8:僕たちの世界は、不寛容が削られ、妥協が広がってできている

 朝日の下。乾いた風が、色付く木々をそよぎ歌わせる。


 気温が低く風が冷たい今朝は、心なしか列を為す同級たちの声音も低い気がする。

 秋の寂しく、近付く冬を予感させる静かで物悲しい風景の中を、俺たちは日々のために歩んでいく。

 行く先は、山に挑むような威風を纏う我らが学び舎、牟生東高校。

 いままさに野犬騒動の渦中にある舞台であるが、


「幸ちゃん、傷はもう大丈夫なの? 昨日の今日だよ?」

「浅かったからな。固定してくっつくのを待って、一応血液検査の結果が出るまでは狂犬病のワクチン打つらしいけど」

「それは……まあ心配いらないね」


 その原因がおそらく取り除かれたことを知る人間は、ごく僅かである。


      ※


 体育館裏でのあれやこれやを終えたあと、人の里に迷い苦しんだ狼の子が落ち着くまで、そう多くの時間は要らなかった。


 そのころには、思い出したように開いた傷口が痛み始めたので、つきあうと約束したばかりで申し訳なかったが真上は栄に任せて、俺は保健室へ戻ることに。

 待ち構えていた薄ら笑う先交屋先生から「肩から先は不用みたいだなあ」と、勝手に包帯を解いて傷口を開いたことを、ハサミチョキチョキしながら叱責されてしまった。


 応急処置の間も、病院までの車中でも、こちらの行動について特に言及をされなかったのはありがたかった。自身の領分と学生との距離感を誤らないあたりが、少しドライに思う事はあれど付き合いやすい人である。

 一通り治療を終えたあとに送られて帰宅したのが日の暮れた頃。自宅の玄関よりも先に隣家のドアをノックし、栄からあの後の推移を教えてもらうことになった。


 幼馴染の主観では、思った以上に順調だったらしい。

 様子がおかしいことに保護者のおばさんは気が付いていたらしく、けれど思春期特有のものであろうと、踏み込めないでいたのだそうだ。人狼とつながりのある人たちでも、種の特性までは把握できなかったのだろう。

 時間が時間だったのでおじさんはまだ仕事中だったようだけど、やり取りを見る限りは大丈夫、ハッピーエンドだよ、と笑っていた。

 だから、俺も良かった、と胸をなで下ろした。


 問題は実際の犠牲者たちがいることだけれども、正直なところ様子のおかしい相手に言い寄るような輩には良い薬だ、程度に思っている。もし真上が気に病むようならそう言ってやるつもりでいるけれど、まあ、そこまで細い神経はしていまい。

 だからめでたしめでたし、であるけれども。


 ちょっとばかし大き目の問題が残っていて、実際の問題を全て片付いた今、どうしても確かめなければならない事態にある。

 つまりは、未来を見てきたという幼馴染が口走っていた、


「真上・岳を放置すると世界が危ない」

 という警告の意味である。

 

