第1話 好奇心は猫をも殺す

起立きりつ!」

 その声が聞こえて目を覚ました俺は慌てて椅子から立ち上がり、前もよく見えないまま礼をする。


 先生の足音が聞こえるのを確認して顔を上げた俺は辺りを見渡す。しかしぼやけて上手く見えない。そうだ、メガネを掛けていないからだ。

 寝起きでうっかりとしながらも、机に黒くぼんやりと見えるそれを手にとって耳にかけると、黒板にチョークでびっしりと書かれた数式に圧倒される。そのどれにも見覚えが無いところを見ると、俺はどうやら数学の授業を丸1時間眠っていたらしい。

 俺の席は後ろのほうで先生からは死角しかくになるので起こされなかったのだろう。それか起こしてもきっとまたすぐに寝てしまうだろうとあきらめられたかのどちらかだ。


 


 せめて写すだけでもとペンを手に取るが、すでに日直は前に出て黒板消しを手にしている。待ってもらおうと口を開きかけたが、時計を見てやめた。今は12時、つまり4時間目が終わったところだ。

 教室ではすでに何人かのグループが固まって昼食を取り始めようとしている。あるいは何人かは、校内の購買に昼食を買いに出かけていた。

 日直の人も誰かが食べている前で黒板消しを使いたくはないだろう。そう思ってすぐにとりかかろうとしているのだとしたら、俺の我儘わがままで手を止めさせるわけにはいかない。そうこう考えているうちに、濃い緑色のきれいさっぱりな状態になっていた。視線を下に落とし、真っ白なノートを見てため息をついた。

 

 またやってしまった。それも一番苦手なこの時間にだ。

 どうしてか数学の時間に限っていつも眠くなる。二乗やら関数やら言われたところで頭の中が真っ白になるだけだ。おかげでテストは毎度赤点。不名誉なことに、追試の常連として数学の先生には顔を覚えられている。追試会場に足を出せば目にする生徒の顔を覚えてしまうくらいには慣れている。

 思い出してみれば、高校受験は他の教科でカバーしていた。となると次の壁は大学入試だが、それについてはそもそも数学を使わない選択肢を選べばいい。文系科目だけで勝負できるところなど、探せばごまんとある。そんな軽はずみな考えが一層いっそう勉強への熱意をかき消してしまっていた。

 


 教室の後ろを見ると、計10教科のテスト範囲がびっしりと隙間なく貼られている。中にはテスト当日に範囲分の課題を提出する教科もちらほら見える。テストまで約2週間を切った今、あせりを通り越してなかば諦めかけていた。国語や英語なら前日に徹夜すれば問題ないが、他は暗記量が多すぎて時間がいくらあっても足りない。

 それだけ危機感をもっているのなら、休み時間を使って少しでも勉強したらというのが正論だが、それができたら苦労しない。夏休み最後まで宿題が残っていた経験のあるものなら誰もが、首を縦に振って同意できるだろう。


「はい、これ。」

 そんな怠惰たいだを見透かしたかのように、聞き覚えのある落ち着いた声が耳元に届く。横を向いたと同時に目が合う。背丈は平均程度の俺と変わらず、優しい顔立ちを見せる彼は俺の友人の結城ゆうきであった。

 視線を少し斜め下に向けると彼の手には、数学Ⅱと筆ペンによる達筆な字で書かれた青色のノートがある。それは俺に渡すように掴まれていた。彼は隣の席なので俺が寝ていたことを知っていたからだろう。俺だったら知っていても、自分から口を開くことなんてとてもできないが、彼は照れ笑いもなしに声を掛けてきた。

「ほんとに借りて良いのか?」

 そのあとにどんな言葉が返って来るか想像つくものの、人間一度はそう聞かずには落ち着かない。

「良いよ。でも次の授業はちゃんと受けなきゃだめだよ。」

 彼はニコッと笑顔を見せる。

 女子だったらころっとってしまいそうな、そのさわやかさに目を一瞬そむけながら、俺はノートを受け取った。パラパラとめくって見ると毎時間の授業の内容がひと目でわかるくらいに整理されている。繊細な正確からかカラフルな色と定規を使って丁寧に引かれたその図は、まるで女子のノートのようだ。



