ふくぼんっ!~どうしてこうなったんだろう~

くろねこどらごん

ふくぼん その4

「智樹、今日からアンタは私の恋人だから。光栄に思いなさい」


そんなことをいきなり言われて、はいわかりました嬉しいですなんて言える人が、いったいどれだけいるのだろうか。

たとえそれが学校で有名な美少女でありお嬢様であったとしても、明らかな上から目線で物申されて、喜べるような趣味はしていない。

ましてやその子、五光院さつきは僕にとって幼馴染で、彼女の横暴さと強引さを長年の付き合いから理解している身からすれば、それは到底頷ける話ではなかった。


「え、そんなこと、いきなり言われても…」


とはいえ、直接的に断ることはできない。とりあえず場を濁そうと、表面上戸惑った風を装ったんだけど……


「ハァッ!?なによ、私が恋人にしてあげるって言ってるのに!いったいなにが不満なのよ!」


「な、なにがって、そりゃ…」


そういうところが嫌なんだよ。そう言いたくなる気持ちをグッと飲み込み、僕は下を向いた。


(イチイチ怒らないでくれよ…)


さつきの性格はとっくの昔に把握している。

あからさまに拒絶するような対応をとったものなら、きっと今以上に烈火のごとく怒り狂い、こちらを強く責め立ててくることだろう。

そうならないための対策は、なにも言わないことくらいだ。嵐が過ぎ去るのを待つことこそが、波風を立てずに済む唯一の方法であると、とっくの昔に理解している。


(知りたくなんてなかったけどさ…)


油断をするとため息が漏れそうだ。

とにかく早く怒りが収まってほしい。

怒られるのは誰だって嫌なものだろうし、それはもちろん僕だってそうである。


だけど、世の中には怒られることよりも怖いことがある。

人の心ってやつは複雑だから、恐怖にもきっと様々な形があるんだろう。


そして僕にとって、一番恐れていること―――それは好きなの前で、みっともない姿を見せることにほかならない。


「お嬢様、さすがに説明が足りないかと。三上くんも困っていますよ」


その声が聞こえたとき、僕は心臓が飛び跳ねて、弾かれるように顔を上げた。

長い黒髪が、ふわりと揺れていたように見えたのは気のせいだろうか。


「聖、さん…」


「三上くん、申し訳ありません。またお嬢様が失礼を」


視線の先には僕らと同じ制服に身を包んだ女の子。

さつきのメイドである設楽聖がこちらに向かってペコリと頭を下げていた。


「い、いや!そんな、聖さんが頭を下げなくても!」


「いえ、ここは謝らないといけないところですので。昔から、お嬢様は貴方に対しては常に言葉足らずなところがありますので…」


それを見て僕は慌てた。聖さんは申し訳なさそうな表情を浮かべていたが、僕としてはそんな顔をされるほうがよっぽど心が傷むのだ。

だから気にしないで欲しかったのだが、いつもここで横槍が入ってしまうことを、僕はすっかり失念してしまっていたのである。


「余計なことは言わなくていいの!コイツはどうせ私の言ったことに頷くしかないんだから、これでいいのよ!」


「っつ!」


突如張り上げられた金切り声。それを聞いた聖さんは、ビクリと身を縮こまらせてた。

普段の関係が伺えるその様子を見て、僕は眉を顰ませる。

彼女にこんなことをのたまう人物は、当然ながらこの場にたったひとりしかいない。


「申し訳、ありません。お嬢様…」


「ふん…」


謝る聖さんに、さつきは一瞥した後軽く鼻を鳴らすだけだった。

さつきは苛立ちを隠しきれていないようだが、そのあんまりな上から目線と僕らの気持ちを無視した無遠慮な態度に、さすがにカチンときてしまう。


「そんな言い方…!だいたい、恋人ってなんだよ!なんでいきなりそんなことを言い出すんだ。訳わかんないよ!」


聖さんがいるというのに、思わず僕は叫んでいた。

それくらい理不尽だと思ったのだ。聖さんへの態度と僕の気持ちを無視した、さつきの一方的な物言いに、思った以上に不満があったのかもしれない。


「それは…」


「聖!」


聖さんは答えてくれようとしたのだが、それを制するのはやはり主人であるさつきだ。

彼女が一喝すると、聖さんは黙らざるを得ない。小さい頃から見てきたけど、この子はどこまでも主人に対して従順な性格で、さつきに対して反抗する姿なんて見たことがなかった。


