2:死に臨んだ彼女は笑っていて

 命の危機とは、人間だれしも、確実に一度は目の当たりにするものである。


 幹線道で車が突っ込んでくる直前かもしれないし、病院のベッドで天寿をまっとうする間際かもしれない。


 いずれ、必ず死を迎えるように設計されている俺たちは、ただ一つの宝物を脅かされる時が来る。


 俺はまだ経験が無いから、どれほどの恐怖なものか想像もできない。

 大切な人、巻・栄が事故にあったと聞いた時、心臓が握りしめられでもしたような冷たさを味わいはした。


 じゃあ、直にこの身へ迫ったなら?

 彼女を失われるかもという恐れよりも、大きくなるのだろうか。


 どうにも疑ってしまう。

 栄の死という可能性に晒されたときの、世界が壊れてしまうような喪失感。それより大きく強いだなんて、この体がバラバラになってしまいやしないだろうか。


 いずれ経験のない憶測だ。

 目の前のベッドで横になる少女も、沈む水の中で、体がバラバラになってしまいそうな恐怖に晒されていたのだろうか。


      ※


「いやあ、助かったっす!」


 プールサイドでの応急処置のあと、引き締まった体を抱きかかえ保健室に駆け込み、栄と真上は不在の保険医を探して飛び出していった。

 ずぶ濡れの俺に対する気遣いであろう。

 ありがたいことであるが、救護者がこうして目を覚ましてしまうとちょっと気まずい。

 なんせ水着のままだし、呼吸は確認できたから胸骨圧迫も人工呼吸もしていないけれど、抱き上げるときあちこち触ってしまっていたりして。


 やはりアスリート、なかなか硬かった。

 こちらの、ちょっとばかしジメっとした青春を見咎めたようで、


「先輩? 顔赤くないっすか?」

 乾ききっていないショートカットをさらさら揺らして、前屈みに顔を近づけると、悪戯気に笑ってくる。

 距離感近いな、なんて後ろめたさもあって少し引いてしまうから、

「先輩って、君、一年なのか」

 相手の言葉を取っ掛かりに、話題を変えてしまう。

 こちらの学年は、制服の校章を彩る色から一目瞭然である。相手から見たら自明の理ではある。


 けれども、ちょっと驚いた。

 運動部っていうのは、独特の上下関係が見え隠れしながらあり続けている印象があった。ヒエラルキーでいえば最も下となる一年が、全体指示に従わず勝手に部活機材を使用しているとは、少々信じがたいことである。

「今日は休みなんだろ? 勝手に泳いで怒られないのか?」


 こちらの純粋な疑問に、え、という顔を返して、それから深刻に眉間を刻んで腕を組む。

 筋肉のせいか、まるで彫刻のような均整と美しさがあって、思わず見とれていると、

「あれ? また顔、赤くなってるっすよ」

 慌てて顔に目を戻すと、後輩がまた笑っている。 


「だけど、そっかぁ。ちょっとは有名なつもりでいたんすけど、天狗になってたっすねぇ」

 両の拳で長い鼻をつくり、口が半開きの泣き真似顔で、作った鼻を折る所作を。

 どうも一年ながら有名人のようで、それも自意識からくるものではないようだ。

 ではどこから、と考えれば、きっと行動を年齢によるヒエラルキーに左右されない自信であろう。

 つまるところ、


「一年B組、伊草・水奈いぐさ・みなっす。インターハイで二冠、オリンピック強化選手に選ばれた程度の一般人っす」

 地方の高校程度では追随を許さない、圧倒的な実績に依るのだ。


      ※


 伊草・水奈の名前は、さすがに見聞きしていた。

 登校のたび、道路に面する敷地内に、畳六つ分ほどの巨大な看板をおったてて、インハイ優勝と強化選手選出を大々的に誇示しているのを見ているから。


 運動部の経験が無い俺でも、水泳の競技人口からインハイ優勝はすごい事だと思うし、二冠となればなおさらだ。ちなみに、平泳ぎ二〇〇Mと自由形一〇〇Mで優勝して、他にも三種目に出場、全て入賞だったのだとか。


 学内では知らぬ者はいない、と言いたいところであるが、極端なまでに個人主義を掲げる校風のせいか、興味ある勢と興味ない勢が大きく分かれてしまっている。

 やはり教員と運動部は、教科や種類を問わずに注目しているらしいし、俺みたいな連中は「へぇすごい」くらいの小さな感慨で終わってしまっているようだ。

 実績に対して一般的な反応より乏しいことは、けれど本人はありがたいと笑っていた。


「普通の学校だったら、いくら実績あろうが先輩は絶対っすからね。今日みたいに自主練でプールなんか使わせて貰えないっすよ」

 頭おかしい個人主義にも良いところはあるんだな。


 となれば、ひとまず最初の疑問に戻る。

「だけどな、どうしてその水泳部のエースが溺れていたんだ? ご丁寧に鍵までかけて」

 正直、栄の不穏当発言と真上の素行の悪さがなければ、と想像するに背筋がざわついて仕方がない。

 これも幼馴染の時間遡行によるところだろうか、と変な納得を得たところで、


「……ちょっと寒くないっすか?」

「あ? ああ、まあプールは暖房ついていただろうけど、この季節にずぶ濡れでいたら寒くもなるよな。俺も冷えてきた」

「ですよね」

 と、笑顔で両手をこちらに広げてくる。


 クエスチョンマークを浮かべるだけ浮かべたあほ面で眺めていると、

「こんなとこまで連れ込んだのは先輩っすよ? それとも、プールまで裸足で帰れって言うんすか?」

 なるほど、温かいとこまで戻って、なんなら着替えた後で話をするということか。で、俺に抱いて行けと。


 長い手足をパタパタと振りながらねだっている様子に、ため息をつくと体を寄せるように腕を伸ばし、引き締まった体を懐に収める。

「じゃ部室まで! お礼に、ウチのジャスティンの動画見せてあげるっすから。ポメラニアンなんすけど、メチャクチャ可愛くて! 昨日も、アポカリウスナウしても大丈夫なようにゾンビの肉を食べる練習してたんすよ!」

「ビタ一理解できないってことは、たぶん見たら面白い映像なんだろうなぁ、とは予想できるな」

「そうなんすよ! じゃお願いしまーす!」

「タクシーじゃないんだぞ……ん?」

 伊草の、はしゃぐように廊下を指さす手に思わず目が止まり、


「あ、自分の指、ちょっと短いんすよね。皮が広くて、いわゆる水かきが大きくて。おかげで水泳は得意なんすけど、音楽の授業でハーモニカとか縦笛とか、とにかく指が開かなくて大っ嫌いになっちゃって」

 確かに、第三から第二関節の半分くらいまで皮が広がっている。


 けれど、俺が気付いたのはそちらでなく、痛々しい、

「ああ、この赤くなってるのっすか? いやあ、生まれつき金属アレルギーで、母さんもお祖母ちゃんもだから遺伝らしくくて。どこかに当たっちゃったのかな」

 なるほどな、なんて頷いて、ワイシャツのカフスボタンがプラ製であることを確かめると、あとはベルトのバックルに彼女の肌が触れないように注意して、


「先輩?」

「なんだ? 文句あるならリフトアップでソイヤソイヤしながら、運動部がひしめく体育館を横断しながらプールに連行するぞ」

「なんすか、その脅迫! どうしてそうクリティカルで不快な行動を思いつくっすか!」


 怯えたように、こちらの首へ回す手に力を込めるから、笑い、運びやすくなった後輩を抱き直した。

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