第16話 決意とごまかしきれない恥ずかしさ







「馨!早くしなさい!いつまでグズグズしているんだ!」


「はいただいま!」


僕はその日、朝早くに起きたので体調が良くなく、支度に手間取っていて家を出るのが遅れてしまった。それに父さんは激怒し、「時間も守れない奴は社長どころか入社すらさせる気はない!よく覚えておけ!」と車に乗ってから僕を怒鳴りつけた。


でも、僕はそれを聴きはしても、あまり怖がらず、「体調管理をしなくちゃ」と思うようになっていた。



そしてこの日、もっと大きな決意に僕は出会うことになる。





工場視察に行く父さんについていくことになっていたけど、製鉄所は沿岸に位置しているので、作業員たちが出勤してくる時間に合わせるには、かなり朝早く出なければならない。


僕は朝食を食べる時間がなくて、移動中の車で、おなかを鳴らしてしまった。それで父さんの手前、窓の外を見やってごまかそうとしたが、高速道路を降りて湾岸を走る道に抜ける前、父さんがちょっと笑って「ダッシュボードを開けてくれ」と言ってきた。


「は、はい…」


大きめのゆったりしたダッシュボードを開けると、メロンパンが二つ入っていた。僕はきょとんとしてしまい、「これを出すんですか?」と手に取って、一つを父さんに渡した。まさかメロンパンを二つ食べるだろうとは思わないし。


「悪いが封を開けてくれ。それと、もう一つはお前のものだ。食べなさい」


「えっ、ありがとうございます…」


「何、私も鬼じゃない。食事の時間が取れるかくらい、見計らうさ」


僕がちょっと怯えていたことに気づいたのか、父さんは僕の肩を叩いて笑った。僕はそれで少し安心して、父さんの分の袋を開け、自分もメロンパンを食べた。


甘くて美味しく、それは十分空腹を満たしてくれた。


「社長というのはな、馨。自分の生活に取れる時間は極端に少ない。だが、生活を疎かにするな。必ず仕事が疎かになる」


「は、はい!」



僕たちは朝日が昇り、明るい光の差す海を左手に見て、遠くにある、煙を上げている煙突が何本も突き刺さった灰色の工場を目指していった。





「まずは点呼、それからその日の目標を明確にして、決められた作業の確認をしてからみんな作業に入る。私たちは工場長について各作業所を回るから、お前は安全に注意して、良く現場を見ておきなさい」


「はい」



工場の制服に着替えて父さんと工場長さんの居る製鉄所の奥に案内されている間、僕は何度も度肝を抜かれた。


そこらじゅうがちょっと触るだけで危険な機械だらけだ。機械たちはガシャガシャと大きな音を立てながら、工場の灯り取りの窓から降り注ぐ朝日をビカビカと照り返している。そこらじゅうで火花が散り、溶かされた鉄は、まるで真っ赤な揚げ油のように、ゆらゆらと型の中に流し込まれていった。



やがて「高炉」と呼ばれる機械の前にたどり着き、工場長さんはそこから鉄を取り出す仕組みを説明したり、それにかかる原料の重さなど、稼働に何が必要なのかを教えてくれた。


工場長さんが説明している時、僕たちは高炉の中を覗き込む窓の近くに居た。


工場長さんの話が終わったので、僕がその窓に近づいてみようとすると、先に窓の中を覗き込んでいた作業員さんが、こちらを見もせずに、手で僕を制止した。


その作業員さんは、窓の近くの手すりにもたれて、暑そうに作業服をパタパタと煽ると、ヘルメットを額の上に持ち上げながら、「作業中だ、邪魔しないでくれ」と、短く言った。


僕はその人から感じた、気難しい職人のような気迫に押されてしまい、一歩下がって父さんを振り向くと、父さんが声を殺して肩を震わせ、口元を押さえて笑っているのを見た。


父さんは僕も見ずに、笑うのをやめてから、その作業員さんに近づいていく。


「相変わらずだね、清さん」


父さんがそう口にすると、高炉の中をひたすら睨んでいた作業員さんが急に振り返り、「社長!」と喜んで笑顔になった。


「あんたが来てるなら、言って下さいよ!」


そう言って、清さんと言われた人は気恥ずかしそうに笑いだし、父さんも笑った。


「いやいや、邪魔されるのは好きじゃないでしょう。それに、この火の見極めは、清さんを含めて五人しかできないからね。今日は清さんだけ?」


「いや、田中も居ますよ。他の三人は今頃はまだ布団の中でさぁ。いい気なもんで」


「まあまあ。じゃあ作業に戻ってくれて結構だ。頼んだよ」


「任せて下さいよ」


そう言ってもう一度火の中を見つめようとした「清さん」は、慌てて僕に向き直った。


「よう息子、悪かったね。お前もがんばんなよ!」



「…は、はい!」





僕は、父さんと「清さん」が朗らかに話して、互いの仕事を尊重し合っているように見える様子に、少なからず感動し、身震いしながら工場を出た。父さんも帰る道々、まるで旧友と話し合ってきた後のように微笑んでいた。