「いい加減にしてくれよ…!これじゃ話がサッパリわからない。なんで僕がさつきの恋人にならないといけないのか、ちゃんと説明してもらわないと、納得もなにもないじゃないか」


とはいえこれでは堂々巡りだ。まるで話が進まない。

僕が欲しいのは幼馴染とはいえ、身分違いで傲慢なこのお嬢様となんで恋人関係にならないといけないのかという疑問に対する答えだ。決して彼女の怒声なんかじゃない。

僕の言葉にさつきはぶすりとした憮然な表情を一瞬見せるが、その後すぐに大きなため息をつきながら口を開いた。


「……私がそうしたいと思ったからよ。私という、五光院家の令嬢と恋人になれるんんて、本来なら決して有り得ないことだわ。人としてこれ以上の幸福があって?だから智樹はただありがとうございますと喜べばいいの」


「なっ…」


「いくら馬鹿なアンタにだって、それくらいできるでしょ?」


答えは確かに返ってきた。だけどそれは僕にとって、到底納得できる内容ではない。

喜べる要素がどこにあるというのか、見当がつかないくらいの回答だ。

これを告白だというのなら、世の中の男女の関係はひどく殺伐としたものになっていることだろう。


「できる、わけが…!」


「これは決定事項だから。異論は認めないわ。明日お父様に紹介するから、そのつもりで準備しておきなさい」


それだけ告げると、さつきはくるりと身を翻らせた。

無駄に優雅なその仕草に、いやがおうにも腹が立つ。人の神経を逆なでるだけ逆なでて、自分は帰るつもりなのか。そんなの、頷けるはずもない。


「待っ―――!」


「お待ちください、三上くん」


このままいかせてなるものかと、さつきを引きとめようとしたところで、割り込む声があった。


「…お嬢様。私に彼に説明する時間を、どうかくださいませんでしょうか」


それは聖さんのものだった。さすがのさつきも聖さんは無視できなかったのか、歩く足を止めていた。


「……話はもう終わったでしょ?」


こちらを振り返ることはなかったが、それでも聖さんにとっては十分だったのだろう。少し頭を振った後、背を向けるさつきに向かって話しかけた。


「お嬢様はそうかもしれません。ですが、このままではあまりに…」


聖さんはそう言うと、チラリと僕のほうを見る。

僕を心配してくれているんだろうか。そう思うと、自然と顔が熱くなる。

さつきに対して抱いたものとはまた違う熱が、僕の身体を覆い始めた。


「そう。なら、好きにしなさい。ただ、早く帰ってくるのよ。それと、余計なことは絶対に言わないように」


「かしこまりました」


それだけを言い残し、さつきは再び歩き出す。

今度は止めることはしない。むしろ話さずに済むとわかり、喜びたいくらいだ。

聖さんと話したほうが、ずっとスムーズに進むのだから。




「……改めて、本当に申し訳ありません。お嬢様がいつもご迷惑をおかけしてしまいまして…」


さつきの姿が見えなくなった後、僕らは改めて向き直った。

聖さんの第一声が謝罪から始まったのはさすがに面食らってしまうけど、何度も謝られても居た堪れなさが半端じゃない。


「いや、それはもういいよ。それより、事情を聞かせてくれないかな?」


今僕が聞きたいのはどうしてこうなったかという一点のみだ。

過程もなにもかもすっ飛ばされて結果だけを話されても、エスパーでもない僕に理解できるはずもない。


「そうです、ね…まずはどこから話したらよいものか、私も迷うのですが…簡単に言ってしまえば、これは五光院家の問題なのです」


家の問題?さつき個人の問題ではないということか。


「そういえば明日お父様に紹介とか言っていたけど、もしかしてそれが関係しているの?」


「はい、そのとおりです…これは内密にしていただきたいお話なのですが、先日旦那様からお嬢様に、とある方との婚約の話が持ちかけられたそうでして…」


少し歯切れ悪く、若干とぼとぼしい口調で聖さんは話し出した。

その内容は僕としては信じ難い、だけどドラマなどの世界ではよくある、所謂上流階級同士の政略結婚の話だった。

使用人である聖さんには詳しい話を知らされているわけではなく、あくまでさつきに聞かされた話だと断りを入れられ話されたのだが、僕のような庶民からすればまさに雲の上の出来事だ。

