第14話 ついにこの日がやってきた







美鈴さんと海に行って、胸が張り裂けそうなほどにときめいた日から何日かした朝、僕は、「夕食を今夜は同席したいから、部屋ではなく食事室で取るように」との父の伝言を、家に長く仕えている、執事の公原さんから聞いた。



僕は、実はこの執事である公原さんのことが、少し苦手だ。



彼は時たま、僕が居間でくつろいで本などを読んでいる時に、ノックはするけどすぐにつかつかと入って来て、黙って自分の仕事を探していたりする。そして最後に僕をじっと見つめ、「おくつろぎのところを、失礼致しました」と言って居間から出て行く。こう言うと「忠実な執事」に聴こえるかもしれないけど、その時の公原さんの目は、「これから若社長になるというのに、のんきなもんだ」と言っているような気がするから、僕は小さくなってしまうのだ。


それから、食事を自室に運んでくれたり、お掃除をしてくれるのは、メイドさんの山田さんと楠さんのどちらかだけど、たまにその二人の手が足りなくて公原さんが部屋に来てくれる時には、「若様、もう少しお片付けなさい。自分の部屋の整理整頓は、まず始めのお仕事です」と言ったり、「この間は全部食べ切れなかったようですが、若様にはしっかりとお食事をお取りになって、ご自分の学問に励んで頂きたいものです」と、やんわりと苦言を呈したりする。


言い方はやんわりとしていても、まず、公原さんはまったく笑わないので、僕はそこが苦手なのだ。



話に聞けば、父さんが「自分の会社の秘書に取り立ててもあれはいい仕事をするだろう」と言っていたほどに、企業のための人材としても一級品の人らしく、博識で、昔どこかで何かの実務経験も積んでいるらしい。人のつてでうちの執事になったと聞いた。


父さんは、家のことも全部自分の頭で考えて、それをただ忠実に実現させたがる人なので、執事とすら揉めることがあったのだと、公原さんに聞いたことがある。その時に公原さんは、「わたくしは、ご当主の意のままになればよいと思っていますので、そんなことはございませんが」と言い添えた。


要は、公原さんは父の代わりに、父そのものとして、家での僕の様子を見張る係も勤めているのだ。そして、なぜかは知らないけど、にやりとも笑わない。僕は、気味が悪いばかりではなく、息苦しかった。





そして公原さんは、父からの伝言を僕に伝える時、もう一つ大きな不安を与えた。


「若様。お父上にお隠し事はなりませんよ。今はお父上もご存じでは御座いませんが、必ず知れるものです」


公原さんは、そう言い残してドアを閉めたのだ。僕はさあーっと血の気が引き、おそらく美鈴さんとのことを公原さんが嗅ぎつけたのだとわかった。





そんなものだから、その日の夕食前は、不安と恐怖に取り巻かれ、そして、「絶対に喋るまい」という決意を、僕は必死で支えた。





午前も午後も落ち着けないままでだらだらと勉強をし、夜の七時になると公原さんがノックをしてドアを開けた。



「若様、お夕食の時間ですから、食事室へいらして下さい。お父上もお待ちかねです」







その晩のメニューは、グリルドチキンと、夏野菜のオーブン焼き、それからコンソメスープと、サンドイッチだった。スープをメイドの楠さんが運んできた時、父さんが口を開く。


「課題は済みそうか?」


「は、はい、あと少しで…」


「情けないな、父さんは学生時代には八月中には終わらせていたぞ。まあいい。お前に話がある」


「はい…」


スープを啜りながら、僕たちは会話をしていた。母さんも居たけど、母さんは何も言わずに目を伏せてスープをスプーンですくい、音もなく唇から流し込んでいた。



食事室はとても静かで、わずかにスプーンとスープ皿の擦れ合う音だけが、時たまカチッと鳴る。



「お前も大学には慣れてきただろうから、そろそろ会社の方に目を向けて欲しい。だから、明日までに課題を済ませて、明日は私に付き合いなさい」


「えっ?」


僕は驚いて、拍子抜けして、それからとても焦った。



もちろん、美鈴さんとのことを父さんが本当に知らなかったのは有難かったけど、僕の課題はあと三分の一くらいは残っている。それを今晩中に終わらせるのはかなり骨が折れるし、ろくに眠ることもできないだろう。ましてや、明日父さんについて会社に出て行くのも、今聞いたばかりで驚いていた。



