5:窮屈な世界で縮こまる彼女へ、救いの手を伸ばすために欠けるのは
子供の頃なんか世界は思うが儘であって、手足をいくらでも伸ばせるものであった。
だけど、大きくなるにつれて他人の世界と肩肘がぶつかるようになっていって、描き放題であった自分の世界は押し込まれ、隙間を見つけてはどうにか広がり、どんどんと歪に。
主観しかなかった光景が、徐々に客観で塗られ、日を追うごとに色は増やされていく。
最後は、誰もが納得できる色彩へ無慈悲にも塗りつぶされて、はばかりなく皆で並んで見つめることになるだろう。
だから、俺は不寛容であることは、大切なことだと思っている。
油断すれば画一化し塗りつぶそうとしてくる世界の仕組みの眼前に置いて、その人の、譲れない地点であるはずだから。
どれだけの人が、どこまで不寛容を貫けるかはわからない。
年齢も、こだわりの大きさも、大切さもあるだろう。
けど、譲れない時点において、間違いなく大切なことのはずだから。
自分ではない人間とぶつかることが多ければ、それはまだ心の中に大切なものを多く抱えているということにほかならない。
きっと、思春期というのは、その塗りつぶさんと迫る破堤の上で抗う嵐の季節なのだ。
守るものは己の価値観だから、どうしたってたった一人の戦い。
誰も、本当の意味で肩を並べることなどできはしない。
けれども、背を支えることはできやしないだろうか。
力任せに吹き飛ばそうとする常識という嵐に飛ばされぬよう、重しになってやれはしないだろうか。
あの美しい黒髪を揺らす彼女の困りごとを、激情を、どうにか快方に向かわせることはできないものだろうか。
※
こめかみを軽く押し込まれ続けるような、意識の重さに気が付く。
血が足りなくなった時のような、寝不足で迎えた朝のような、どうにも逃げ場のない不快感に、はて、と現状を疑問する。
薄ら開いたまぶたにLEDの弱い光が差し込まれ、体は柔らかなマットの上。鼻には消毒液の鋭い臭いが届いており、己がどこにいるのか不明だ。
確かめるために体を起こそうと手をつけば、
「って!」
肩から二の腕にかけて、鋭い痛みが走った。
眉をしかめ、だけど刺激が、頭にかかっていたもやを一気に振り払ってくれる。
ゴミ集積場で真上に遭遇し、突然倒れたから介抱しようと駆け寄り、手を握られ、
「……犬に襲われた?」
「なんだい、君も同じことを言うのか」
ちょっと、自分自身でも錯乱しているのでは、と思ってしまう記憶を、パーテーションから顔を覗かせた先交屋先生に笑われてしまった。
「虹珠は、どちらかと言うと理性的な神経をしていると思っていたんだけど」
彼女の冷たい笑顔に、ここが保健室であることに、今更に気が付く。
「巻・栄が真上・岳を助けてくれ、なんて血相を変えて飛び込んできてね。だけど向かって見ればその真上は影も形もなくて、君だけが倒れていたんだ」
笑いながら、ベッド脇の丸椅子に腰を下ろすと長い足を組んで、
「ほら、傷を見せてごらん」
こちらの右手を取る。見ればブレザーは脱がされワイシャツ姿なのだが、肩口をキレイに切り裂かれてノースリーブ状態。処置のためにハサミを入れられたのだろう。
で、痛みのある箇所を見れば、包帯で処置されているものの、内側のガーゼを貫通して血が滲んでいて、
「ガーゼを替えよう。包帯を緩めるよ」
圧迫が解かれたと思うと、滲み染みが広がる。
空気に晒された傷口は、腕に沿うような三本の裂傷。けれど想像より小さなもので、自分はずいぶん痛がりなのだな、なんて笑ってしまう。
と、傷口の形に目が留まり、まじまじ見入ってしまう。
俺の視線に気が付いた先生が消毒液を傷口に塗りつけながら、
「引っ掻き傷だね。何かの拍子に、どこか硬くて鋭いものに引っ掛けたんだろう。たまたまだろうが、ここ最近はそういう怪我が多いな。もしかしたなら、本当に野犬に襲われたのかもしれないねえ」
解説と推理を、動転して非現実的な証言を残してしまった男子生徒たちを揶揄しながら、披露してくれた。
己もその中の一人で、だからこそ、引っ掛かりがある。けれど、正体はもやもやとして明瞭とならず、首を傾げると、
「こら、動かない。また血が止まらなくなるぞ」
柔らかく怒られてしまった。
「痕は残るだろうけど、安静にしていればすぐに塞がるさ」
けれど、と笑みのまま不審を浮かべ、
「いずれ、このまま病院送りだ。野犬が本当なら狂犬病の可能性もあるし、そうでなくても保健室でどうにかなるケガでもないからね」
送ってやるから身支度を、と包帯を巻き直してくれる。
ありがたい、と成り行きに身をゆだねていると、
「けれどまあ、そんなわけないから安心しなさい」
「うん? どういう意味です?」
「どういう意味も……君らの証言を聞くに、遭遇したのはそこそこ大きな犬だったみたいじゃないか」
思い起こせば、首回りが一抱えもありそうな大型犬ほどであった。
「そんなサイズの野生生物に襲われて、こんな傷で済むはずがないだろうに。チワワでさえ咬合力は100キロほどあるんだぞ。虹珠、握力はいくつだい」
言外にチワワ以下と言われた気がしたが、抗議は置いておく。
今の先生の指摘はひどく的を射ているもので、
「そうか、傷の大きさだ」
俺の盲を、意図はせずとも開くものだった。
「虹珠? おい」
呼びかけも耳に入るが応える余裕もなく、ベッドから降りると上履きを探す手間も惜しんで駆け出す。
「おい! どこへ行くんだ! 安静にしてないと……!」
「すいません! 病院には行くんで、ちょっと見逃してください!」
「おい、待ちなさい!」
思い至れば、確かめなければならない。
ただ一人で破堤に立ち尽くし立ち向かうあの子が呟いた、救いを求める言葉の、本当の在り処についてを。
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