両家の関係を良好なものとするため、さつきの実家と婚約者の間に縁談が持ち上がったのだという。

それにさつきが反対し、恋人がいるからそんな話を呑むことはできないと父親に食ってかかったことが大まかなことのあらましのようだった。


「…………で、その恋人役に白羽の矢が立ったのが僕ってわけ?」


「はい…他に適役がいないからと、お嬢様が…」


なんというはた迷惑な。確かに僕と彼女は幼馴染という間柄ではあったけど、事情も言わずに恋人になれと言われても困惑するしかないことくらいわかるだろうに。


「マジかぁ…さつきなら事情を説明すれば、いくらでも頷く男子はいるだろうに。なんで僕なんだか」


「それは…お嬢様からすれば、三上くんが一番頼みやすい相手だからなのかもしれません。家でもいつも三上くんのことを話しているくらいですから…」


複雑そうな表情で聖さんはそう話す。

まるで嬉しくなんてなかった。あの様子を見ても、どう考えてもロクなことを言っていないだろう。

悪口三昧なんじゃないかと思うとげんなりするし、深く追求するのは辞めておこうと心に誓った。


「そうなの。で、そのニセ恋人?でいいのかな…それを引き受けたところで、僕はいつまで恋人関係を続ければいいの?」


聞かなかったことにして、僕は話を進めることにした。

とりあえずもう少し詳しい話を聞いても損はない。本音を言えばさつきと恋人になるなんてゴメンだが、仮にも聖さんの雇い主でもある幼馴染だ。無碍に扱うのもよくないだろう。


「……それ、は」


そんな打算も少なからずあっての問いかけではあったのだけど、ここにきて聖さんは何故か言い淀んだ。唇を引き締め、どこか辛そうに見えるのは、僕の気のせいなんだろうか。


「……?あ、もしかして、そこらへんは聖さんも聞かされてないの?なら明日改めて―――」


「いえ、聞いてはいます…ただ、それは…」


気を効かせるつもりでそろそろ話を切り上げようとしたのだが、聖さんは違ったようだ。話すべきか迷っているというよりは、言いたくないことをどう言葉にすべきか、そんな葛藤が見て取れる。


「あの、聖さん。無理しなくても…」



無理に答えなくてもいい。そう言おうとして―――僕は動きを止めざるを得なかった。





「おそらく、ですが…一生だと、思います」


「え…」


放たれた言葉の重みを、理解できなかったから。


「い、一生…?それって…」


「そのままの意味です。明日旦那様にお会いして認められたら、きっとすぐにでも婚約を結ばされると思います。そうなると別れるのは難しいかと…間違いなく結婚まで話は進むことでしょう」


理解が追いつかないまま、聖さんは淡々としゃべり続けた。


「ま、待ってよ。だって、恋人になったからって、いきなりそんな…」


「旦那様はそういう方です。それをお嬢様も分かっておいでですから、三上くんには話さずに事を進めたかったのだと…本当はこれも言ってはいけなかったんです。ですが、これでは三上くんがあまりにも…」


そこまで告げて、聖さんは目を伏せた。

一瞬悲しそうな顔をしているように見えたのは、罪悪感を感じていたからかもしれない。

でも、それはどちらに対しての?

僕か、それともさつきにか。聞けば答えてくれるだろうか。

いきなり突きつけられた選択の重さに、ぐるぐると視界が回りだす。

思わずたちくらみがしてしまい、ふらりと身体がよろけてしまった。


「あ…」


「!危ない、三上くん!」


その時だった。たたらを踏んで倒れそうになった僕の胸の内へと、聖さんが飛び込んできたのだ。


「んん!きゅ…」


力が抜けた男子の体。それに寄りかかられるなんて華奢な彼女では大変だろうに、まるで僕を支えるかのように思い切り抱きついてくる。

柔らかな胸の感触を制服の布越しに感じてしまい、今度は身体が思い切り硬直してしまうのは、男子の悲しい性なのだろうか。


「ご、ごめん…なんか急に力が抜けちゃって…」


「いえ、いいんです。それより、もう少しこのままで…」


気まずさからすぐに離れようとしたのだが、何故か聖さんは僕の体に抱きついて離れようとしなかった。

もう支えてくれなくても大丈夫なのに、僕の背中に手を回し、逆に力を強めている。


(う、嬉しいけど、これは…)


