第18話 君の誕生日







僕たちは寒い冬の日、美鈴さんの二十歳の誕生日を祝った。それは僕たちが大学で二年次に進む少し前のことだった。


美鈴さんの誕生日は一月の四日。



父さんには、「来年は会社のことでもっと忙しくなりますよね」と聞き、「もちろんだ」と返ってきたので、「じゃあ思い出に、お正月に大学の仲間と旅行に行きたいです」と言って、「まあいいだろう」というお許しを得た。



僕たちは時には学校で会った時に、次の講義を待つ間、二人で僕のスマートフォンを覗き込み、行く道、泊まる宿、観光する場所などを二人で楽しく話し合っていた。


僕たちは、都内からそう離れても居ない、静かな旅館に一泊だけすることに決めた。





僕は美鈴さんの誕生日前日に、執事の公原さんが荷造りを手伝おうとしてくれたのを断って、小さめの黒いトランクに着替えや手回り品、それから必要になるものをあれやこれやと詰め込んだ。それから、薄い不織布でできた袋にリボンが掛けられた、少し大きめの包みも一緒に。



翌朝、僕は朝食を早く作って欲しいと頼んでおいたので階下に降りたけど、父さんは前日から帰宅していなくて、母さんは出かける身支度を整えているらしかった。


僕がトランクを引いて出ようとした時に、公原さんに「明日には帰ります」と言い残した。公原さんは、不機嫌そうにこちらを睨みながら、「お気をつけて行ってらっしゃいませ」と言っただけだった。



僕は家から解放され、美鈴さんの待つ駅まで、電車内で乗客の人たちから邪魔そうにトランクを睨みつけられながらも、二度地下鉄を乗り継いで、目的の駅前バスロータリーへと着いた。



美鈴さんと僕はトランクを積み込んだ観光地への高速バスに揺られ、途中何箇所かに停車をしてから、僕たちが降りる小さな駅の前に着いた。


夜の内にだいぶ冷えたのか、とても寒く、つんと澄んだ空気が鼻を刺すほどで、僕たちは白い息を吐きながらトランクを引いて歩き出した。


宿への道まで少しなので駅前から歩いていると、冬でも元気な草花たちが刈り込まれないまま歩道を横切ろうと伸びていたり、それから、どっしりと構えて道案内をするような背の高い木々が僕たちを迎えてくれた。


少し曇った空にもうだいぶ高くなった太陽が昇り、それは、ビルの突き刺さっていない空で悠々と深呼吸をすることで、僕たちに息吹を与えてくれた。


僕たちはすぐに山あいの道に折れ、やがて石畳の敷かれた宿の玄関口に吸い込まれていった。





旅館は静かだった。玄関の広い土間の向こうは小さめのホールになっていたけど、板張りの床の絨毯の上に大きめの籐椅子がいくつか置いてあるきりで、梁が渡された天井も低く、あとは小さなテレビが壁際にあった。


部屋に案内されるまでには五十歩も歩くことはなく、僕たちは十字路になった最初の廊下を左へ曲がり、一番奥にある、「葵の間」へ通された。


「お食事は五時から先ほどの玄関ホールを抜けまして、お風呂の先にございますレストランにお越し下さい。露天のお風呂は少し離れておりまして、ホールに出口の案内がございますので、一旦外へお出になって通路に沿って進んで頂きますとございます。それではごゆっくりと」


そう言って、僕たちを案内してきた薄桃色の着物に白い幅広の帯を締めた従業員さんは、襖を閉めた。



「いいところだね。えっと…寒いし、お風呂でも行く?」


「あ、うん、私はちょっと荷物を出してから…」


「あ、そっか。僕もそうする」


僕たちは旅館に着くまではわくわくとしていたけど、いざ好きなだけ二人きりで居られる場所に放っておかれることになった途端、少し緊張してきた。お互いにぎくしゃくとしながら荷物をほどき、スマートフォンの充電器を差すコンセントを探したり、意味もなく旅館のテレビで見られる無料の映画などを探したりしていた。


「あ、えっと…じゃあ、そろそろお風呂、かな…」


美鈴さんはなぜか真っ赤になっていて、僕もつられて頬が熱くなり、小さく「うん」と返事をしてから、洗面用具を持って二人で部屋を出た。



露天のお風呂はまだ昼間なので明るいし、別に誰が見るわけでもないけど、ちょっと恥ずかしくて行く気になれず、僕たちは普通の浴場に入る時、二つののれんの前で別れた。


冷えてしまった体をさっと温めて、僕は早めに部屋に戻り、それからさっきは取り出さなかった美鈴さんへのプレゼントの包みをトランクから出す。そうして僕は「渡す時になんて言おうかな」とちょっと考えながら、その大きめの包みを胡坐になった足の上に置いて、なんとなく顎を乗せていた。そこへ後ろから、襖を開ける音がからりと聴こえた。


