第17話 銀色の約束







僕たちは、だんだんと冷たい風が吹くようになり、暑さが薄れたある秋の日曜日、二人で身に着ける指環を買おうと街に出た。


木々が少しずつ葉を落とし、金木犀が香り始めてくるこの季節は、どこか温もりが恋しくなって、僕たちの距離も知らず知らずに近くなる気がした。


僕と美鈴さんが繋ぐ手が温かくて、美鈴さんは夏に着ていた白いワンピースの上に、温かそうなオレンジ色の、網目の細かいカーディガンを羽織ってそれを腰の下まで垂らし、小さなブーツで足を包んでいた。



僕はその日の朝、日曜でも変わらずに仕事に行く父さんに朝の挨拶をした時、父さんが左薬指にしている母さんとの結婚指輪を、盗み見るようにして見ていた。


それは、金のリングの台座に大きめのダイアモンドがはめ込まれた指環で、しっかりした骨が浮き出た父さんの指に、対比するような繊細な輝きを添えていた。それから僕は、母さんの細い指に同じデザインの指輪が巻きついているのを見たのも思い出していた。大きなダイアモンドは、母さんのたおやかな白い指を彩って、より美しく見せていたことを。



僕はやっぱり、「そんなに高いものは買えないけど、なんとかして僕たちも綺麗な指環が買えないかなあ」と考えていた。





待ち合わせは駅前広場ということになっていたけど、とても大きな繁華街の駅なので、「これは美鈴さんを探すのに苦労するかもしれない」と思った。


混み合って行き場のない電車を降りて、一瞬でも気を抜けば誰かに突き当たってしまいそうな人ごみを抜け、僕は改札を出る。改札の外に掃き出されていった人たちは、元々人の多い街をさらに混み合わせていった。


僕はずっときょろきょろと辺りを見回し、彼女とのやり取りをしていたSNSアプリのメッセージ画面を何度も見返していた。


しばらくして改札を振り返った時、急いでこちらへ駆けてくる彼女を見つけたので、僕は手を振る。





街中は人で埋まっていて、僕たちは並んで歩くわけにもいかなかった。はぐれないようにと美鈴さんの手を引いて、僕たちは駅前の大きな横断歩道で人々を避けながら渡り、それからも行き交う人に押されながら、狭い歩道を苦心して歩いた。そして、やっと宝石店に着いたのだ。


豪華な宝石をふんだんにあしらったネックレスや、大粒の真珠やサファイア、ダイアモンドがはめ込まれた指環が飾られている間にある自動ドアをくぐり、二人で顔を見合わせながら緊張して店内に入る。


「いらっしゃいませ」とは聴こえたけど、店員さんは他のお客さんにかかり切りになっていた。お客さんたちはどの人も、お洒落なスーツを着込んだ男性や、ドレスに身を包んで帽子をかぶった綺麗な女性などだった。


店内には真ん中に大きなショーケース、それから壁をくり抜いて宝石を飾っているいくつかのガラス窓、あとは四角い店内の形にぐるりとまた宝石が陳列されていて、高い天井からいくつも下げられたシャンデリアによって、店の中は明るく明るく照らされていた。


自動ドア付近の店名が書かれたマットの上で、僕たちは煌びやかな光景に圧倒され、その場からしばらく動けなかった。


「なんか…場違いって感じだね…」


「う、うん…」


とりあえずは見てみるだけでもと一番店の奥から遠い、僕たちに近かったショーケースを覗き込み、控えめに輝く小さなダイアモンドの指輪を見つけた。そしてそのそばに添えられた、値段を示すのに小さな数字のブロックが並べられたものを見て、僕は愕然とする。


「えっ…」


僕の隣で、美鈴さんも「ひえっ…」という声を小さく上げた。



そう、僕たちは宝石の値段を全然全く、知らなかった。今までの人生で考えたこともなかったから、「職人の手で仕上げられた良質な宝石の指輪」が一体どれくらい高価なのか、ほんの欠片ほどの知識もなかったのだ。言ってしまえば、だからこそ「恋人同士の揃いの指輪を大学生が買いに行く」という時に、都会の一等地にある宝石店に、ぽーんと来てしまえたのかもしれない。



全く馬鹿げた話だけど、僕は宝石店に行くのに、二万円しか持っていなかった。



それから僕たちは立ち尽くしたまま店内を見渡したけど、そのままその店で安目のものを探すのも野暮な気がして恥ずかしく、そしてここには「安いもの」など絶対に無いのも分かって、二人ですごすごと宝石店を後にした。





美鈴さんは来た道を戻りながら駅前までを歩く間、少し考え込んでいるようだった。僕は己の身の不甲斐なさ、そして恥ずかしさに打ちひしがれて、何も言うことができなかった。


「ねえ…私、いいとこ知ってるよ?」


駅前に着いた時に、美鈴さんはそう言った。僕はそう言った彼女に連れられ、もう一度電車に乗ったのだった。





そこから電車を二度乗り換える時も、降りた駅でも、道を歩いている時も、僕は懐かしさを感じていた。見たことのある景色が続き、通ったことのある道ばかりをなぞって、僕たちはやっぱり「喫茶レガシィ」に着いた。