はっきり言って心臓に悪い。さっきまでの悩みが吹き飛びそうだ。代わりに寿命が縮まるかもと、そんなどうでもいいことまで考えてしまう。


「…三上くん。私の顔を見ないで、答えてください」


錆び付きかけた思考の中、不意に聖さんの声が聞こえてきた。

その声は僕の胸の中から聞こえてきたため、反射的にそちらを見てしまいそうになったが、なんとか堪える。好きな人からの頼みを断るなんて選択肢、僕にはなかった。


「えっと聖さん。なに…?」


「三上くんは、お嬢様のことが好きですか?結婚したいと、そう思っていますか?」


彼女から問いかけられたのはそんな言葉。さつきとの今後に関する、選択の話だった。


「それは…」


正直、これに関しては悩むまでもない。

あのワガママお嬢様といると疲れるし、付き合いたいなんて毛ほども思わないからだ。好きだなんて気持ちを抱いたことも、一度だってありはしない。

そもそもずっと昔から、僕には好きな人がいたのだから。


「…………思わない。僕は、さつきのことが好きじゃないから」


気付けば否定の言葉が零れ出ていた。

自分に嘘をつくことが、きっと出来なかったんだろう。

そもそも僕が好きな人は、今この腕の中にいるんだ。だというのに、どうして頷くことができるだろうか。


「そうですか…」


僕の答えに、彼女は静かに頷いたのが肌を伝う感覚でわかった。

彼女は優しい子だから、僕の答えをきっと残念に思っていることだろう。

そう思うと、胸が痛む。聖さんには嫌われたかもしれない。

だけど頷いていたら、もっと後悔の念に襲われていたことだろう。


「ごめんね、でも僕は…」


「ううん、いいんです…三上くんはなにも悪いことをしていないんですから…むしろ謝るのは、私のほうなんです」


もう言葉は取り消せない。ならせめて、最後まで後悔のないようにしよう。

その思いから口を開いたのだが、何故か謝られたのは僕のほうだった。


「正直に言います。私は今、ほっとしているんです。ううん、むしろ嬉しい。三上くんがお嬢様のことを好きじゃないって聞いて、私は喜んでしまったんですよ」


ひどいですよね、そう自嘲するように呟く聖さんに、僕はドキンと心臓が飛び跳ねる。


「え、それって…」


「私、三上くんのことが好きなんです。ずっと前から貴方のことが…言いたかったけど、言えなかった。こんなことになってから、やっと言うことができました」


恥ずかしげに、彼女は僕にそう告げた。

ずっと言えなかったのだと言いながら、僕に告白をしてくれたのだ。

思ってもみなかったことに、頭が真っ白になってしまう。


「そ、それって本当なの…?」


まるで思考が働かないなか、こう聞くのが精一杯だ。

声が震えてしまったが、それでも意識を保っているだけ、僕としてはよく頑張ったほうだと思う。


「はい…」


「そう、なんだ…そっか…ありがとう、すごく嬉しいよ」


これは現実なんだろうか。頷いてくれる彼女に、愛しさが溢れて止まらない。

同時に勇気も湧き上がり、僕はそれに押されるように口を開いた。


「先に言わせちゃってごめんね。僕も聖さんのことが好きだ。僕もずっと、君のこことが好きだった」


自分でも驚く程、淀むことなく告白の言葉を紡げていた。

多幸感に満ちた曖昧な感覚は、僕から羞恥心を気付かぬうちに取り除いていたらしい。


「え…ほ、本当ですか」


「うん。だから、さつきと恋人になるなんて、僕には考えられないよ」


勢いというのは怖いもので、この時の僕はなんでもできるような気がしていた。

彼女なら、きっと頷いてくれるだろうという期待もあったのかもしれない。


「聖さん。僕と付き合って欲しい。順番はおかしくなってしまったけど、僕は君と恋人になりたいんだ」


そう告げる僕の言葉におずおずと、だけどしっかりと頷く聖さんを見て、僕は顔を綻ばせた。










「はぁっ、緊張したぁ…」


ベッドに身を投げ出しながら、私は天を仰いでいた。

吊り下げられたシャンデリアの光が眩しいけれど、それでも今の私の全身を包む気だるい倦怠感からすればむしろいい刺激になるくらいだ。決して悪い気はしなかった。


「まさか私から告白する日がくるなんて、思ってもみなかったわ…」


改めて口にすると、顔から火が出そうだ。

そう、私は今日、幼馴染である三上智樹に告白をしてしまったのだ。

元々自分からするつもりなんて全くなかった。向こうから、もっとハッキリ言えば智樹からの告白をずっと待ち続けていたのだけど、そうも言っていられない事情が生じてしまったからだった。



きっかけは先日のこと。お父様に呼び出された私は、あることを告げられていた。

それは私の婚約相手が決まったとのこと。当然ながらまったくの寝耳に水で、あの時の私は大いに慌てたものだった。これはお前のためなんだと言われたところで、納得なんてできるはずもない。

その場で口論になってしまい、気付いたら私はこんなことを言ってしまってたのだ。


―――私には将来を誓い合った相手がいるんです。その人以外の方と、結婚なんてしたくありません!