「ああ~いいお湯だった~。あれ?どうしたの馨さん。それ何?」


美鈴さんはタオルで髪をまとめ上げていて、旅館の浴衣に着かえ、髪にも睫毛にも、温かい湯の雫をまとわせて、ぴかぴか潤った頬は薄紅だった。


僕も浴衣には着替えたけど、その湯上りの美鈴さんを見て急に緊張してしまって、隠しようもないくらい大きな包みを、慌てて胸の中に隠そうとする。


「なになに?なんか持ってる。大きいの」


「あ、えっと、これは…その…ぷ、プレゼント…」


僕は、まだ湯気が立っているかのようにほっぺたを透き通らせた美鈴さんに覗き込まれて、横を向いてしまった。


「えー本当!?なに!?大きい包みだね!」


「あ、うん。開けてみて…」


僕がおそるおそる包みを差し出すと、美鈴さんは「ありがとう~」と言ってにこにこしながら、包みの口を絞っているリボンを解き、袋の中に手を突っ込んだ。


「わ!なんかふわふわしてる!」


「あ、うん…その…」


僕は何も言うことができずに、「もしかして、二十歳の女性にこんなものを贈るのは失礼だったかな?」と不安になる。美鈴さんは包みからそーっとそれを取り出して、叫び声を上げた。


「やーなにこれかわいい~!クマだ~!大きい!」


それは、僕がショーウィンドウ越しに見つけた、クマのぬいぐるみだった。つぶらな黒い瞳が、ふかふかの生地にちょっとだけ埋もれて、首元には赤いリボンと鈴が下げられ、青いオーバーオールを着た、薄茶のクマ。学校から帰る途中でふと道路の向こう側を見た時に、小さな店のショーウィンドウで一番目立つ場所にこのクマは居て、それなのに誰かに置き忘れられたように、ちょっと前屈みになって僕を見つめていた。


美鈴さんは大喜びでクマを高く差し上げて、両目を輝かせていた。どうやら喜んでくれたみたいでよかった。でも、実はもっと欲しいものがあったりはしないのかな、と僕は一応美鈴さんに聞いてみることにした。


「あの…大丈夫かな、もっと欲しいものとか…」


「大丈夫!かわいい!」


僕に聞かれたことには答えてくれたけど、美鈴さんはしばらく夢中になって、クマを抱きしめたり、頬ずりをして、こちらを向いてくれないほどだった。自分で買ってあげたのに、僕はちょっとクマがうらやましい気がした。



食事の時間まで暇があるねと言って、僕たちはホールの籐椅子に掛けてテレビを観たりした。それから、つっかけを履いて旅館の庭に出て、蕾を膨らませ始めた梅の木や、少しだけ雪のかぶった松の枝、鯉が尻尾を大きく揺らして円を描いている池を覗き込んだりした。


籐椅子に座って体を捩じり、ゆったりと椅子の背に腕をもたせかける美鈴さん、梅の花が早く咲かないかなあと思っていたのか、じっと真剣に梅を見つめたまましばらくその場を動かなかった美鈴さん、鯉をよく見るためにしゃがみ込んで微笑んでいた美鈴さん。僕は彼女が見せるたくさんの表情を胸にしまった。



旅館の食事は美味しかった。色鮮やかなはじかみの付いた焼き魚や、ぴかぴかと光る新鮮なお刺身、それからその地方の銘柄牛やデザートの水ようかんを、美鈴さんは僕よりずっと早く食べ終わってしまった。僕はまだ食事を続けていたので、スプーンを手に、「ようかん、一口食べる?」と声を掛けた。


「えっ、いいの…?」


期待に満ちた目で彼女が僕を見つめるので、その口に水ようかんを一匙入れてあげた。


「んー、やっぱりおいしい~」


「ふふ、よかった」




食後に少しゆったりとくつろいでから、露天のお風呂に行ってみようということになり、僕たちはまたシャンプーセットなんかを持って部屋を出る。ホールの出口にあった「露天風呂 こちらにございます」の張り紙の通りにカラリとガラス戸を開けて寒い外に出る。足元の行灯の灯りを頼りに古い飛び石を進むと、これまた古い木の門があって、そこに紺色ののれんが下げられていた。


