2:流離う野犬と踊る風聞

 子供の頃から、ハッピーエンドが好きだった。


 努力を重ねて諦めず、長い長い道のりの果てに大団円となるお話が好きで、この世にある全ての物語はハッピーエンドであればいいのに、なんて身勝手かつ乱暴に、頭ハッピーなユートピアを夢見ていたこともあった。


 十歳の夏休みだったろうか。栄の家で読んだ少女漫画が主役の自己犠牲で幕を閉じるという許しがたいビターエンドに遭遇し、大激怒の挙句、主役が蘇ってあらゆる問題を解決する続編を描き上げて編集部に送りつけたりするくらいには、頭があったまった子供だった。


 今は、少しだけ許容が大きくなっている。

 大人になるというのは、己の不寛容を少しずつ広げることだと思う。許せるものを増やしていくということだ。


 創作のアンハッピーは許せるようになった。価値観は人それぞれであるし、それを否定してしまうほど、傲慢でもないから。

 高校二年になった俺が許容できないことは、目の前の結末だけ。

 創作は許す。だけど、現実もアンハッピーで構わないなんて理屈などない。


 幸せであるべきだし、幸せになるべく足掻くべきだし、それなら幸せを目指すべきなのだから。

 付き合いのある面々には変わっている、なんて言われるけれど、人が本来持ち合わせる幸求性が強く出ているだけだ。


 大人になった時に、どれほどの不寛容が削り落とされるか分かったものでないが、今現在の俺はこの価値観で毎日を生きている。

 だから、野犬騒動をいかなハッピーエンドへ辿り着くものか、興味を惹かれているのだ。


      ※


 野犬騒動は、思っていた以上に学内に広まっている事件であった。

 つまり目撃例が多数あるということだ。


 校舎裏のゴミ集積所や、そこから繋がる体育館裏、グラウンド脇の運動部部室棟近くなんかは、もう目の前が深い藪になっていて、山奥に繋がっている。まあ、野犬野良犬が飛び出してきても不思議ではない。

 だけど話は飛躍して、学校屋上や化学実験室、非常階段の踊り場など、校舎内でも相次いでいるのだ。


 そもそも、現代日本では野犬は相当数駆除されており、なかなかお目に掛かれるものではない。それが、事もあろうか学内を我が物顔で徘徊しているとのこと。

 それだけでなく、目撃例のほぼ全てが「襲い掛かられた」証言とセットなのだ。


 一笑に付すような話だけど、実際に出血を伴う負傷で保健室の世話になっている男子生徒の数が増えているので、全てがでたらめでも無さそう。

 鼻息を荒くして早口で解説してくれた事情通の友人、折口君の談であったが、俺としては、


「信じられるわけがないだろう」

 と、鼻で笑うしかなかった。


 これまでド田舎で育って、学校は山の中。こんな環境で、タヌキやイタチは見たことあっても、野犬なんかに遭遇したことなどない。

 それが突然に現れ、警戒心もなく校舎内に入り込み、次々に人を襲う?


