第15話 隠された部屋







僕が「思い出のアルバムを作ろう」とメッセージを送って、美鈴さんはそれに賛成してくれたので、朝になったら一緒にカメラ店に行こうと決めた。幸い、翌日には父さんと出かけたりする予定はなかった。三日後には、「工場に行くからついてきなさい」と、父さんには言われていたけど。





翌朝僕が目を覚まして出かける服を選んでいると、部屋のドアから規則正しい三回のノック音が聴こえて、「失礼致します」と言って公原さんが入ってきた。


「おはようございます、公原さん」


「おはようございます。ご当主からの伝言を昨晩預かりましたので、お伝えに参りました」


僕はドキッとした。まさか当日になってから、一緒に出掛ける予定でも伝えられるのだろうかと思ったからだ。


でも、公原さんは黒のスーツの両襟を手で直しながら、「お出かけですか」と僕に聞いた。僕はその時、ちら、と負けん気のような気持ちが湧いた。



公原さんは、多分僕がお付き合いをしている女性が居るということに気づいているのだろう。そして、それが気に入らないらしい。今も、険しい表情で目を細めて、僕をじとっと見つめている。



「そうです。知り合いと出かけるので、その支度を」


そう僕が言ってみると、公原さんは、興味深げな、すべて承知しているような顔をして黙って頷いた。それに僕は思わず少し怒りが湧いて、公原さんを挑発してみたくなり、こう話を切り出した。


「公原さんは父さんを信用していると思うけど、僕が「黙っていて下さい」と言っても、聞いてくれるんでしょう?」


僕がそう言って微笑んだのを見て公原さんは少し驚いたようだったけど、さほど慌てる風もなく、腕に巻いた銀色の時計を一度引き寄せて見ていた。


「もちろんそうします。ですが若様、それが最善の道とは言い兼ねます」


涼しい顔でそう言ってのけた公原さんは、笑いはしないけど、この会話が嫌そうだというわけでもなかった。ならば僕は、公原さんとの会話から、父さんを説得する策を読み取れないかという、勇気が湧く。


「今喋ったら、父さんは僕たちを引き離すでしょう」


僕が、「恋人が居る」という話を持ち出して確認しなくても、公原さんは元のように眉一つ動かさなかった。


「それは若様のお言葉次第とも言えますし、もっと言わせて頂くならば、生活次第でもあります」


それは暗に僕の生活態度をたしなめる言葉だったけど、それより何より、僕が何をしても父さんの気に入るようにはならないということが、公原さんにはわからないのかと僕は少し憤りそうになった。


「…僕が何か言う権利なんかありませんよ、この家では」


僕がそう言った時、自分が、自分から動いて説得するのではなく、許してもらえないことに拗ねることしかしていないのではないかと、自分への疑問を抱いた。目の前の公原さんは、注意深く細めたままの目の光を僕に注いでいる。



しばらく公原さんは何かを考えていたが、もしかしたら、自分が僕の力になるべきかどうかを考えていたのかもしれない。ややあって、こう言った。



「ご当主を説得したくば、やるべきことがきちんと出来るのだと言えるようなお方におなりなさい」



厳しい目が僕に向けられ、そのプレッシャーに堪えようと僕は下を向かずに、公原さんをもはや睨むような目で見つめていた。



「会社で、成功しろということですか」



切羽詰まった空気を感じているのは僕だけのようだったけど、公原さんも真剣な眼差しで僕を見据えていた。



「それもありますが、言われるまで何も気づかないお方を、ご当主はお認めになりませんよ」



「わかりました…」



僕は不安と、不甲斐なさを抱え、少し弱気になりかけていた。そこへ公原さんは、さらに追い打ちを掛けた。



「若様は、今どうするべきでしょうか?」



そう言った時の公原さんは、本当なら微笑んでいたのかもしれない。でも、僕は急にそんなことを言われて焦ってしまったので、公原さんを注意して見つめていることはできなかった。


「…それは…」



僕がしどろもどろになっている様子を、公原さんは大げさにゆっくりと二度三度頷いて眺めている。僕がまだまだ子どもであるのだと言いたげだ。



「…ご当主のなさる事を、もう少しお勉強になった方がよろしいでしょう。ご当主からのご伝言は、「三日後の工場視察は朝五時の起床になるから、前日は早寝をしておくように」とのことです。それでは失礼致します」




公原さんはさっと一礼して、すぐに僕の部屋を出て行った。僕はベッドの上に出していた着替えに目をやって、不安な気持ちを抱えていたけど、頭を振って着替えに取り掛かった。