「はぁ、翔哉あんた結城ばっかに頼るのやめなさいよー。」

 その言葉に曲がっていた背筋をピンと伸ばす。この声、この口調、まさか……

「つ、三波みなみ。」

 結城の後ろであきれた表情を浮かべている彼女は、俺のもう一人の友人であった。

「いっっつもノート借りてるじゃない。そんなんじゃ再来週の中間テストも赤点よ。」

 足を開いて立ち、ピシッと細長い指を伸ばして俺に向けながら注意をする。お前は真面目な委員長か。そんなツッコミが思い浮かんだが、彼女の顔を見てすぐに「ははっ」と笑い声が出た。



「なっ、何よ!?」

 彼女は顔を真っ赤にして怒るので違和感は多少紛まぎれるが、それでも隠しきれてはいない。むしろその青髪が彼女のおでこについた丸い痕を、際立たせている。

「お前も寝てたんだろ。鏡見てきたらどうだ?」

 三波は俺の視線に気がつくと、慌てて前髪と一緒に押さえながら、「別に私は平均以上とってるからいいの!それに塾で復習してるし!」とムキになって答えた。



「ほらお互い落ち着いて。……そうだ翔哉くん、今日もお昼一緒に食べてもいいかな?」

 仲裁ちゅうさいしようと三波をなだめながら言う結城の手には、お弁当箱が入った手提げ袋が握られている。それを見て空腹感を思い出した。そうだ今は昼休みだ。どうりで身の回りから、食欲を誘う美味しそうな匂いがするわけだ。

「ああ、もちろん。」

 いつものことなので当然受け入れた。

「はあ、昼は一人で食べたかったのになー」

 三波の口からそんな嫌ったらしい声が聞こえるが、かくいう彼女の手にも、可愛らしい花柄の小さな弁当箱が握られている。それが意味することは言うまでもないだろう。



「だったら友達と食ってきたらどうだ。」

 しかしあえて知らない振りをする。ちょっとして仕返しだ。

「うっさい!ほら時間無いんだから早く机動かしなさいよ。」

 彼女はぶつぶつと不満をらしながらも、せっせといつものように近くの机を借りて動かし始めた。素直じゃないやつだ。

「じゃあ僕も、」

 それに続いて結城も同じように机を動かし、輪のようになってそれぞれ席につくと、各々が弁当箱を広げ始めた。結城は肉団子や炒め物のような男子高校生らしい中身、三波は対称に野菜中心のさっぱりした中身だ。栄養バランスで言えば、俺の弁当箱が一番健康的かもしれない。二人ともお互いの中身の半分を交換すればいいのに、なんて思いながら口に含んだ米粒を咀嚼する。




 昼食を摂り始めてからしばらくすると、携帯が小刻みに振動し出す。

「翔哉くん?」

「あ、ああ。」

 気にしないように振る舞いながらも、指摘されたので携帯を手に取った。こんな時間に一体誰からのメールだろうか?今は学校にいるから、生徒からメールが来る可能性は低い。

 親からか?それとも妹だろうか?家族から来たメールだと予想すると少し不安になる。親はいつも社食だし、妹に限って弁当を忘れるとは思えない。だとしたらもっと重大な、なにかだろうか?


 考えていても仕方がないので、メールアプリを人差し指でタップすると一番上に一件、新着メールが入っていた。件名を見るとそこには依頼屋とある。こんなふざけたメールを送る知り合いはいないので不思議に思ってドメインを見るが、やはり心当たりのある連絡先ではない。


 

俺はメールの詳細を知るためにフォルダを開いた。URLが貼ってあれば詐欺メールだろうと判断できるのだが、そこにあるのはご当選おめでとうございますでもエッチなお誘いでもない。


 "依頼のある方ご利用ください。“


 最初にそれが目に入る。件名の依頼屋を名乗るに値する文だろう。そこまでは良かった。問題は次の行にある。


“私立城南学園生徒“


 それはまさしく俺の通うこの学校の名だ。つまり送り主は俺と同じ学校の生徒だということ。俺はSNSなどにおいても学校名などは公表していないから、まず間違いなく言える。中学の友達?そんなもの記憶の断片にだって残っていない。だとしたら本当に誰なのだろうか?この様子を見て薄ら笑いをしている生徒の気配もない。そもそもいたずらにせよ、こんな不可解なメールに食いつく人間なんてそういないだろう。