そして帰りの車の中で、父さんは今度はこう言った。


「馨、末端の社員のためには社長は何をすべきだと思う?」


僕は急にとても大きな質問をされたので、しばらく考え込んでいた。すると、じれったくなったのか、父さんは先を続ける。


「…給与の保証も大事だろう。このような危険で過酷な作業現場なら、安全管理対策や、雇用環境の改善も大事だ。でも、それよりなにより、きちんと社員の働きに向き合い、感謝する気持ちが一番大事なんだ。その思いがあるからこそ、その前に言ったようなことを実現しようと、社長は躍起になる」


僕はそれを聴いて、胸がふくらむような喜びが湧き上がった。そして同時に、「清さん」がくれた激励も胸に蘇る。



「今日は、良い日になっただろう?」



父さんはそう満足そうに言って、僕を振り返る。それはいつもの厳しく責めるような目ではなく、仕事の喜びを僕に教えてくれる、優しい色をしていた。



「はい、とても。ありがとうございます」









新学期が始まり、僕はまた学校へと通うようになった。でも、最初の数日、美鈴さんは学校に来なかった。


僕は学校が始まった二日目に美鈴さんにメッセージを送って、様子を聞こうとしたけど、返信はなかった。


美鈴さんの身に何かあったのかと、気が気でない三日目の次の日、僕が学校から帰宅して勉強をしていると、スマートフォンがベッドの脇で小さく小刻みに震えて、その回数で美鈴さんからの返信を知った僕は、慌てて勉強机を離れてベッドに駆け寄った。


SNSアプリのメッセージ画面を開くと、書いてあったのはこんなようなことだった。



“返信遅くなってごめんね。実はちょっと体調を崩して熱が出ていたから、しばらく起き上がれなかったの。”


その文言のあとに、「ごめんなさい」とあやまるカエルのスタンプが送られてきたけど、僕はこう書き送った。


“返信は気にすることないよ。熱が出ていたって大丈夫?高い熱だったの?”


“うん。ちょっと、疲れすぎちゃったのかな。夏風邪は酷くなるって、本当なんだね。”


“疲れすぎたって、勉強のしすぎ?”


“それもあるけど、並行していつもアルバイトしてるから、夏休み中に勉強を頑張ろうとしたのもあって、ちょっと疲れがたまってたんだと思う”



アルバイト?そういえば美鈴さんから生活費のことは聞いたことがなかったけど、彼女は今でも自分の生活費や学費を自分で稼いでいるのかと思って、また頭が下がる思いがしたし、どんなアルバイトなのかが気になった。そんなに大変なものなのだろうか?



それに、一日中家で勉強をしているんだろう美鈴さんが、アルバイトをしに出かけていくのも想像しづらかった。



“アルバイトってどんな仕事をしてるの?”


“テープ起こしだよ。録音されたものを、テキストファイルに書き起こすの。実はね、私、けっこうベテランだから、お給料が良い方なんだ。”



僕は少しほっとした。もし美鈴さんのしている仕事が辛いものだったらどうしようと、不安だったからだ。


“そうなんだ。すごいね。でも、あまり無理しないでね。今は体の具合は?”


“まだ少しだるいんだけど、明日は学校に行けそうかな。”


“そっか。じゃあ明日学校で待ってるけど。無理そうなら家で休むんだよ。”


“うん。ありがとう”


“今晩ももう遅いから、寝るかな?”


“そうだね、やっと返信を返せたところだけど、そろそろ眠いかも。”


“じゃあ、これでおやすみ。ゆっくり寝てね”


“ありがと。じゃあおやすみなさい”





僕はスマートフォンのメッセージ画面をぼーっと見ながらベッドに横になり、やがて画面が自然と暗くなってスリープモードになるまで、そのままだった。


無力感を感じていた。



僕は夜に家を出ることはできない。必ず家の誰かに見咎められて、どこへ行くのか聞かれるし、深夜の外出を止められるだろう。だから疲れた彼女を慰めに、彼女の世話をしに、出かけてゆくこともできない。


彼女に助けが必要な時にさえ、僕は傍に居るだけのこともできない。


それで彼女は悲しまないだろうか?苦労だと思わないだろうか?