僕たちは前の日に決めていた美鈴さんの家の最寄り駅で待ち合わせていた。今度は僕より先に美鈴さんがそこに居て、僕は時間通り十時には着いたけど、きょろきょろと辺りを見渡しながら僕を探している彼女の目に留まりやすいように、片手を頭の上で振った。


じれったい気持ちで改札を抜けて、彼女の元に駆け寄る。


「お待たせ、美鈴さん」


「うん、久しぶり」


美鈴さんはいつも通り微笑んで、「カメラ屋さん、少し遠いから」と言って歩き出す。




その日の美鈴さんは薄い生地で作られた褪せたようなモスグリーンのプリントTシャツをひらひらとなびかせ、幅の広めなデニムジーンズを履いていた。足元はいつか見た、細い紐で幾重にも足を絡め取るようなサンダルだ。デニムジーンズは、美鈴さんのきびきびしてテンポの良い歩き方にとてもよく合っていて、こういうのも似合うんだなと僕は新しい発見をしていた。


それから、美鈴さんは小さなカンカン帽のような帽子をかぶっていて、それには幅が広い青紫のリボンがぐるりと回してあった。可愛い。


「暑いね」


「うん」




外に出ると僕は日光に目が眩んだけど、美鈴さんは帽子のツバの影を、唇の上くらいまで落としていて、強い日光で濃い影が差した美鈴さんの目元に、僕はちらっと悲しそうな影を見たような気がした。それで、口を開かずにはいられなかったのかもしれない。


「今朝さ…家の、執事と話したんだ」


「執事さん、いるんだ」


美鈴さんはちょっと驚いていたようだけど、僕は構わず先を続ける。


「うん。家に長く居る人で。多分、父さんのことを良く知ってる。だから、僕聞いたんだ。「どうすれば認めてもらえるか」って。ぼやかしてだけどね。」

「…そしたら…?」


僕が途中で言葉を切って考えていたので、美鈴さんは不安げにちょっと歩道の中で距離を詰めて、僕に近寄ってきた。僕は彼女の手を取る。


「うん、「何をすべきか言われなくてもわかるようになれ、父さんを見てそれを学んで、「やるべきことをやってる」って言えるようになれ」って言われた」


「そう…」


美鈴さんはまだちょっと不安そうで下を向いてしまいそうになったけど、大きく顔を上げて僕を見つめて、目を見開いて光らせる。


「馨さんなら大丈夫だよ!きっとできる!」


「うん、やってみるつもり。上手くいかなきゃ、会社も良くなくなっちゃうしね」


僕はそこでふっと、「責任」という言葉が胸に湧く。不意に苦しくなる気持ちを必死に跳ね返して涼しい顔を作った。それでも、美鈴さんに嘘は吐きたくなかったんだ。


僕は少し歩みを緩めて、彼女の手をきゅっと握る。


「…不安な気持ちがあるんだ」


僕がそう口に出すと、美鈴さんは頬を弾き飛ばされたようにこちらを見る。僕はそれでも歩いている前を見ていた。


「でもそれは、大変なことだとわかっていれば当たり前に湧いてくるものだと思う。だから、まだ何もしないうちに不安で逃げ腰になんかなりたくないし、とにかく父さんに仕事についての教えを乞うよ。自分でも、学校でも会社でも勉強がしたい。大きく成長しなきゃならないんだ」


そうして美鈴さんを見て笑って見せると、美鈴さんは嬉しそうに、満足そうに微笑んでくれた。


「うん…」





少し長く歩くと、大きくも小さくもない、カメラの店に着いた。


店内に入ってすぐの脇にあったセルフプリントの機械の前で、僕たちは一人ずつスマートフォンを機械に繋げた。


二人で決めていた、「自分たちに関わる写真は全部」という目的の元、それらすべてを見つけては画面上でタップして選んで、プリントアウトの「決定・印刷」のボタンを押した。



それでも枚数は少なかったので、カメラ屋の店内で販売していた中で、一番ページ数の少ないポケットアルバムと、それからフォトスタンドを一つ買って店を出た。



僕は先に店を出た美鈴さんについて自動ドアをくぐったけど、美鈴さんはお店のドアの前で立ち止まって、こちらを振り向きもしなかった。前を回って彼女の顔を覗き込んだ時、彼女はぽつっと、「うちで、アルバム作ろ…?」と、僕を見ないで言った。


「うん、そうしよう」







僕たちが無言で美鈴さんの家を目指している間、「これからあまり会えなくなることで、余計に寂しい思いをするのは美鈴さんかもしれない」と思った。だから、美鈴さんにどうしても聞きたいことがあったけど、それが彼女に嫌がられるかもしれないと思うと聞けなかったし、道端で口にできることでもなかった。