 野生動物が人間を襲うのには、理由があり、パターンがある。

 一つは、生活圏に干渉したため。

 二つは、食料を求めて。

 三つは、偶発的接近遭遇によって。

 今回はどれも、当てはまらない。


 迷い込んだ校舎内を縄張りと認識はしないだろう。

 襲われた人間が体の一部を喰われるなんてことになったら、病院どころかマスコミ沙汰だ。

 偶然に人へ襲い掛かったのなら、パニックを起こしているはずで、誰にも見つからない、などという芸当は不可能。


 よって、俺は一連の騒ぎを『都市伝説的な誇張されたデマ』もしくは『損得勘定の発生する意図ある情報煽動』のどちらかであると結論付ける。

 すると折口君が怯えた顔で、


「だったらゴミ捨て頼むよ! 僕は怖くていけない!」

 なんて言い出した。

 つまり、野犬騒動は後者『損得勘定の発生する意図ある情報煽動』で確定したのだった。


 許しがたいアンハッピー案件である。

 だもんだから。何かあったらあの野郎、犬の餌にしてやる、と決意が固く結ばれるのであった。


      ※


 我が牟生東高校のゴミ集積場は、教室棟から体育館へ向かい、その山側にある。

 二階からせり出した格技場を兼ねた小体育館の下になっており、学内のどこからも死角になっている、広々とした空間の一角だ。


 広義的には体育館裏にあたり、雨も凌げるため、人目を忍ぶ活動が多々行われている。

 ちょっと拳で語り合うタイプの人々や、ハッピーエンドを目指す男女にとって最適なステージなのだ。


 とはいえ、毎日がエキサイトイベントに炎上しているわけではない。


 燃えるゴミと缶類のゴミ袋を、ひーこらと抱いた俺がそこに辿り着くと、静まり返った冷たい秋の風がそよぐばかり。

 目の前の藪が葉をこすり合わせる囁きに、遠くから聞こえる運動部たちの歓声。

 騒がしい学校の雑多なあれこれが呑み込まれ、まるで、


「異世界だな」

 なんて洩らしてしまう。


 心地良くはあるが、腕にかかる重さが現実に引き戻してくるから、仕事を追わらせてしまおうと、金網で形成された集積場の入り口を開く。

 独特の、鼻を刺すすえた臭いが漂う。


 青春を謳歌する学生たちの日々の残滓だ、なんて言えば聞こえは良いが、コンビニ弁当やら呑みかけのペットボトルやらで、まあ不快感のほうが強いに決まっている。

 悪臭に眉をしかめながら、手元のゴミ袋を投げ入れる。当然、ゴミ種によって投擲先をふりわけながら。


「よし」

 と、入り口を閉じて手を打ち合わせて叩きほろう。

 些細だが一仕事終えた満足感に口元を綻ばせていると、


「虹珠?」

 横手。体育館の出入り口は逆側、つまり体育館裏の側から名前を呼ばれた。

 おや、と向き直れば、

「真上? 何してるんだ?」


 幼馴染の友人、真上・岳が驚いたような困ったような顔で、腕を組んでいた。

 おそらく体育館の裏から来たのだろうが、つまりなにかしらのエキサイティングイベントを催していたのだろうが、

「なんだよ。また、サッカー部辺りの陽キャに粉かけられてたのか?」

 冗談めかして肩をすくめて見せると、


「……見てたのか?」

 意外にも、強い詰問が返ってきた。


 元々、美しいながら鋭い眼差しが、さらに鋭利に引き絞られていく。

 思わずたじろいで、


「いや、あー、今ゴミ捨てに来たばかりだけど……なんの話だ?」

「見て、無いんだな?」

「お前がそこから出てきたところもな。声を掛けられて初めて気づいたんだ」

 迫る圧の強さに不可解を覚えながらも、正直に告げれば、


「わかった」

 納得したようで、鼻頭のしわを解いて警戒にいからせていた肩を下げる。

 緊張をほぐすとこちらに近づいてきて、すれ違い、行き過ごうとするため、思わず呼び止めようと、


「待てよ。何かあった……」

 したところで、鼻孔にぬるりと忍び込んだ臭いに動きを止めてしまう。


 塩みのある、生臭さ。


 集積場の濃く漂う臭いに隠れてしまって正体は判然としないが、不穏を感じ取れる、非日常のそれ。

 混乱するこちらの様子に、友人の友人という義理もあってか一旦足を止めて不思議顔をつくる真上だったが、


「行ってもいいか?」

 許諾申請に、咄嗟に言葉をつくれず、首だけで肯定を示すしかない。


 俺は一人残される。

 判然としない、疑問と怖れに、だけど答えを見つけられず。


      ※


 翌日、登校すると、学内はある話題で持ちきりとなっていた。

 昨日の放課後に、体育館裏で男子バスケ部の生徒が倒れているのが発見され、痛々しい傷を作られていたのだとか。


 誰もが、また野犬が出たのだと口々に噂をするなか、俺は一つ己の疑問の解に確信を持つことになった。

 ゴミ集積場で、真上・岳とすれ違った時に嗅ぎ取った生臭さの正体。


 あれは紛れもなく、血の臭いだったのだ、と。

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