6:水底へ囚われたあなたに光を

 競技用プールの深さは二メートル。


 本来はもっと深い必要があるらしいが、学校に設置するということで安全を考えて、最小限の深度で設計されたのだという。

 とはいえ、足を付けられる人間は限られてくる。人間、腰ほどの水位でも溺れることができることを考えれば、当然として泳げない生徒らからは不評の限りであった。


 そんな深みへ、塩素で清潔を作り上げられている無機質な透明の奥へ、掻き分け、押し込み、前へ。

 高天井から煌々と照らしつける照明は、水中へ入射されるも呑まれることなく、逆に散り広がって昼間の如くだ。頭上の水面が薄い青をしていて空を思わせるから、なおさら。


 だから、沈む水泳部のエースの姿はすぐに見つけることができた。


 水底だ。

 身動きせず仰向けに、ただ水面を、乱反射で歪むあちら側を見つめている。

 四肢に力はなく、揺蕩いに抗う素振りもなく、そこにあるのがごく当たり前であるかのように。

 これではまるで、


 ……諦めた、みたいじゃないか。


 生きることを諦め、水の底にあることを受け入れたかのよう。

 見つめる先はこちらとあちらの境の、その先であるのだが、眼差しは虚ろで、光を吸い込もうと瞳孔が目一杯に広げられている。


 ……だけど、諦めきれない、か。


 真逆のような様子は、だけども矛盾はしない。

 成さなければならないことがあり、だけどもそれを成してしまえば、己の全てが失われるのだろう。

 覚悟を決めて、だけど最後に見える光を一縷として、見つめているのだ。


 だから、伊草の様子に俺は確信する。

 これは紛れもなく、アンハッピー案件であると。


 救い上げるべく手を伸ばし、その力ない手首を掴んだ途端に、


 ……波?


 風景が一変した。


      ※


 濁り、昏い中へ、突然に放り込まれてしまった。


 最初は照明が落ちたのかと焦ったが、塩素で作られた過剰なまでの清流が荒ぶる野趣溢れんばかりな濁流と姿を変えたために、すぐさま状況を察した。


「幻覚か」


 現実ではない。その証に、口からの声がはっきりと聞こえてくる。

 それなら、と腕の中を見れば、


「伊草!」


 脱力のまま、水面を見つめ続ける後輩が、確かにいる。

 きっと、この光景は彼女が溺れるときに感じる、違和感なのだろう。

 少女の虚ろな視線を追いかければ水面であり、


「誰だ……」


 幾つもの人影が、こちらを覗き込んでいる。

 薄暗さと水質の濁りで、はっきり見通すことはできないが。


 その立ち姿はまるで、こちらが浮かび上がることを禁じるようであり、所業の許しを求めるようでもある。

 相反する、だけど矛盾はない。

 成さねばならなく、成さねば全てを失う。不自由な二択を迫られたのだろう。


 やがて人影は消え、奔流は緩やかになり、陽の光が差し込んでくる。


 伊草は、相変わらず俺の腕の中で、移ろう様子を見つめていた。

 水面の向こうには、次第に軽やかな人足が増え、健やかな子供の姿も現れる。

 穏やかな光景に、


「よかった」


 後輩は、間違いなくそう呟いて、微笑んだ。

 現実ではない。幻の中に訪れた平穏に、胸を撫で下ろしているのだ。

 幻覚のせいなのか、彼女の持つ優しさなのか、判然とはしない。

 けれど、微笑みはどこか寂しげであり、

 だけど俺は、


「良いわけあるか! 自分が死んで、周りが良かったからオッケー? そんなアンハッピー案件を許せるものかよ!」


 己を成り立たせる心情において看過などできず、


「いいか! お前が泣いて叫んで許しを乞おうが、絶対にハッピーエンドに引きずり出してやる! にっこり笑ってバッドエンドとか、殲滅対象だ!」


 鼻をつまみ、顎を上げ、気道を確保する。

 間髪入れずに、少女の小さな唇へこちらの口で覆かぶさり、肺の空気を一息に送り込んでやった。


 いま、俺たちが水底にいることを、真っ向から否定したいがために。


      ※


 彼女の瞳に光が戻り、風景が塩素を香らせる。


 驚くアスリートはこちらの力を失った腕から逃れ、戸惑いを見せていた。

 俺は、当然肺がぺしゃんこになっているせいで身動きもままならず、意識の暗がりも広がりつつある。

 沈む体に、だけど無理を効かせて腕を伸ばし、


「……!」

 後輩の、引き締まった腰を押しやる。


 彼女は行くべきだ。

 誰かを踏みつけることに、抵抗を覚えるべきではない。

 カッパであることなんか関係なんかなくて。

 本質はアスリートであるのだから。


 最先端で、省みることなんかせず、ただ前へ進むべき人のはずなのだ。


      ※


 今回の一件。

 カッパが溺れるなんて、まるでことわざのような取っ掛かりがあって、そこに真上が口走った『死の臭い』なんて疑問が、綺麗に引っ掛かった。


 カッパはもともと、水害の警告として存在する面がある。

 水辺は危険で命を落とす可能性がある、という怖れの具体化だ。その存在そのものが死に近しい、と言ってしまえば、理には適っている。


 だけど、そこで自らが命を落としかねない溺れるなんて状況、死を現す存在が死に呑まれるなんて、おかしくはないか。

 加えて、伊草の証言を聞くに、どうやら水の底で誰かに見下ろされていたのだという。


 思い至ったのが『人柱』であった。


 同じ水辺の、死を内包する風習。

 荒れる河川を鎮めるために、掛ける橋を呪いで以て強固にするために。

 誰かの都合で、命を捧げることを強請られた生贄である。


 その記憶を、どういうわけか伊草・水奈は持ち合わせていて、最近になって強く取り込まれてしまうようになった、のではないだろうか。


      ※


 肺から空気を抜ききって、酸欠から手足に力が入らなくて、体は水底に沈んでいく。


 だけど、戸惑う彼女へ目で、

「いけ」

 と力を込めると、意を決したようにアスリートは身を翻す。


 足が水を叩き、腕が掻く。

 ずんずんと離れていく彼女の姿に、苦しい、より、良かった、が強く出る。


 幻覚のなかで伊草に向かって否定をした感情であったが、俺はアスリートじゃないから大丈夫だ。

 だけど、自然に零れた安堵はきっと、誰かのために命を捨てることになった人の、最後の希望なのだろう。

 自分の命が失われるのを、無駄ではないと感じることのできることが。


 だとしたなら。


 生きている人間は、彼女たちの希望を潰さぬよう、幸せに思ってもらえるよう、生きることこそが義務であり。

 だけど、きっとその前向きさは。

 彼女たちにそうあって欲しい、と強要する、生きる側のエゴなのだろう。


 そんなやるせないことを考えながら、肩が柔らかく、プールの底に着地する感触に身を委ねていく。

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