もちろんそれは嘘だった。好きな相手がいるのは確かだったけど、付き合っているわけではなかった。両想いであるのは間違いないと思うけど、今思い出しても大胆にも程がある言い草だ。

自分で言ったなんて信じられないくらいだけど、それでもお父様の心を動かすことはできたみたい。

お父様は私の言葉に少し驚いた後、神妙な顔で私に向けてこう告げたのだ。


―――それなら今度連れてきなさい。挨拶くらいできないようなら認めることはできない、と




「その言葉を引き出せただけ上出来だったんでしょうけど、ね…」


思わずため息をついてしまう。自分から告白するなんて、はしたないことをしたものだ。

どうせ私のことが好きなくせに、告白してこない智樹が悪いことには違いない。

恥ずかしさからつい冷たい態度を取ってしまったけど、一晩経てばお互い頭も冷えるだろう。あとはお父様に紹介して、ふたりで手を取り合って将来に向かって歩き出せばそれでいい。


順番は違ってしまったけど、恋人として仲を深めるには時間はたっぷりあるんだ。

他の人と婚約なんて冗談じゃない。私には智樹以外考えられないし、智樹だってそうに違いなかった。

想いが通じ合った今なら分かる。恋というのは、こんなにも素晴らしいものだったなんて…色々あったけど、私は間違いなく幸せものだった。


「くふふ…早く明日にならないかしら」


口元がニヤけるのを止められない。自然と広角が上がっていくけど、正すつもりもまったくなかった。

この幸せをどこまでも謳歌したかったから。ふと壁にかけてある時計を見ると、既に時刻は19時を回っている。明日の今頃は、きっとますます幸せになっているに違いなかった。


(…………ん?あれ……)


そういえばもうこんな時間だというのに、未だ聖が帰ったという報告を受けていない。

真面目なあの子は帰宅したらすぐに私のところにくるというのに…幸せな気分に浸っていたからか、気付くのが遅れてしまったらしい。


「あの子ったらなにをしてるのよ。もしかして、智樹に余計なことを言ったりしてないわよね…」


思わず歯噛みしてしまう。婚約に至るかもしれない話は敢えて隠したことだというのに、話して怖気付かれたらどうするというんだ。

アイツはちょっとヘタレなところがあるから、こういうのは出たとこ勝負で流れに任せるのが一番上手くいくというのに。

余計な情報なんて与える必要はないんだ。私が全部上手くやるから、智樹はこれから学んでいけばそれでいいだけのことだった。



コンコン



そこまで考えが至ったところで、部屋にノックの音が響いた

反射的に思考は切り離され、私は現実へと舞い戻る。


「なに?今ちょっと立て込んで…」


「お嬢様、私です。只今戻りました」


つまらない用事なら後回しにさせようと思ったところで、返ってきたのは聖の返事だ。

どうやらようやく帰ってきたらしい。そのことに、私は密かに安堵する。


「ああ、聖。今帰ったのね。いいわよ、入りなさい」


「はい、失礼致します」


入室を許可すると、聖はドアノブを回して姿を見せる。

背筋を伸ばした、メイドらしい姿勢の良さ。いつもの聖がそこにいた。


「さて、それじゃあ早速だけど、話を聞かせてちょうだい。智樹には説明してくれたんでしょうね」


「はい、できる限りのことはお伝えしました」


「そう、ならいいわ。それで、アイツはなんて?」


「はい……事情はわかったと、そう仰っておりました」


ふむふむ。それなら問題なさそうね。どうやら納得してくれたようでなによりだ。

智樹のやつは私相手だと照れるのか、すぐ噛み付いてくるところがあるけれど、聖の言うことは素直に聞くことは分かっている。

そのことに思うところはあったけど、どうせアイツが好きなのは私だからと言い聞かせ、ずっと我慢はしてきたのだ。この同い年の使用人とは主従関係こそあったけど、同時に頼れる数少ない友人でもあった。