答えははっきりしている。この間僕は、泣いている彼女を抱きしめていたんだから。


自分にやるべきことがあるのも、彼女とのことを認めてもらうにはそれを先にやらなければならないことも、もう承知したはずだった。



僕はぼやけた両目をベッドの天蓋へと向けて、ごろりと横になった。そこには、美鈴さんの泣いている顔が浮かぶ。僕はそれを打ち消そうとは望まなかった。



これから、何度となく彼女にこんなことが降り掛かるだろう。僕も彼女の傍に居られないさみしさを味わい続けるだろう。本当に、そんなことでいいのだろうか?


彼女をいつか幸せにしたいと思っているのに、今、悲しませていていいのだろうか?



僕はその時に決めた。



「美鈴さんに会えたら、必ず愛していることを伝えよう。何度でも。必ず会える日を作ろう。それから僕は、早く成長するため、努力しよう。それは美鈴さんのためでもあり、自分のためでも、仕事のためでもある。」



僕の体の中で、それまで見てきた出来事がだんだんとまとめ上げられていき、おなかの底にふつふつと力が湧いて来るのを感じていた。壁に掛けられた振り子時計を振り返ると、十一時四十二分だった。


“僕には時間はいくらあっても足りないんだ。”


そう思ってベッドに起き直ると、僕は立ち上がって勉強机に戻り、そのまま勉強を続けた。





翌朝は少し眠かったけど、いつもより早く学校に行くようにした。学生ホールで円形の大きなソファに腰掛けて、僕は教科書を読んでいた。


学生ホールは建物の角にあるので、二面がガラス張りだ。ホール中央には僕が座っている円形ソファがあり、ソファの真ん中には大きな観葉植物が植えられている。それから、丸いテーブルに三つ四つほどの椅子が据えられたセットが点々と並べられ、ガラス面の反対にあるホール入口の横には、パンや菓子、ジュースの自動販売機があった。


僕の掛けているソファの中心から伸びている緑の大きな葉は、ゆったりと影を落とし、生徒達は欠伸をしながら自動販売機でパンを買ったりジュースを買ったりして、あまりソファや椅子に掛けて居ようというのんびりした人は少ないけど、窓際にあるテーブルに就いてレポート用紙を広げている生徒や、壁にもたれて友達を待っている風でスマートフォンを片手に、これまた欠伸をしている生徒もちらほらと居た。


あたりはざわついているという風でもないけど、朝の忙しい時間帯だからか、そう静かでもなく、足音やちょっとした話し声も聴こえていた。


そこに、コツコツと、聴き慣れた足音がゆったり絨毯に吸い取られて、柔らかく僕の耳に響く。僕が顔を上げると、こちらに駆けてくる美鈴さんが居た。僕はゆっくり立ち上がる。


「おはよう」


「おはよう。体はもういいの?」


「うん。今朝は食欲もあったし、平気だよ!」


美鈴さんは朝の日光だけのおかげでもなく、顔色も良くて、僕は少し安心した。彼女はいつも通りに笑っているようだった。



でも僕はその時、小さなことに気づいた。



美鈴さんは、僕と会ったばかりの頃は、「真面目な大学生」らしく、いつも真剣な顔をしていたように思う。でも、僕と過ごして、僕と話をする回数が増えていくごとに、美鈴さんは、僕を見るとすぐに笑ってくれるようになった。



前に美鈴さんと学生ホールで会っていた頃、彼女はにこっと笑うくらいだったけど、今は子どもがはしゃぐように、素直な笑顔を僕に向けてくれる。



少し前に学食で起きた事件と、彼女から聞いた話を思い出して、僕は、「もしかしたら、僕は彼女の支えになれているかもしれない」と思えた。



「…どうしたの?」


美鈴さんは、僕が黙り込んでいるので、鞄を持った両手を後ろに回して、体ごと動かして僕の顔を覗き込んだ。


ほら、こんなに彼女の心は軽やかになった。


出会ったばかりの彼女の、少し張り詰めた空気をまとった体の動きを思い出して、僕は安心した。


「いや、美鈴さん、すごくよく笑うようになったなと思って」


「え?そ、そうかな?」


彼女は恥ずかしそうにあたふたとしているけど、それも始めの頃はとても見られなかった顔だ。僕は大学の中ではあるけど、これくらい許されるだろうと思って、一瞬だけ、彼女の頭に手を乗せ、髪を撫でてからすぐに腕を下ろした。


