第3話 カップにコーヒーを注いで

 「冗談だよな?」

 ほんの気まぐれな一言だと信じたかった。

「いいえ、本当ですよ。」

 しかしその願いははかなく崩れ去る。いやいや待ってくれ。状況が整理できない。目の前の彼女が?さっきも説明したことだが彼女は一年生だ。つまり、たった2ヶ月程度で学年を超えるほどの噂になっているということになるが、どう考えても早すぎる。それに……


「じゃあ、君が鈴愛さんが不登校になった元凶とでも言うのか?」

 話が長くなることを予期して本を元あった位置に差し込んでから尋ねる。

「それには少し誤解がありますが……いまここで話しても理解が難しいと思います。放課後になったら案内したい場所があるので来てもらえませんか。そこに行けば全部説明がつきますから。」

 少し誤解、その言葉が耳に引っかかる。目の前にいるのがいくら小柄な女子生徒だとはいえ、誰とつながっているかわからない。もしも後ろに凶悪な人物がいたとしたら俺程度の力ではどうすることもできない。

 安易に正体をさらけ出そうとする清々しさが、かえって恐ろしさをかもし出していた。



「案内したいって何処どこにだ?」

下車げしゃしてからちゃんと案内するので、そこまでの行き方はメールで送ります。その方が納得してもらえると思いますから。」

「ちょっとっ!」

 一方的に話を押し付ける彼女に不満を言おうとすると、予令よれいのチャイムの音が邪魔をする。貸出カウンターに置かれた置き時計の針が昼休みの終わりを告げていた。

「ではまた放課後に。」

 入り口で丁寧な会釈をする彼女は返事をしない俺を置いて消えるように、スタスタとその場を立ち去っていった。


 あの生徒は先輩相手だと言うのにとても流暢に話していた。それだけのコミュニケーション能力があるなら依頼を受けると言ってもさほど不自然さはない。一応彼女の言うことに従ってみるとするか。一刻と過ぎる秒針の音を聞いて我に返ると、俺は足早あしばやに図書室を出ていった。


 



 急いで教室まで走ったが時間はとっくに過ぎている。勢いよくドアを開けると、

「それでは教科書の、」

 と先生が言いかけたところで、入ってきた俺に気づいて驚いた顔をした。

「翔哉さん。もう授業は始まっていますよ。」

 時計を指差しながら話す。時間には一分一秒の遅刻もしない先生なので、その言葉には圧がある。

「すいません、お腹痛くてトイレ行ってました。」

 走ることに夢中で言い訳なんて考えてもいなかったので、とっさにでた言葉を口にする。

「そうですか。では席について教科書を開いてください。」

 とくに怒られることもなく通された。周りを見るとやはり3つの空席がある。素行の悪い生徒らがいつもどおりサボってくれているおかげと言うと聞こえは悪いが、彼らに比べれば些細なものだと先生は考えたのだろう。生徒の視界の邪魔にならないように腰を中腰にしながら席に向かうと、コンコンとチョークを叩く音が耳に入る。そのテンポに足を速く動かした。




「翔哉、どこに行ってたんだい?」

 席につくと結城が訪ねた。その表情はすっかりいつもの表情に戻っていてひとまず安心する。

「さっき先生の前で言っただろ?」

「あんな嘘、誰にも通じないよ。本当は何していたんだ?」

 口をへの字に曲げた。結城が深堀ふかぼりするなんて珍しい気がする。もしかしたら図書室に向かう途中に見られていたのかもしれない。しかし自分の立っていた位置は入り口の扉からそう離れていないから、中に入ってくる生徒がいれば足音でわかる。だから彼は俺が図書室で話した内容については何も知らないだろう。

 そのため依頼屋との話を抜いて説明した。



 

 結城は満足したのかそうかとだけ言って再び黒板の方に目を向けノートを取りかかる。単なる好奇心か?遅刻なんて普段しないから気になったのだろうということで、一旦結論付けた。

 彼の視線につられて黒板を見るとすでに練習問題が出されている。周りを見渡すと生徒らは熱心に問題を解き進めているところであった。悠長ゆうちょうに結城の顔を伺っている場合ではない。しかしいくら見ても何が書いてあるかわからない。なんだあの曲線のグラフは?しかもそれを式に表すなんて無理だろ。


 このあと授業に遅刻したという理由で俺が当てられたというのは言うまでも無い。みんなの前で先生に解法を説明されながら計算するという醜態しゅうたいさらすはめになった。




 そんなこんなで一日もあっという間に過ぎ、放課後になると俺は電車に揺られていた。ネクタイを緩め、ふかふかの背もたれにどっしりと腰を下ろして数十分、すでにいつも降りる駅から随分ずいぶんと離れたところにいる俺は、携帯とにらめっこしながら頭をなやませている。

 本当にこのまま下りなくて大丈夫なのだろうか?周りには生徒らしき人は誰一人いないため、しばらくの間、そんな不安に駆られ続けていた。


 しかし今更下りたところで金の無駄遣いにしかならない。ならいっそのこと騙される覚悟でいたほうが気が楽だろう。

 外でも眺めて気をまぎらわさせようと窓ガラスに視線を向ける。すると花壇には梅雨に濡れたあじさいの花が多種多様に彩られていた。そういえば今日は夜にまた降り始めるんだったか、朝妹に傘を持っていくように言われた覚えが……ってあれ?