「ふふっ、そっか。助かったわ聖。これからも頼りにしてるわよ」


だから思うところはあれど任せたのだけど、正解だったらしい。私の判断は間違っていなかったと確信する。

アイツとも幼馴染の間柄だから、これからもなにかと世話になることだろう。

迷惑をかけることも多いだろうけど、私と智樹の未来のために、これからも頑張ってもらいたい。


「…………申し訳ございません、お嬢様。ひとつ、申し上げなくてはならないことがございます」


「ん?なにかしら。なんで言っていいわよ。今の私はひどく気分がいいのだから」



そう、思っていたのに―――







「お嬢様と三上くん……いいえ、智樹くんは、旦那様にお会いすることはありません」


「…………ぇ」


突然彼女に告げられたのは、そんな意味不明の宣告だった。




「……なに、言ってるの。聖、冗談、よね?」


たっぷり数秒ほど、私は固まってしまっていたと思う。

それでもなんとか立て直し、聖に問いかける。

言っている意味が、よく理解できなかったから。

友人の言葉を、私は嘘だと思いたかった。


「冗談ではございません…実はお嬢様に会いに来る前に、私は旦那様の部屋へお伺いしてまいりました」


だというのに、聖はどこまでも手厳しかった。

私の縋るように振り絞った問いかけをピシャリと両断すると、また訳のわからないことを言いだしたのだ。


「は?なんでお父様に会う必要が…」


「真実を告げるためです。お嬢様の言ったことは嘘であると、私は報告してきました」


その言葉を受けて、私は今度こそ固まってしまう。

本当に、まるで理解できなかったから。


「え、ひじ、り…?」


「お嬢様に将来を誓い合った彼氏なんていない、その場しのぎのでっち上げと申し上げたら、旦那様は大層ご立腹でしたよ。後で話があるそうです、そのうち呼び出しの電話がくるのではないでしょうか」


なんなら、今すぐにでも――聖がそう言い終わるタイミングを狙いすましたかのように、私のスマホが音を立てて鳴り出した。

反射的にそちらを見るも、ディスプレイに表示された名前はお父様のもので。

それが否応もなく、先ほどの聖の話が真実であると告げている。


「な…なんで!?なんでそんなことをしたの、聖!!!」


電話に応対することもなく、私はただ絶叫した。

今やなにもかもが二の次だ。長年の友人からの突然の裏切りが、今はただ許せなかった。


「そうですね…一言で申し上げますと、こうしなれば、私達が幸せになれないと思ったから、でしょうか」


は?私達?なによそれ。いったいこの子は、なにをいって―――




「すみません、お嬢様。もうひとつだけ貴女に告げ忘れていたことがございます……私と智樹くんは本日より、お付き合いをさせて頂くことになったんですよ」








「…………は、ぇ?」



本当に、この子はいったいなにを言っているんだろう。



「お嬢様の気持ちはずっと存じ上げておりました。だけど同じくらい、私も自分の気持ちを押し殺していたんですよ。それが今日になってどうしても抑えきれませんでした。そういう意味では、私は間違いなくお嬢様の使用人失格です」


でも、と。ひと呼吸置いて聖は再び話し続ける。

私を置き去りにしながら、夢を見ている乙女のような笑顔でこう話すのだ。


「私は彼に告白したのです。もちろん振られるだろうとそう思ってのことだったのですが、彼は言ってくれたのです。自分もずっと同じ気持ちだったと。お嬢様のことは、好きではなかったと、そう仰ってくれたのです」


彼女にとっての幸福を。私にとっての絶望を。

二つもろとも織り交ぜて、唄うように聖は告げる。


「まるで夢のようでした。でも、夢で終わらせたくなかったから、現実に落とし込むために、私と智樹くんが幸せになるために、こうする必要があったのです…お嬢様には本当に申し訳ないことをしたと思っております。でも、本来ならこれが正しい結末でしょう?。お嬢様の仰った通り、智樹くんとお嬢様では釣り合う身分ではありませんから」


だからどうかわかってください、お嬢様はお嬢様の幸せを掴んでくださいと、彼女は他人事のようにのたまった。


「ぇ、ぁ…」


「理解して頂けましたでしょうか。それでは私はこれで失礼致します。これからお嬢様の婚約のお話も再燃するでしょうし、色々と忙しくなるでしょうから」


それではとだけ告げて、彼女は部屋を出ていこうとする。

もはや追いかける気力も湧かない。なんでとか、どうしてとか、言いたいことはあるはずなのに、身体がまるでおぼつかなかった。



それでも分かることはただひとつ―――私は失ったのだ、なにもかも。

幸せも友人も、そしてきっと、未来さえ。


「あ、あああああああああああああああああ!!!!!」


それに気付いた時、私は絶叫していた。


部屋のなかで、私の声とスマホの呼び出し音のみが、いつまでも鳴り響いていた―――

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