「えっ…いいとこって、ここ…?」


僕は美鈴さんがてっきり小さな雑貨店にでも案内してくれるのかと思っていたから、二人の思い出の喫茶店ではあるけど、アクセサリーや指輪なんかとは全く関係がなさそうな場所に連れてこられたことに、びっくりしていた。


「うん。入ろ?」


「う、うん…」


僕たちはドアベルを鳴らし、青い絨毯と赤い椅子のコントラスト、それからいつものクラシック音楽が迎えてくれる馴染みの店に入っていった。





「あら美鈴ちゃん。夏休み中は来なかったね。お勉強してたの?」


「はい。ごぶさたしちゃってすみません。ブレンドを二つお願いします」


「かしこまりました。お連れさんはお砂糖ね」


「あ、はい…」


マスターはいつものようにロマンスグレーの髪の毛束をきっちりと整えて黒いベストを着込んでいて、ピカピカの革靴で僕たちを席まで案内してから、キッチンに戻って行った。


椅子に掛けてから美鈴さんの顔を見てみると、さっき宝石店でしょぼくれていたのが嘘のように、彼女はうきうきとする胸を抑えるように口元をむずむずさせながら微笑んでいた。


「あの…美鈴さん、ここが「いいとこ」って…どういうこと?」


僕がそう聞くと、美鈴さんはそれを待っていたかのように、急に僕の方に身を乗り出し、囁き声で答えてくれた。


「実はね、マスターは銀細工が好きなの。自分でも作ってるんだって。だから、マスターにお願いしようと思って」


「えっ、銀細工!?マスターそんなことまでしてるの?」


僕は驚いて大きな声を上げてしまい、美鈴さんは慌てて人差し指を唇に当てて、「しーっ!」と言った。


「あ、ご、ごめん…」


「まだ内緒にしといて、マスターが珈琲運んで来たらお願いしようよ。前にマスターが作ったものを見せてもらったけど、すごく綺麗だったから、きっといいよ!」


「そ、そっか…」



それにしても。と、僕は遠くからミルで珈琲豆を挽く音が聴こえてくる中、考えていた。


このお店はヨーロッパ、特にイギリスを意識しているような風合いの伝統を感じるし、ヨーロッパでは銀食器なども有名な品だ。それを自分でも作ってみようと思ってしまうマスターは、どれだけヨーロッパの伝統を愛しているんだろう…と、僕はちょっと途方に暮れた。すごい人が居たものだ。



そんなことを考えている間に、マスターが珈琲を銀色のトレイに乗せて運んできた。僕はさっきの美鈴さんの話を聞いて、「もしかしてこれも銀なのだろうか」とちょっと考えてしまった。コーヒーカップは今日は、緑色に全体を塗られて、その上に楽器を演奏しながらも腰に剣を差した男性たちが綺麗に描かれた、不思議なものだった。


そしてカップがテーブルに置かれると、美鈴さんはマスターに意味深な調子で手招きをして、体を折り曲げたマスターの耳元に何事か囁き始める。


美鈴さんが一言一言ぶつぶつとマスターの耳に何かを入れるごとに、マスターは顔を輝かせ、僕をちらっと横目で見て思惑のありそうな顔をしたりして、美鈴さんの話が終わると、元気よく背筋を伸ばして、「いいじゃない!やらせてもらうよ!」と返事をした。


「いや~、そういうことなら頑張っちゃうなあ~。あ、そうだ、じゃあサイズを測らないとね!」


そう言ってマスターはすぐにトレイを抱えて奥へと走って行き、しばらくして二本の細長い紙テープを持って戻ってきた。


僕は話に参加していなかったけど、指環を頼んだのはわかるし、マスターに手を引かれるままに、なんとなく恥ずかしい気持ちで、左手の薬指に紙テープを巻かれ、お店のボールペンで印を付けるマスターの細い指を見ていた。


美鈴さんも僕も採寸が済むと、マスターは一応と言って話を始める。


「銀の材料費くらいだから、そこまで安いってわけじゃないけど他の費用は要らないから。僕は素人だし。それから、シンプルに平らな銀の指輪がいい?それとも、全体を叩いて凹凸を作るときらきら光って綺麗だったり、溝を掘って模様にすることもできるけど…」


マスターがそう説明すると、僕たちはちょっと迷ったけど、美鈴さんが「叩くやつ!」とにこにこしながらマスターにお願いしていた。


僕はちょっと置いてきぼりにされてはいたけど、元々は美鈴さんのためと思って指環を用意したかったんだし、喜んでいる美鈴さんを見ていて嬉しかった。

「じゃあ、できあがりは一週間くらい待ってもらえる?そしたらまた来てね」


そう言ったマスターに二人で元気に「はい!」と返事をして、僕たちはそれから、日々の楽しかった話をしたり、できあがった指環がどんなものか想像して話し合ったりなんかしていた。