「楽しみだね」


「うん、じゃあ」



いいところなのに、お客さんが少ないのはもったいないなあ。僕はそう思いながら、石造りの湯舟の中、熱い湯が出て来る口のなるべく遠いところで温まっていた。


温泉にざぶざぶと新しいお湯が注ぎ込む音の中で、微かに、遠くから誰かが風呂の湯をすくって、それから体に掛けてざばーっと石の床をお湯が打つ音が聴こえてくる。僕はそれに耳をそばだてようとしてしまい、慌てて俯いてお湯に目を落とすと、ゆらゆら波打つ温泉の中に、白い灯りが波打ってぷかぷか浮かんでいるのが見えた。


僕が上を見上げると、鼠色の木綿で覆ったような広い曇り空の中、月がある場所だけがぼんやりと乳白色に照らされて、時々雲が断ち切れると、ちらっと空は明るくなり、月の肌にある影が見えた。


「わあ…」


裸のまま月を眺めて、その月がそのまま遥かから落っこちてくるお湯に浸かっているなんて、なんだか素敵だ。お湯を出たら美鈴さんにこの話をしようと思ったけど、もったいない気がして、僕はしばらくお湯から出なかった。







その夜、僕は宿の布団の中で美鈴さんの隣に寝転び、こんな話をした。窓の外から風の音がしていて、小さな囁き声が温かい布団に隠されていた。


「もしかしたらさ、二人でゆっくりする時間が、これから先はほとんど取れないかもしれない。だから、余計に、ちゃんと祝ってあげたかった」


「うん、ありがとう」


美鈴さんは布団の中で、僕の腕を優しく撫でる。彼女からは、洗い髪を乾かしたばかりの温かそうなシャンプーの香りがした。


「それから…卒業して、会社に入社して、研修が済んだら…僕はしばらく日本を離れることになる」


これは実は前々から父さんに言い渡されていたことだけど、美鈴さんに言うのは初めてだった。美鈴さんは僕の言葉を聞いて、ちょっと布団の中でうつむいた。


「…そうなんだ」


返ってきた彼女の声は少しか細く、でもわかってくれるのか、震えてはいなかった。


「事業を学ぶには、それが必要なんだ」


「うん」


「でも、その期間は家族に聴かれる心配もないから、毎晩電話するよ」


僕はそれを言ってから、彼女の頭をゆっくり撫でて、少し自分の胸に引き寄せる。布団との衣擦れの音がやけに大きく聴こえて、それから、温まった彼女の柔らかい肌、頼りなく小さな肩を抱え、今はもうぎゅっと抱きしめることができた。


「二十歳、おめでとう」


そう言って美鈴さんの顔を覗き込むと、彼女は幸福そうに見えた。静かで優しいこの時間が長続きしないことが切なかったから、彼女の表情を推し量ろうとしたけど、美鈴さんの瞳は酔いしれたまま、ゆらゆらと揺らめいていた。


「ありがとう」


美鈴さんはそれから嬉しそうに笑って、布団の中から、クマのぬいぐるみをぴょこっと覗かせた。


「あっ…今、写真撮ってもいい?」


僕は、布団に包まれてテディベアを抱きしめる美鈴さんを、写しておきたかった。


「えっ、いいけど…ちょ、ちょっと待ってね」


そう言いながら美鈴さんは、女の子らしく、慌てて手櫛で髪を整え始める。それから、少しはだけていた浴衣の前を合わせて、僕がスマートフォンを取りに行っている間に、彼女は布団に肘をついて半分だけ起き上がっていた。


僕は美鈴さんの隣へと戻って二人でテディベアを抱えると、一緒に写真を撮った。それをすぐに見直して、「これもプリントしに行こうかな。僕が向こうに持って行きたいし」と僕がつぶやくと、美鈴さんは、静かに「うん」とだけ返事をして、テディベアに抱き着いたまま、そのうちに眠ってしまい、僕も隣で眠った。





翌朝、旅館を出た僕たちは、二人で近くにある滝を見に行った。



「すごーい!凍ってる!」


美鈴さんは滝を見て指を指してから、僕を何度も振り返る。



そこは駅前から出るバスに乗って少しのところで、だんだんと道路は険しい山に飲み込まれ、バス停を降りて展望台のような場所に上ると、目の前に緑に抱えられた大きな滝が現れる、その土地の観光名所だった。


辺りはとても寒く、そこにある荘厳な滝は、確かに全面がぴたりと凍り付いていた。幾筋も通る水の流れが、誰かの命令によって急に眠らされてしまったように白く濁って、じっとり押し黙っている。寒すぎて凍るんだということが頭でわかっていても、本当にそれを見た僕の心には、不思議の念が起こるのだった。