 そして最後には地図が添付されていた。簡単な画像編集アプリによって赤い丸をつけられた場所、まるでここに来いと言っているかのようだ。



「翔哉くん?」

 結城が今度は心配そうな顔でこちらを尋ねるので、すぐに携帯の電源を切って「ああ、大丈夫だ。」と短く答えた。

 汗は出ていないだろうか、口元に力が入っていないだろうか、できる限り自然に見せられるように取りつくろうが、鏡のないこの場では、自身を写すものは何もない。

「……結局なんのメールだったの?」

 結城は首を傾げる。返信もしないで画面を閉じたんだ、当然の疑問だろう。しかし正直に話をすれば、彼の不安をさらに仰ぎかねない。

「ん?いや特にこれと言ったメールじゃない。気をつけて帰れよってさ」

 嘘をつくのはためらわれたがこの際仕方がないと割り切ることにした。

「そっか。集中して読んでいたから大事なメールかと思ったよ。」

 そう言って彼はそっと胸を撫でおろすように息を吐く。すると結城が話を変えるように口を再び開いた。


「そういえばさ。翔哉くんは依頼屋って聞いたことある?」

「ああ、まあ噂でな。」

先程のメールを横目で見られていたのでは無いかと疑う程に、それはピンポイントな話題であったからだ。しかし結城は回りくどい話し方をするような人間ではない。見ていたなら素直に言うだろうし、意図の是非に問わず謝るだろう。


「だがそんなに詳しいわけじゃないからな。」

 考え込むような仕草をしながら無知をよそおう。いやつい今さっき、そういえば友人が前に言ってたなとあいまいな記憶を掘り起こすほどに記憶には薄い。知らない同然だ。


「そっか、まぁ最近噂ででてきた話だから知らなくても仕方ないよ。依頼屋っていうのはね、平たく言うとボランティア集団みたいなものなんだ。」

 ボランティアならうちの学校の生徒会が地域に出向いて似たような活動をしているが、彼が言うのはそれとは違うらしい。


「その依頼屋って言うのは、具体的にどんなことをするんだ?」

 最初はせいぜいクラス用の連絡網として機能しているコミュニティを通して送られてきたいたずらメールだと考えていた。しかしボランティアと聞くに依頼屋とは匿名の生徒からなる活動なのだろう。この際だ、少しでも情報を集めておこう。俺は彼に問う。



 


結城は少しの間うつむくとその顔を上げた。頭の中で整理し終えたようだ。

「そうだね。落とし物を探してくれたり必要な人数を集めたり、広報のポスターのお手伝いをしてくれたりだとかそんなところかな。」

 ここ最近できた依頼屋がすでにそこまでの成果を出しているとは意外とやりてなのかもしれない。


「結構ちゃんとした活動をしているんだな。」

 依頼屋というふざけた名前に探偵の真似事まねごとでもしているのでは無いかとも一瞬思ったがその内容は至って真面目だ。何か困ったことがあれば依頼の一つでも出してみようか、なんて冗談を考えながら水筒を傾ける。

 ちょうど区切りが良いし話を替えようと新しい話題を思案するが、反面それを聞いた結城は顔を曇らせた。

「どうしたんだ?」


 


彼はなかなか答えようとしない。そればかりか、三波に救いを求めるような視線を向けていた。

「三波、何か知っているならどう言うことか教えてくれないか?」

 彼女は口に入れていたものを飲み込むと、深くため息をついた。



「隣のクラスに不登校者ふとうこうしゃがでたのよ。それが依頼屋による仕業しわざなんじゃないかって疑われているってわけ。」


 空いた窓ガラスに吹き込んだ風に教壇に置かれたプリントは舞うように飛んでいく。そしてそれはちょうど俺の足元に落ちた。心に余裕がないまま手で拾い横目で流し見る。と、同時に激しい目眩めまいと頭痛に襲われる。


「翔哉くん、大丈夫?」

「……ああ。」

 頭を手で抑えながら再びプリントを見ようとする。しかしそこには何も書かれていない。気のせいだろうか?突如訪れた不可解な現象に首を傾けた。

 


 いや、今はそんなことより……不登校?それが依頼屋の仕業?ますます理解が困難になる。

 一体どういうことなんだ。








「そろそろ返事は返って来るのでしょうか?楽しみでしかたありませんね。」

 椅子に座って天井を見つめる彼女は期待に胸を膨らませながら、腕を伸ばして思い人を待ち続けていた。体全体をもたれさせているというのに、椅子は悲鳴一つあげない。彼女は一体、何者だろうか?


【第1話 好奇心は猫をも殺す 完】



 




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