3:その姿は、息継ぎの最中なのか溺れる只中なのか
夕暮れが、水面にこぼした墨のように、藍に滲んで濃く広がっていく。
「最近、泳ぐのが調子悪いんだってさ」
「そうなの? だけど、それだけで溺れたりするかな?」
下校路が真逆になる真上とは早々に別れ、今は栄と二人きり。
本来なら、目撃者の一人として彼女とも共有しておきたい情報であるが、その暇もなかったために、唯一幼馴染にだけ打ち明けることに。
秋の寒さと、夜空の足の早さがなければ、その辺の自販機前で時間を作ることもできたろうが、こっちはジャージに着替えたとはいえ体温は奪われっぱなし。悪いとは思いつつも、早く家に帰りたいところなのだ。
では、なぜ帰りが日の翳るような時間になってしまったかと言えば、まあほぼプールで溺れていた後輩のせいである。
伊草をプールに送り届けた後、俺も着替えが必要だということで教室に体育着を取りに戻ったのだが、そこを先交屋先生に捕獲されてしまったのだ。保健室を水浸しにした犯人を血眼で捜索していたようで、そのまま真上ともども後片付けに従事させられる事態に。
なんでか、愛しいマイ幼馴染だけは先生からココアを貰ってくつろいでいたが。
で刑務から解放されたところでプールに戻るが誰もおらず、件の後輩が下校したことを確かめたところで、俺たちも解散となり今に至るわけである。
なので知りえるのは、
「その、保健室からプールに行く間に、ちらっと聞いた話しかないんだけどな」
短い時間の、ごく浅いやり取りだけなのだ。
※
「水の中が怖くなったって言っていた。その、怖くてたまらない、なんて感じじゃあなくてさ」
並んで泳ぐ部員を見ると、胸が苦しくなる。
まっすぐに泳いでいるつもりで、だけど体が下へ目指していく。
体から力が奪われるような感覚がある。
潜っていると、頭上から視線を感じる。
「なんて、いろいろと違和感があって、これまでと同じ感覚で潜っていられないんだと」
どれも、競技者にとっては違和感というには大きい気がするし、
「なんだか……ちょっと不気味な話だね……」
パーツを切り取り鑑みれば栄の言う通りで、これで足を掴まれたなんて証言が出たなら季節外れの怪談話じみてくる。
けれどそんな感想は、彼女と言葉を交わさず、又聞きになっているところが大きいと思う。
人の切実な悩みとして実際に直面した俺にしてみれば、不気味さなどは一切に感じられなかった。ただただ、困った、どうしよう、というクリアすべき課題に突き当たったアスリートの爽やかで強靭な悩む姿だけがあったから。
「まあ、その違和感を振り切るために自主練していたらしいんだ」
「えぇ? 鍵をかけてまで?」
「はっきり言わなかったけど、上手くいっていない自分を誰かに見せたくない、ってところだろうなあ」
変なところを部員に見られたくなくて、全体練習の時は全力で泳がないようにしている。
なんて、はにかみ笑う頬に、強い矜持が浮かんでいたのを見逃してはいない。
問題を共有しやすい言わば身内にすら見せたくないものを、間違っても部外者にも知られたくなんかなかったのだ。
だから、固く強い矜持の裏に、翳りが見えることも気が付いてはいた。
まるで川岸に隆々とある巨石を、濁流が襲うかのように。
一度ではびくともしないだろう。二度目もきっと大丈夫だ。だけど、確実に水位は上がり、身を削られ、足元は崩れていく。いずれは呑み込まれ、でなければひっくり返って、水底に囚われてしまうだろう。
それはなんだか、人と死の関係のようだ。
命の危機に直面し続けると、いずれ慣れてくるのだと、そんな話を聞いたことがある。鳶職人の心理を例に出されて、なるほど、と納得したものだ。
慣れると恐怖を忘れられる。まるで水の中で息を止めるかのように、紛らわせることができるのだという。
慣れて慣れて恐れを忘れていく。だけど、つまりは頭の先まで死の中に沈み込んでいるということではないだろか。
そうなったなら、では呼吸をする姿と、溺れ暴れる姿と、区別がつくものなのだろうか。
矜持も命も、上がる水面に投げ置いてしまえば摩耗し沈み、慣れてしまった当人は息をしているのか水を啜っているのかもわからなくなる。
恐ろしいものだ、と漫然と高い星空を眺めていると、
「だから、水奈ちゃんはカッパの末裔なんだよ!」
哲学に耽っていた俺のこめかみを、言葉の形をした暴力が打ち据えてきたのだった。情報量が質量高めで瞬発してきたから、半ば意識を持っていかれそうになりながら。
※
「……なんだって?」
「もう! ちゃんと聞いてなかったの⁉」
どうやら、秋の空に思索を羽ばたかせている間に、なにやらいろいろと情報を開示してくれていたらしい。
まったく耳に届いていなかったが、こっちのアラートに引っ掛かるくらいの危険な単語が出たことで、突然の一撃と相成ったようだ。
「聞こえたんだけどな、ちょっと意味がわからなくて」
「水奈ちゃんはカッパ界の希望の星なんだよ! だから彼女になにかあったら、カッパさんたちが怒り心頭になって、人間に大戦争を仕掛けてきちゃうの! それはもう、タマを取るわ取られるわの大惨事なの! あ、タマって尻子玉のことだよ!」
怪情報が、次弾装填どころか弾幕を張ってきた。
もう混乱の渦に呑まれて、息をしているのか溺れているのかもわからないほどにめまいを覚えていたが、一つだけ理路立った話に行き当たり、
「そういや、プールに行かなきゃ大戦争になる、っていってたな……」
満足げな笑みで頷くから、思わず走った怖気にくしゃみが出て、鼻をすするようにして現実から遠い美しい夜空を見上げやる。
はたから見た今の自分は、はたして息継ぎをしているのか、はたまた溺れて水を飲んでいるのか、どちらに見えるものだろうか、なんてことを思いながら。
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