「すごいね…ほんとに凍るんだ…」


僕はびっくりしてそのまま突っ立っていたけど、美鈴さんは滝の手前で手招きして、僕たちは滝を背負うように写真を撮った。


それから僕たちはその眺めを堪能してから、近くにあった土産物屋に入り、美鈴さんはキーホルダーを、僕は一応家人のために最中の詰め合わせを買った。




もう一度予約していた高速バスに途中から乗り、僕たちは物言わぬ人ごみと砕かれた石で作られた街へと帰っていく。道の駅に停まった時に美鈴さんは大きな肉まんを二つ買って食べ、僕は小さめのお弁当を買って食べた。


そうして食後に少し話をする内に、もう終点へと着いてしまった。懐かしい喧騒と、排気ガスが溶けて何かがくすぶっているような空気にどこかほっとしながら、僕たちは荷物を下ろして地下鉄へと移った。


「楽しかったね」


「うん」


僕たちは地下鉄の中で、角にある二つの座席に座っていた。美鈴さんは一番角にある低めの座席の壁に寄りかかっている。



彼女は少しうつむき加減で、髪の毛で顔が隠れてよく見えない。僕がそれを覗き込もうとした時。


「わっ…!」


急に僕の肩に美鈴さんはぶつかるように抱き着いてきたので、僕はちょっと驚いて声を上げてしまった。電車内に居た人たちはみんな、何事かと驚いてこちらを見ている。



彼女は、僕の背中の半分に必死に片手をしがみつかせて、僕のコートの肩口に両目を押しつけ、泣き始めた。


「…やっぱり、泣かせてしまった。」そう思って僕は、「自分は間違っているんじゃないのか」と、また不安になってうつむく。でも、彼女を安心させてあげないと。



「美鈴さん…」


電車内に居た人たちは、美鈴さんが急に僕に抱き着いた時に一瞬僕たちに目をくれたけど、特に関わりもないからと、もうスマートフォンや本などに目を戻した後だった。


僕は美鈴さんの髪と背中を撫で、落ち着けるようにと背中を優しく叩く。でも、そうしていることが気休めにしかならないのだという事実が、とても辛い。


どんなに僕が悲しみを拭おうとしても、原因を作っているのは僕なのだから。


僕が今何を言っても、彼女の心は粉々になってしまうのではないか。このまま彼女を引き留めていてはいけないのではないか。そう思う気持ちが僕に迫ってくるのに、僕は「彼女を苦しませないうちに別れよう」なんて、ちらとも浮かばなかった。だって僕には、彼女が、美鈴さんが必要なんだ。



もう僕は、彼女の支えを失くしたとしたら、自分の人生に見出せる価値なんかなくなってしまう。そのことを考えると、その時に自分が一体どうなっているのかがわからなくて、恐ろしくて堪らなくなってしまう。



わがままと言われても、僕はもう彼女を手放すことは考えられなかった。それでも、彼女の痛みが心に流れ込んでくる。僕にひしと抱き着いて震える腕、ぼんやりと温かく湿っていくような僕の肩、それから彼女が息を潜めながらも切れ切れに漏らす苦しそうな泣き声。その全部が僕に強い罪悪感として、自分の痛みとしても、重く圧し掛かる。


彼女はしばらく声を殺して泣いていたけど、やがてよろよろと顔を上げると、それはどこか怒っているように見えた。でも、真剣に怒っているというよりは、拗ねて怒っているようだった。


「美鈴さん?怒ってる…?」


「……」


彼女は何事かを小さくつぶやいたけど、電車内に響く音でそれは聴こえなかった。


「え?何?」


すると美鈴さんは泣いた後の目元をゴシゴシと勢いよく拭って、僕をちょっと睨みつけた。彼女はもう元気を取り戻していて、それはどこか奮起するような表情だった。そうして彼女が大きく息を吸う。



「大丈夫。私、待てる!」



美鈴さんはそう言った後で、自分を勇気づけるためか、両の拳を握りしめ、必死に僕を見つめて口元に力を入れ、ぎゅっと唇を閉じていた。



僕は彼女に感謝した。何もない僕のために、こんなにも必死になって待っていてくれるなら、僕はなんでもできるだろうと思った。



彼女がちょっとだけ大きい声を出したので、また僕たち二人に人目が集まったけど、今はこうするのが必要かなと思って、僕は彼女を抱きしめた。それから、僕の口からあたたかい気持ちが流れ出す。



「大丈夫、どうしても待てなかったら、君のとこに行くから。ありがとう、美鈴さん」



嘘じゃない。多分僕は、本当にそうする。








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