「入って」


褪せた黄色の小さなアパートに着いて、あの錆びた階段を上り、僕たちは美鈴さんの部屋に入っていった。



部屋の様子はさほど変わっていなくて、でも、机の上に勉強道具が投げ出されて広げられたままだったのが目についた。


「あ、ごめん、それ、今朝からずっとやってて…」


「そうだったんだ」


すると、美鈴さんは何かを言おうとしてちょっとうつむいたけど、僕に座るように勧めてから、この間と同じように僕の前に座って、言い出しにくそうにもじもじとしていた。


「どうしたの?学校の勉強、大変なの?」


僕がそう言うと、美鈴さんは首を振ってから、テーブルの下できっちりと正座をした膝の間に両手を置いて、ちょっと肩に力を入れて持ち上げるようにし、僕を見つめた。



「私、教授になるの。なりたいと思ってる。今の大学で」



そう言った彼女は、まるでそれを僕に頼み込んでいるように、懸命に僕を見つめていた。力強い瞳の表情は、ちょっと暗い美鈴さんの部屋の中で、決意の強さにある影を、くっきりと濃くする。


「…そうなんだ。応援するよ。美鈴さんになら、できる」


さっき自分がもらった言葉を、僕は本当の気持ちで返した。


「ありがとう。だから…実は私も、忙しくなるんだけどね」


そう言って美鈴さんはちょっとおかしそうに笑う。それから僕たちはカメラ屋の袋を開けて、アルバムを作りに掛かった。





「一緒に行ったイタリアンのピザ、やっぱり美味しかったよね」


「シェフも良い人だったでしょ?」


「あ、うん…「彼氏」ってすぐに見抜かれちゃったのは、恥ずかしかったけど…」


「普通、ああいう時に二人きりだったら、わかるよ」


「そうなんだ…」


そう言いながら僕は頬を掻き、レストランで美鈴さんが撮った写真を、アルバムに何枚か差す。




「この美鈴さん可愛い」


「そうかな…」


「水着姿の僕ってなんか間抜けだなぁ」


「そんなことないよ!馨さんかっこいいじゃん!」


「えーそうかなぁ…」


そう言って、今度は僕の撮った海水浴場での写真を整理していく。お互いに、自分になかなか自信が持てていないようだけど、お互いが大好きなのだとわかって、僕たちは顔を見合わせて赤くなったり笑ったりした。




「初めてここに来た時、馨さんすんごい緊張してたよね」


「やっぱりわかってた…?」


「もちろん。私もすごく緊張して、もうどうにかなっちゃいそうだったけど」


「僕、今も緊張してるよ、少し」


「え?そうなの?」


美鈴さんの部屋で撮った写真を、美鈴さんがアルバムに差す。その手を、僕はぎゅっと握った。


「美鈴さんがこんなに近くに居たら、きっと、いつもそうだよ」







四十枚入りの写真アルバムに入れられたのは三十二枚だったけど、海でのお互いの水着姿や、僕が撮った食事をする美鈴さん、美鈴さんと寄り添って撮っていたデート記念のツーショット、僕が美鈴さんの部屋に初めて来た時に二人で撮った写真などが入れられた。


僕はその中から、部屋で二人で写っている写真を抜き取り、カメラ屋で買ったフォトスタンドに差し込んで、「こうしよう」と言って立ち上がる。そしてそれを、美鈴さんの勉強机の隅に置いた。


「いいね」


美鈴さんは嬉しそうに笑って、しばらく勉強机の前で膝をついて机に掴まって、フォトスタンドがそこにある様子を見ていた。



でも、ふっと彼女は机にもたれて肩を落とし、うつむいた。それは後ろから見てもはっきりわかって、机にぼんやりと寄りかかっているようだった。僕が何か言おうとする前に、美鈴さんは背筋をぴっと伸ばして、こちらを振り返る。僕はその時とても驚いた。


