5:その身体に備えるのは

 本気、という言葉の意味を思い知らされて、俺は圧倒されることとなった。


 伊草・水奈の泳ぎ姿は、機能美の溢れる美しい姿であった。

 けれど、素人目にも機能を理解できるところまで落としていたから持ちえた感想なのだと、思い知らされる。

 美しい所作のまま、鋭さを増し、荒々しさを膨らませて進んでいく。


 まるで挑むように、戦うように、水すら削りとらんばかりに。

 水を掻いて、宙を回り、水に差し戻され、また水を掻く。


 おおよそ二周、二〇〇メートルを超えたところで、だけどペースは衰えない。比較対象を持たない素人の観点であるが、常識で考えれば筋肉疲労があるからペースは落ちるものだ。だけど、それがまったく見えない。

 限界域で稼働する筋肉と、エネルギーを用意する心肺、そして早くなるという鉄と見紛う意志によって支えられているスピードなのだ。


「あとで謝らないとな」


 軽率に、カッパだから早いのだろう、インハイ二冠なんだろう、なんて考えていた自分を殴りつけたい。

 生来の有利はあれど、それは頂点を目指すための第一歩でしかない。二歩目、三歩目を、投げず捨てず諦めずに踏み出し続ける、固い決意と意志こそがアスリートの本質なのだ、と知らしめられた。

 息継ぎのたびに水面から覗く、研ぎ澄ました刃物のような単一目標を達するためだけの一心を光らせる真剣な表情に、打つすえられ思い知らされてしまうから。


「なんだあ? 後輩の水着姿に釘付けかよ」


 冗談めかした声をかけられるまで真上が近づいていることに気が付かないほどに、少女の泳ぐ姿と生きる様の濃さに、呑み込まれてしまっていた。


      ※


「全然、プールから出てこないから心配して見に来てやったぞ」

「見に来たって……もう七時だぞ」


 真上は、伊草にかけられた容疑について知らないはずだ。

 栄によるカッパ疑惑が発覚したのは解散後であるし、彼女がデリケートなことを吹聴するとも思えない。

 では、どうして退屈を堪えて、こんな時間まで学校に居るのかと考えるが、答えは出ない。なんなら、友人連中とカラオケに行った栄と同行しているものだと思っていた。


「ずっと待っていたのか?」

「なんだよ、ダメかよ?」

 美しい顔を拗ねたように唇を尖らせれば、まるで子供じみた影を強める。

 特に約束をしたわけでもなかったが、待っていたということは用事でもあったのか。


「こっちに来ればよかったじゃんか」

「いやお前、なんか変なことになってたらイヤじゃんか」

「変なことって、お前」

 呆れ顔で否定しようとしたところで、彼女の用事に、げんなりと思い至る。

「そういや、昨日は結局なにもしないで解散になったもんな」

「なっ! ちげぇよ! そういうんじゃないしさ!」

 顔を赤くして否定するも、まあ拗ねた表情から図星だろう。


「昨日の今日だし心配もするだろ……まあ、するって言うならやぶさかではないつもりで用意はしているけれども……」

 まあ、適度に発情を発散してやらないと世界が滅ぶのだし、俺を頼れとも言った手前、責任は発生しているのも確かだ。


「ここでしとくか? 水場だし」

「はあ⁉ お前、そんな、人前なんて、難度高い、お前、なあ……!」


 さんざ、栄に見られておいて今更、とは思うが、よく考えると真剣なアスリートのすぐ脇で足の裏ぺろぺろとか極刑だよな。少なくとも残りの学生生活は、すれ違う女学生たちが足の裏を隠すようになる、アンタッチャブルマンになるかもしれないけど大抵靴と靴下で隠れているからセーフかな、って。


 そんな判決が脳内裁判で下されるなか、伊草は何度目かのターンを決め、やはりペースは落ちていないのだった。

 

      ※


 しばらく、延々と泳ぎ続ける将来の金メダル候補の姿を見守ることとなった。


 全力稼働のまま、おおよそ十五分が過ぎようとしており、目の当たりした真上も息を飲むほど。

 見惚れ、だけど手持ち無沙汰には変わらないから、目は離さないまま他愛のない会話を交わしていく。

 授業で居眠りをしていた奴の末路だとか、昼ご飯の量が少なかっただとか、キュウリ泥棒を探して園芸部が差叉とスタンガンをぶら下げて校内を徘徊していたとか。


 と、真上が突然に、

「一応な、待っていたのには別の理由もあったんだよ」

「んー、じゃあメインはやっぱり……」

「いや、いいだろ、その話は! 違うくて……まあ、気のせいって言われたらそこまでなんだけどさ」


 話題を切り出すも、歯切れ悪く、困ったような顔をする。

 はて、何をそんなに言い淀むのか、足の裏舐めてくれ、は言葉を濁せどあっさり言ってのけるメンタルをしているのに。

 つまるところ、性に関わる部分より口にしづらく、誰かに聞かれたときの傷も大きいということなのだが、

「あいつ、伊草・水奈な」


 こと、関係性の薄い人間に言ってはいけない言葉であり、

「なんだか、死臭がするんだよ」

 くわえて、ボディフレグランスに関わるとなればなおさらである。


      ※


「こう、言いづらいんだけどな、死体の臭いってわけじゃなくて」


 狼の嗅覚を以て、だけど正体は掴めない。

 鋭敏な鼻で微かであるが不快な危険臭を嗅ぎ取り、だけど判別できないことに、もどかしさがあるようだ。鼻先をこすりながら、首をちいさく傾げて見せてくる。


「気配というか、なんというか……あるだろ? 病院とか、墓所とか、お寺とか。斉場なんかもそうだよな。独特の、失われていき続ける空気というか、死んだ体が収められる場所の雰囲気というか」

 眉を寄せて言葉を探す彼女に、俺は納得を手にする。


 きっと真上は、特徴ある臭いと「死」という性格が紐づけられていて、嗅ぎ取ることで「死」連想してしまう、と言いたいのだ。

 彼女が上げた例は、それぞれが性格を違えど、亡くなった体を保管する一面を持っている。だから、現実的に漂う臭いはそれぞれに違うはずで、病院であれば防腐剤にアルコールだろうか。墓所なら土木の香りに、お寺なら線香と畳か。


 とかく、狼はそんな連想を持っており、似たものを伊草・水奈から漂っている、と言う。

 原因はっきりと言えず言葉に困っているのは、手順が逆なのだろう、と思う。

 ある臭いから死を思い起こしたのではなく。

 死を纏う不明な臭いを、嗅ぎ取ったのだ。


 正体は分からないが、かつてどこかで紐づけた死に近い臭い。

「だから余計に心配だし、気持ち悪くてさ……虹珠?」

 あやふやな主観による証拠にすぎないけれど、気付きが、そこには確かにあった。

「……カッパ、だからか」


 伊草が溺れる理由も。

 体が勝手に沈んでしまう不快な違和感も。

 死の香りを纏うわけも。


 なんて結論へ手を伸ばし、掴みかけたところで、

「虹珠! おい、聞いているか!」

 狼から乱暴に掴みかかられ、

「おかしいぞ! 沈んでいって、上がってこない!」


 見れば、さっきまであれほど波立っていた水面が、しん、とまるで死を迎えたように静まり返っていて、

「ああ、くそ!」


 昨日と違って、暴れている様子はない。

 いやきっと、昨日も溺れた直後はこんなにも静かだったのだろう。

 だから俺は、


「やっぱり『溺れ』たか!」


 上着を脱ぎ捨てながら駆け出し、プールへ飛び込んでいく。

 昨日と、まるで同じように。

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