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「レンちゃん、あの信号過ぎたら車線変更だよ」
「う、うん。分かってるよ、いちいち言わなくてもさ」
【プン!】〈次の交差点を右折してください〉
「レンちゃん、どうしたの? 早く右車線に入ってよ」
「ちょっとムリそうだから次でいいよね」
「何言ってのよ、全然余裕じゃない」
「でも強引に割り込んで事故ったら大変じゃん」
「事故ったらって最終的にベイサイドでお食事設定なんでしょ。だったら
そんなの気にすることないじゃない」
「まぁ、確かにそうなんだけどね、ははっ! 次の交差点で右折するよ」
【プン!】〈ルートを外れています〉
「も~ 何やってんのよ。もしかしてレンちゃんってペーパードライバー?」
「えっ……」
「やっぱりね。どうりでさっきから変だと思ったんだ」
「そんなに変?」
「とぉ―っても変よ。レンちゃんの姿勢がノートパソコンみたいなんだもん」
「そりゃ、誰だって緊張でこんな姿勢になるよ。しかも生まれて初めて本物の
ハンドル握ってるんだからさ」
「えっ、生まれて初めてって、まさかレンちゃん免許持ってないの?」
「そのまさかですけど何か?」
「どうして先に言わないのよ! あ―っ、もう私後ろ見るから指示に従って!」
僕はナオミの的確な指示でなんとか設定ルートに戻る事に成功したがその後
歩道と並行する左車線を直進、そして先に見える交差点を少し過ぎたあたりで
状況は一変した。
〈カシャ!〉
「あれ、今なんか音しなかった?」
「うん、したけどそれがどうかしたの?」
「何の音だろ?」
「空き缶じゃない。アルミが潰れるような音だったもん」
「ホントにアルミ缶なのかな?」
「多分そうじゃない」
「多分っていい加減なこと言うなよな」と僕は口を尖らせ不機嫌そうに横目で
ナオミを睨み付けた。
「ちょっと~ 何怒ってるのよ。レンちゃんが聞くから答えただけじゃない」
「ごめん、何を踏んずけたのか確証がないと不安でさ」と僕は動揺を隠し
切れずつい本音を漏らしてしまった。
「レンちゃん、次の信号左折して。私が自転車や歩行者を巻き込まないよう
内側確認してあげるから」とナオミは前方を指差した。
「えっ、次左折ってどこ行くの? またルート外れちゃうよ」
「確認したいんでょ、レンちゃんが踏んじゃった未確認物をさ」とナオミは
僕の太ももに手の平をそっとあてがい微笑んだ。
「いいの?」
「いいわよ。レンちゃん、今なら大丈夫、ゆっくりハンドル切って」とナオミ
は窓を少し開け覗き込むように指示してくれた。
僕たちはまるで逆四角形を描くように各コーナーを慎重に回りきり、問題の
車線手前の側道に車を停めるとそのまま小走りで歩道へと向かった。
「確かこの辺りだったような」
「そうね、このドラッグストア近くで音したもんね」とナオミはしゃがみ込み
車道表面を見渡した。
「あえて道路上にあるゴミまで描写しなかったけど間接的に発生することも
あるんだね」と僕もナオミ同様腰を下ろした。
「音がする物…… 音がする物…… あっ! レンちゃん、アレじゃない。
ほら、あの白線手前のペシャンコになったジュースの缶。きっとそうよ」と
ナオミは声のトーンを上げ指差した。
「確かに可能性アリだね」
「じゃ~ 車に戻りましょ。早くしないと違反キップ切られるわよ」と焦る
ナオミに対し僕は即座に腰を上げることが出来なかった。
「どうしたの?」
「でもまだあの缶だと決まったわけじゃ……、音も聞いてないし」と若干俯き
気味の僕にナオミはゆっくりと近づきしゃがみ込むと寄り添うような姿勢で
呟いた。
「音がするまでいっしょに待ちましょ!」
「なんかごめんね」
「いいわよ。モヤモヤした気分じゃ先に進めないもんね」
「うん。人身事故を起こしたんじゃないかとか最悪な事態想像しちゃってさ。
とにかく頭から離れないんだ。そんなのあり得ないと分かっていてもね」
「うん、一種の精神疾患なんだからしょうがないよ」
「そうだよね。ふぅ~ なんだか少し気が楽になったよ」と僕は息を一つ吐き
再び車道に目を向けた。
「それにしても今のところ誰も踏まないね」
「ホント、あと数センチってところなのに」「こんな面倒くさい思いするって
事はやっぱり今回シナリオ無視したのがマズかったのかな?」
「いや、そうとも言えないわよ」
「どうして? だってしっかりとシナリオが効いてたらこんな思いしなくて
済んだんじゃないの?」
「例えば演劇の舞台を想像してみてよ。当然台本があるわけで物語はそれに
沿って進行はするけど中には緊張でセリフが飛んじゃったり体調不良で思う
ような演技が出来ないって事あるでしょ。それと同じで今回のようにレンちゃん
の病気が運転という過度なストレスで突如として悪化する事もあると思うのよ」
「なるほどね。でもキッチリしたシナリオがあれば少しは回避出来る確率が
上がるような気がするんだけど」
「そうね~ まっ、実際本番にならないと分かんないけど多少はね」
「やっぱそうだよね」と僕が頭を抱えたその瞬間、聞き覚えのある金属音が!
〈カシャ!〉
「あっ!」
「レンちゃん、やっぱり音の原因はあの缶よ! 私、今この目で確認したから
絶対間違いないわ」
「ホント、あの音とそっくりだったね。もう少し見てていい?」
「うん、いいわよ。自分の目で確認したいんでしょ」
「なんか、ごめんね」
〈カシャ!〉〈カシャ!〉
「見た?」
「うん、見た! 見た! しかも連続で」
「じゃ~ レンちゃん、最後いっしょに道路を確認しましょ! まず右見て~
次は左見て~ もう一度右見て~ 特に変わった様子ナシ! 事故もナシ!
さっ、ドライブデート続けましょ!」と僕はまるで小学校で交通安全講習を
受ける子が優しい婦警さんに連れられるように現場を後にした。
その後も病状は一向に回復せず、些細な音に怯え幾度となく繰り返す
確認作業に疲れ果てた僕はドライブを中断し背もたれに全体重を預けた。
助手席でくつろぐナオミは変わらずこんな僕に寄り添い、常に優しさ溢れる
言葉を掛けてくれている。
もしナオミがいなければ恐らく本日3回目の確認作業辺りで精神が崩壊し、
ほぼ確実にパニック状態に陥っていただろう。
それはシーンの未完結を意味し、この状況から抜け出せなくなる事態も十分
考えられたが今回は彼女のおかげでなんとか最悪のケースは回避できそうだ。
「レンちゃん、潮風の香りがするね」
「うん。海が近いってことはなんとか無事に終われそうだよ」
「良かったね。今回のシーンはホテルからベイサイドに着く手前までだもんね」
「やっとこの苦しみから解放されるのか~」
僕は両腕を伸ばし再度助手席に目を向けると安堵の表情を浮かべたナオミが
一瞬にして霧状化するとそのまま消えてなくなってしまった。
彼女に対し「ありがとう」も言えず心残りながらも僕は背もたれを倒し静かに
目を閉じた。
その後僕は予定どうり現実世界に戻りはしたが不相応で贅沢な体験やシナリオ
を完全無視した怠慢さがもたらした代償は思いのほか大きいものだった。
「鍵を閉めたかな?」など誰にでも一度は経験のある不安を重症化させて
しまった僕の日常は一変し、まさに出口の見えない苦悩の日々を送る事となる。
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