……おもしろくはないわな」
「そう。恨みなら、なんで自分を踏みつけた後に、だろうし、徳なら預けた宝物が汚された気持ちになるだろうさ」
言葉を締めると、女子二人から沈黙が返って、
「……なんだよ」
「いや……」
「先輩、説教臭いっすね……」
思わず口元を歪めると、だけど、と伊草の明るい声が返って、
「元気出たっす。そうっすよね、勝つならちゃんと勝ち続けないと、っすよ」
硬い、しなやかな筋肉に覆われた細い体が、ごろりと寝返りを打つ。
「勝つに任せてここまできちゃったから、忘れてたっす。水の底じゃあ呼吸ができないっすもんね」
勝つことに溺れ、自分の居場所を見失っていた。
だからちゃんと息継ぎをして前へ進まないと、と笑っている姿は、暗がりを払うような晴れ晴れとした色をしているように思えたんだ。
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