 慌てて身の回りを見渡す。かばんよし、弁当箱よし、傘なし。さて、どうしようか。この様子ではいつ雨がまた降りだしてもおかしくない。下りた近くのコンビニで買うにも財布が心もとない。最悪雨が降ったらずぶ濡れ覚悟で帰るしか無いかと半ば諦めているところに、一本の黒い傘が目に入る。


「お探しの傘はこちらですか?」

 手渡すように傘の持ち手の下の方を握っているのは、図書館であった例の彼女であった。首を横に傾けて口角を上げ、にっこりと笑顔を見せる。その傘には握る部分に青色のテープが巻かれている。

「あぁ俺のだ。ありがとう。」

 俺は傘があったことと、行き先が間違っていなかったことに安堵しながら礼を言う。

「どうして俺が傘を忘れたのに気がついたんだ?」

 傘は学年ごとに置くスペースが設けられている。学年の違う彼女にはわからないのではないだろうか。

「先輩が下足箱から出ていくところを偶然見かけたので。」

 なるほどそういうことか。朝から空模様が悪かったし、傘を持っていくのを忘れる生徒はいないだろう。だから傘を持っていない俺を不思議に思って持ってきてくれたのか。それなら運が良かった。素直に感謝をした。



「だがもうちょっと早く声をかけてくれ。こんなところまで来たことが無いから不安だったんだぞ。」

 笑い混じりに茶化すと「あはは。それはごめんなさい、あまり人目につきたくなかったので。」彼女はケロッと口元を緩ませて謝る。これが本当の彼女の顔なのだろう。年相応に笑みを浮かべている彼女のほうがずっといいと思う。赤色の髪留めも笑った表情にぴったりであった。


「それで、結局何処に向かっているんだ?」

「まぁまぁ、着いてからのお楽しみですよ。」

 もうそろそろ教えてくれても良い頃だろうと思ったのだが、彼女はなかなか答えようとはしない。本当に着くまで教えてくれなさそうだからそれ以上質問するのはやめにした。あと数分の辛抱か。

 下車予定の駅の名前が聞こえたので立ち上がり、それからはゆっくりと揺られることにした。




 改札口かいさつぐちを抜けた先に広がっていたのは風情ふぜいある町並みであった。ビルやデパートのような大きな建物はそこには無く、駅の近くだと言うのにたくさんの住宅が並んでいる。

 人里ひとざと離れた、は言いすぎかもしれないが、自分には実感のない土地である。そわそわとしながら辺りを見渡した。

「翔哉さん。ついてきてください。」

 彼女はすでに近くの横断歩道の前に立っている。多少の不安は残るものの、信号が点滅し始めたので、急いで彼女に付いて行くことにした。



 心地よい空気に満たされているものの、体力のなさから息が上がる。そんな姿に彼女はしばし、ため息をつきながらも歩いていくこと15分。それは公園の近くの大きな時計から鳴るメロディに気付かされることになった。すると彼女が立ち止まる。そこには2階建てのこじんまりとした喫茶店があった。

 入り口のドアの近くにはメニューが書かれた看板が立てかけられている。長い間同じものを使い続けてているからか、縁の塗装は剥がれ、字もかすれかけているので、失礼承知で閉まっているのではと一瞬思った。しかし窓ガラス越しから見ても店内の明るさがわかる。そもそも扉のドアノブにはOPENと掘られた木札が掛けられているではないか。とんだ勘違いであった。

 ここで止まったということは中に入るのだろうが、どうしてわざわざ一時間ほどかけてこんな遠くに俺を呼び出したのだろう?何か理由がなければ学校の近くのファミレスなりデパートなりいくらでもあるだろう。そんなにも誰かといるところを見られたくないのだろうか?恐る恐るドアに手をかけた。



「いらっしゃいませ。あら、」

 喫茶店というと大人の人が新聞を片手にコーヒーを飲んでいるイメージが会ったので、心臓をドキドキとさせていた。けれども予想より明るく高い女性の声だったので、うつむいていた顔を上げる。そして俺は言葉を失った。

「はっ、え?」

 彼女はコック帽の縦幅を減らしたような帽子を被り、白を基調としたエプロンドレスに袖を通し、すらりと伸びるロングスカートの隙間から細い足を出していた。それだけならそこまで驚かない。普通なら言うはずのない言葉を口にする。

「鈴愛さん……?」


 後ろに伸びたあの長い髪、そしてその前髪は目元を隠していて何度か先生に注意されていた。去年見たその光景と瓜二つな彼女を見間違うはずがない。

「ええ、覚えていてくださって嬉しいです。」

 そして思い出してほしい。今日結城が言っていた言葉を、そう目の前に立っているのは、後ろに立つ鈴羽によって不登校になったはずの彼女が……そこにいた。

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