      ※


「幸ちゃん、狼って一回の出産で何匹産まれるか知ってる?」


 こちらの疑問に、返ってきたのは意外な返問であった。

 どうだろうか、と犬の出産のイメージで、


「四から六、くらいか?」

「そう! 岳ちゃんたちも同じらしくて、だけど里の規模から出生数を絞っているんだって」

「言われてみれば、だな。真上自身も里の許容が限界で人間に預けられたって話だしな」

 だけど、それが一体全体『世界が危ない』に繋がるものか、と首を傾げると、


「岳ちゃんを見てたらわかったんだけど、人狼の発情期って人間に寄ってるの」

「人間?」

「そう、人間。他の野生動物と違って、季節時節関係なく、常にいつでも赤ちゃんを作れるんだよ」


 赤ちゃん作れるとか、なんかこう、朝からそんなワードを連打されると、その、困る。

 こちらのほっこり具合には気付いていないようで、


「そうなると、出産可能になった端から、人狼が五人くらい生まれて、その子たちが大きくなったら五人くらいずつ産んで、お母さんもまた五人くらい産んで、さらに……」

「まてまてまて。てことは、なんだ」


 ほっこりしていた脳裏に、怖気が、弾ける電気のように神経を走査していく。

 出生を絞らなければ、絞る必要のない人里に居続ければ、


「爆発的に、人間との混血が進むんじゃないか、それ」


      ※


 静かな断種であり、

「そうなの! 岳ちゃんを助けられなかったら、純粋な人類は絶滅しちゃったんだよ!」

 性欲が偶然にも暴力で発散されていたうちに、俺らが関与したため、世界が救われたのだとか。


 性欲で世界が滅ぶとか、恐ろしい話だ。

 と、目を空に泳がせたところで、さらに恐ろしい事実に行き当たる。


「じゃあさ、俺、あいつに、困ったら縋りつけ、って言ったじゃないか」

「うん、言ったね! カッコ良かったよ! だって」

 嬉しい言葉だが、それよりも怖れが大きくて、

「世界を滅ぼす岳ちゃんのドキドキを、全部受け止めるってことだもんね!」

 ほんと可愛らしい笑顔で何を言いやがるんだ。


 実際問題として、どう受け止めればいいのか困るところで、眉を曇らせると、

「あ、岳ちゃん!」

 幼馴染が、無遠慮に件の少女を見つけ出しては、躊躇なく手招きを始めた。

 俺は、心を据え置きかねていたためにぎょっとし、見れば、鋭利な目元を同じくぎょっとさせている。だから、昨日の俺の発言を意味するところは理解済みのようで、まあ最悪な状況である。

 いやはや、さてはて、とりあえずは普通に接するべきだろう。表情を作り直すと、


「お、おう、おはよう……」


 完全に色々意識して目を逸らしながら近づいてくるから、常態を装う目論見は失敗に終わってしまった。


      ※


「岳ちゃん! おじさんとはお話しできた?」

「え? あぁ、うん、なんとかな……」

 栄相手にも上の空で、お前、ほんとそういうの、こっちも意識しちまうから勘弁してくれよ。


 学生たちの流れに乗り直して、俺たち三人も歩きだす。

 並びは、どうしてか俺を真ん中に、左に栄、右に真上だ。

 人懐っこい栄は、知り合いを見つけては挨拶を繰り返し、どうしても俺と真上が言葉を交わさざるを得ない。

 とはいえ、どんな話題もおかしな方に捻られそうで、慎重に言葉を探していると、


「あの、さ」

 先手を取られた。こちらを見るでもなく、機嫌が悪そうに唇を尖らせて、

「縋りつけ、って言葉。信じたからな?」

 火のついた直球を、眉間に放り込まれてしまった。


 いや、あの、覚悟が、なんて狼狽えていると、そおっと忍ぶように耳元に口を近づけ、

「栄に悪いから、足の裏だけでいいからさ」

 おかしな単語を吐息に乗せてくる。


 え、と一拍を悩むと、

「言ったからな? もう言ったからな?」

 我慢の限界とでもいうように、慌てて体を離していってしまう。


 俺は、ああ、と納得をする。


 彼女は学習を得てしまったのだ。

 発情は、足の裏ぺろぺろで発散できた、と。


 それはそれで問題あると思うけれど、暴力よりもマシだし、なによりガチの奴に発展されても困るところであるから、

「このあたりが、最高のハッピーエンド、ってことになるんだろうなあ」

 高い秋の空に遠い目を投げやって、望みのボーダーラインが下がったことを自覚する。それが大人になる、ということなのだろう。


 不寛容が削られ、許容が広がった。

 その広げられた隙間に入り込むのが、定期的な足の裏ぺろぺろまではハッピーエンド、というどうにもフェティッシュ溢れるヤバい案件ではあるのだけれども。

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