美鈴さんは、泣きそうになるのを堪えるように、眉と唇を震わせていた。でも、それはすぐに止んでちょっと美鈴さんがうつむいてから顔を上げる。


美鈴さんの両目は凛と尖って僕を見据えていて、唇はやや口角の上がった、挑戦的な目線だった。


僕が美鈴さんの様子に押されて何も言えないでいる間に、美鈴さんは目を見開いたまま口元で笑った。


「私のこと放っておくんだから、立派な社長にならなきゃダメだよ」


僕もちょっと彼女の表情を真似て、笑ってみた。


「…もちろん。でも、放っておくつもりはないよ。大好きだもん」


僕がそう言うと、美鈴さんはちょっと赤くなった。それからゆっくり立ち上がって、僕から顔を逸らしたまま、キッチンへと向かう。


「…カレー、作るね」


「うん」





僕たちはまた一緒にカレーを作ったけど、二人ともあまり喋らず、美鈴さんの部屋には穏やかな愛が漂っていた。


「はい、できた。食べよう」


「うん、美味しそう」


「私、先にお鍋洗っちゃうから、カレー持ってってね」


「はーい」



僕がテーブルの前で胡坐をかいて、カレー皿からスプーンでカレーを掬っては口に運ぶのを繰り返していると、美鈴さんが突然、「新婚みたい」と言った。

僕が慌てて顔を上げると、美鈴さんは、「顔、赤いよ?」と言ってくすくす笑っていた。





僕たちがカレーを食べ終わり、美鈴さんがお皿を洗って、僕がそれを拭いて棚にしまうと、二人とも、もたついた時間を持ち込んで、ベッドの上に腰掛けた。そうしてそのまま壁に背中を預けて、今まであった、楽しかったことを話していた。


学校でのこと、図書館でのこと、初めて会った時のこと…。



美鈴さんは最後に、海で過ごした時のことを話した。彼女はベッドの上で膝を抱えて、膝頭に唇を押し当てて、うっとりとした目を布団に落としたまま、喋り出す。



「海行った時ね、私…実はちょっと恥ずかしかった」


「なんで?やっぱり水着になるのが?」


「それもあるんだけど…沖の手前で、キスしたでしょ?海水浴場だし、誰にも見えないくらい遠かったのはわかるけど、やっぱり…」


「そっか…今は?」


美鈴さんが、自分の膝にくっついたまま首を振る。僕は顔を近づけて、彼女の肩を片手で抱いた。


「じゃあ、もう一度してもいい?」


そんな話をして、またキスをして、手を繋いで。



美鈴さんは、夢を見ているように目を細めて、僕だけを見つめていた。部屋の空気は、彼女の髪の香りで満ちていた。



僕は、僕たちのほかに誰も居ない部屋で、素直に彼女に近づけた。でもその近い距離に堪えられないくらい僕の心臓は跳ねていて、「こんな状態がもしずっと続いたら、僕は死んじゃうかもしれない」と思った。







その夜、僕たちは暗い部屋で、街の人々からも、空に昇った月からも隠されながら、約束を交わした。



暗がりで、僕たちを包む布団は、灰色のような薄紫のような色をしていた。



僕たちは手を繋いで、キスをした。



美鈴さんが僕を見つめる、潤んだ二つの綺麗な瞳だけが、月光に洗われるように浮かび上がり、僕は必死で彼女の姿を焼きつけ抱きしめた。



胸の熱さは、増していくばかりだった。



ずっとそうして居たかったけど、僕は家に帰らなければいけなかった。







「それじゃあ、僕は帰るけど、アルバムは美鈴さんが持ってて」


「うん…」


離れることが美鈴さんは不安なのか、パジャマを着て僕を見送る時、悲しげに眉を寄せて僕を見上げる。


僕は、言葉などで彼女が安心するような気にはなれなかったけど、なんとか彼女を支えたくて、小さな体を両腕で包んで囁く。


「大丈夫。必ず君を迎えにくるし、また会える」


僕の胸の上で彼女が泣くので、僕のTシャツには涙が染みて、温かくなった。


「それに、学校でも会えるし」


「うん…うん…」


ちぎれそうな涙声で、彼女が必死に返事をして、僕の背中に回された彼女の腕は、震えながら強く僕を抱く。


やっと不安な気持ちを吐き出しているように、彼女の涙はしばらく止まなかった。


僕は彼女の髪や背中を撫でて、僕と離れるのが悲しくて精一杯泣いてしまう彼女の愛しい体を、できるだけ強く、それでも彼女が苦しくないようできるだけ優しく、抱きしめた。





「待ってる」


しばらくして彼女は気持ちが落ち着いたのか、静かに微笑んでいた。


「うん。必ず」


僕も満たされた気分で、それからわずかに使命感を感じながら、そう言った。


「おやすみ」


「おやすみなさい」





短く別れを言って僕が外に出ると、Tシャツに染み込んでいた彼女の涙がどんどん冷えていき、体に染みた彼女の温もりが、夏の夜に吹く風にさらわれていくのを感じていた。



でも同時に、胸に燃える彼女への愛情は、前にも増して強くなっているのがわかった。








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