「うん。それに、いろんな顔を見せてくれるようになったよ。僕、うれしいな」


僕がそう言うと、美鈴さんは訳知り顔になって、ちょこちょこと爪先で僕に近づく。


「それは、馨さんも同じだよ」


「えっ?そ、そうかな…僕、変な顔してたりする…?」


そう言って僕が片手で頭を掻くと、美鈴さんは堪え切れなかったのか、ちょっとふきだした。


「そういう顔。あわてんぼで、変だけど、好き」


愛おしいものを見るような、そんな三日月型の目で微笑んで、両手を後ろに組んでちょっと美鈴さんは背伸びをする。そうして僕を見つめる美鈴さんを見て、僕は急に周りの目が気になった。


きょろきょろと辺りを見回すとたくさんの学生が居て、そのうちの何人かと目が合っただけで、余計に僕は、「自分たちのことを悟られているのではないか」と焦ってしまう。


「み、美鈴さん…!そういう顔は、二人きりの時だけにして…!あの、ここだと…!」


僕が必死にそう言って美鈴さんを説得しようとすると、美鈴さんはちょっとため息を吐いた。


「そういうところは変わらないんだから…まあ、シャイなのも、好きなとこだけどねー」


ちょっと唇をとんがらせ、美鈴さんは残念そうに横を向く。それはコミカルな表情で、本当は笑ってくれているとわかった。


「あ、えっと、ごめん…」


なんとなくあやまってしまうと、美鈴さんはぱっと不満そうな顔をやめ、僕の右手を取る。



「久しぶりの、馨さんの手。やっぱり、あったかいね」


「あ、う、うん…」



さっき僕は、周りの生徒に関係を悟られるようなことは、と止めたけど、実際に彼女に触れてしまうと、そんなことは忘れてしまった。



小さな美鈴さんの手のひらには、確かに彼女の体温があった。僕は、それを守ると決めたことを思い出して、無意識に強く手を握る。



そうだ、彼女に言わないと。



「馨さん…?」



「昨日…体調を崩していたのに、会いに行けなくてごめん」


「あ…」


美鈴さんは、僕がそう言うと、少しうつむいた。多分、昨晩は僕のことを気遣ってくれて、本当の気持ちを僕に言うのを堪えていたことを思い出したんだろう。


「僕は、君がさみしいだろうと思った。会いに行けないのが、悔しかった」


「馨さん…」


僕が素直に口にしたことに、彼女は驚いているようだった。そうだ、言わないと伝わらないことばかりなんだ。



でも、もし、いつでも伝えられるものがあったら…。



僕はそう思って、急にあることを思いつき、思わず「あっ!」と叫んでしまった。


「えっ、ど、どうしたの?」


僕が大声で叫んだので、美鈴さんはびっくりしてちょっと身を引いた。でも僕は自分の思いつきに興奮してしまって、そのまま美鈴さんのもう片方の手も握って、止まらず喋り続けた。



「そうだよ美鈴さん!指環を作りに行こう!」



そう叫んだ僕の声で、学生ホール全体が、たった一瞬だけど、ふっつりとテレビを消したように静まり返った。


「あっ…!」



とんでもないことをとんでもない所で叫んじゃった!



そう思って僕が急いで辺りを窺うと、今度はちょっと目が合うだけではなくて、僕たち二人に注がれる、はっきりとした注視が何人分も見て取れた。


ぎょっとしている人、にまにまと面白そうに見ている人、呆れているらしい人…。


僕は顔から火が出そうになり、そのままそろりそろりと、元々座っていたベンチに小さく縮こまって座り込んでしまった。美鈴さんも真っ赤になっていたけど、とりあえずは僕の隣に腰掛けてくれた。


「えーっと…仕方ないって。思いついたの、本当に今だったんでしょ?」


「うん…ごめん…」


僕はもう自分の顔をここで晒しているのが恥ずかしくて堪らなくて、両手で顔を覆って俯くしかやることがなかった。美鈴さんが僕を慰めようと、ふふふ、と嬉しそうに笑う声が聴こえる。


「私だって恥ずかしかったけど…うん。うれしいよ。行こうよ」


「うん…」


「じゃあほら、講義に遅れちゃうから、もう行こ?」



僕はその場から動くこともできなくなっていたので、立ち上がる時には美鈴さんに手を引っ張られていた。








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