その時、僕が「家で人に見られるわけにいかないから、指にはつけていられないけど、いつも首から下げることにするよ」と言うと、美鈴さんは「うん」と言って控えめに笑った。


僕が胸を痛めて美鈴さんをじっと見つめていた時、「約束、覚えてるよ」と美鈴さんは言って、コーヒーカップに口をつけた。







僕たちはその日、レガシィで待ち合わせをしていた。そして、僕が先に店に着いて珈琲を飲んでいた時、マスターは美鈴さんの話をしてくれた。マスターは懐かしそうに、でも少し淋しそうな目をしてこう話し出した。



「あの子はねえ…いつも一人で来ては、珈琲を飲みながらずっとうつむいてた。まるで、一人になりに来るためみたいに。そういう時間が欲しくて来るお客さんは多いけど、その中でもあの子は一番淋しそうで、それに、ちょっと話しかけると、元気よく答えようとして無理してるのがわかるから…見ていて心配な時もあったよ…。まあ、「ここに来られてるんだから大丈夫かな」って思ってたりもしたけどね」


「そうだったんですか…」


僕は、美鈴さんが高校までずっといじめに遭っていたという話を思い出して、ここで一人で珈琲を飲みながら、彼女が何を考えていたのか思いめぐらしていた。


僕がうつむいて考え込んでいるのをマスターは分かっていたのか、それからこんな話もしてくれた。


「うちはなぜか常連さんは、調子が悪いと来なくなって、元気になるとここに来る人が多いんだよね。それに、天気が悪い日に、みんな避難してきたみたいに集まったりして賑わうような、変な店でね。その時に、あの子もよく居るんだ。まあ、だからそこまで心配はしてなかったけど…君をここに連れてきてから、あの子は本当に元気を取り戻したみたいで、安心したよ。あの子の過去に何があったのかは話してもらってないからわからないけど、それももう拭えたみたいだね」


そう言って、マスターは僕を励ますように笑った。





「わあ~。綺麗~!」


美鈴さんもお店に来たからと、マスターが奥から、銀色の小さな丸い箱に入った指環を持ってきてくれた。楕円形の古い小さな箱にもう少し幅が大きい蓋がかぶせられているだけで、その蓋を取ると、細い紙が絡まった紙パッキンの上に、ちょこんと二つの銀色の指輪が乗っていた。



その二つの指環は、片方が少し大きめで、もう片方は小さく、どちらも全体を均一に金槌で叩いたような小さな凹みがあって、それがお店のランプを照り返して、確かな銀色できらきらと光っていた。



「すごーい!マスターこんなの作っちゃうんだあ~」


美鈴さんは小さい方の指環を手に取って高く差し上げ、光に当ててみようとしていた。僕も残った自分の指環を手に取って手のひらに乗せ、ゆらゆらと手のひらを動かして、様々に表情の変わる輝きに目を見張っていた。


「さて、それでお値段だけど」


「あ、はい」


僕はそこで慌てて財布を取り出す。その時美鈴さんも自分が持っていたポシェットに手を伸ばそうとしたけど、「僕が君にあげたいんだ」と言うと、美鈴さんは顔を赤くして席に就き、ちょっと恥ずかしそうにもじもじと待っていた。


「二万円になります~」


「はい、じゃあお願いします。ありがとうございました」


マスターはちゃんとレジにあるコイントレーを手元に用意していたので、僕がそこにお金を置くと、マスターはにこっと笑った。


「ありがとうございました、マスター」


美鈴さんもマスターにお礼を言った。僕たちはお互いに、手に持っていた指環を着けるはずだったけど、僕は家族に見られてはいけないので、首から下げることにするんだと、マスターにも話した。


「あ、じゃあちょっと待ってて。ちょうどいいものがあるから」


僕の話を聞いて、急にマスターがまた奥へ引き返していき、戻ってきた時には、ちょうどよい長さの細い革紐を手にしていた。


「これね、革細工を作るのに出た端切れから、切り取ったやつ。あげるよ。これに通したら?」


「何から何まで、すみません」


僕がそう言って頭を下げ、革紐を受け取ると、「いいのいいの、捨てるやつだったし」とマスターはにこにこして首を振った。


僕はその革紐に指環を通してきつめに端を結び、首に下げてみる。それから、やっぱりちょっと申し訳ない気持ちで美鈴さんを見た。



「いつも指につけていたいけど…」


「大丈夫、私、すごく嬉しいもん。ありがとう。馨さん」


彼女はふっくらと微笑み、薬指に輝く銀色の光に目を落として、しばらくの間見つめていた。







僕は家に着いて、ベッドの中で眠る前に、服の中にしまってあった革紐を手繰って指環を取り出し、顔の前に差し上げて眺めていた。同じものを今、美鈴さんも身に着けている。


これで少しは彼女が淋しい思いをしなければいいけど、と思っていた。


それから、自分たちの約束が形になったことに満足して、指環を服の中にしまい直し、室内の空気に冷やされていた小さな金属が、胸の上で温められていくのを感じながら、僕は眠った。







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