父さんは僕が小さいときにどこかへ連れて行くと、我が家の事業に関することについての、実際の質問をしたりして、僕に会社の事業内容をほのめかしたり、また、経済観念を植え付けようとしたけど、いよいよ本格的に内部でそれをやるらしい。



「なんだ、まだかなりあるのか?本当に…もう八月も半ば近いんだから、終わっていても当たり前なんだぞ!」


父さんはすぐにヤカンが沸くように怒りだす人だ。僕は慣れてはいるけど、体が震えてしまうのを隠していた。それを分かってくれたのか、母さんが少しテーブルの上に身を乗り出す。


「あなた、この子は知らなかったんですから、あなたの都合に合わせるのは難しいわよ。確かに明日は大きな会議が入っていますけど、明後日の定例会議の方が、ちょうどいいんじゃなくて?明日は外部の人もいらっしゃるんでしょ」


「む、そうか…」


父さんはなんとか納得したらしいが、やっぱり僕は、あと一日で課題を終えなければいけなくなった。





明後日は美鈴さんと図書館で課題をやるつもりだったのに…。








僕はその晩、美鈴さんに、父から言い渡されたことをメッセージで長々と書き送った。どうやらこれからは家の仕事にも時間を取られること、明後日の図書館での予定には行けなくなったこと、それから、もしかしたら大学の放課後にも、そういうことがあるかもしれないこと…。



美鈴さんからの返事はこうだった。



“そうなんだ…明後日のことは残念だけど、これから大変になるね。お仕事覚えるの、頑張って!応援する!”



そこには、星マークとハートマークが散らされていて、美鈴さんは絵のスタンプも送ってきた。それは、可愛らしいカエルが「がんばれ!」と、鉢巻をしているスタンプだった。



“カエルかわいい”



“これかわいいでしょ”



それから僕は、どうしても言いたいことがあって、五分ほど迷ってから、「ええい!」と、送信ボタンを押した。



“美鈴さんはもっとかわいいけどね”



“…ありがとう”



“とにかく、これから社内に出入りすることになるなら、僕は家の事業の勉強もしなくちゃならない。応援ありがとう。頑張るよ。美鈴さんも勉強頑張って!”



僕はスタンプは持ってなかったけど、元々メッセージ用に用意された犬のスタンプを送った。「ありがとう」の台詞入りだ。



“任せなさい!”



“じゃあ、今晩はおやすみ”



“うん、おやすみなさい”





スマホを充電器に繋いで、僕は課題の消化に戻った。







僕は翌々日の朝、両親に外に連れ出される時によく着るスーツの中から、なるべく地味なものを選んで着込み、家の車に乗り込んだ。運転は父さんがした。父さんは車を運転するのが好きらしく、うちには運転手だけは居なかった。



「お前も免許を取らないとな」


「はい」



車中での、父と息子の会話はそれだけだった。







車を降りたところは、本社の駐車場の中だった。さすがに僕もここに連れて来られたことはまだなくて、車を降りてから緊張していた。


広くて暗い駐車場の出入り口に居た警備員さんにちょっと会釈すると、警備員さんは僕が社長息子だと分かっていたのか、急にうろたえて慌てて礼をしてくれた。「そんなにしゃっちょこばらなくていいのに」と思ったけど、仕方ないことなのかな、と僕はちょっとため息を吐いていた。





社内に入る前に、父さんから仮の社員証を渡された。名前と僕の顔写真がプリントされているだけで、もちろん役職名なんかない。赤い紐の社員証を首から下げようとすると、「こら、玄関で使うんだ、持っておきなさい」と父に言われた。


社員証を玄関の奥にあるゲートの読み込み部分にタッチして、僕たちは真っすぐに、一番奥にあるエレベーターに向かった。その間に、いろいろな人とすれ違ったけど、その人たちはみんなこちらに向かってお辞儀をしていて、僕はそのたびに気まずい気分になった。



僕と父さんはあまり顔は似ていないけど、学生らしき人物を父さんが連れていれば、みんな息子だとわかるのだろう。僕に微笑みかけてくれる人も居た。その人に、果たして本当に笑顔を返せたかどうか、僕にはわからなかった。





エレベーターに乗ると、父さんは矢継ぎ早に喋り出した。



「今日はこれより、十三時から定例会議がある。上役は全員集まって、報告と、それから方針の修正、あとは確認すべき事項を皆で出して調べ合う。お前にもその中身について触れてもらうことになる。だからこれだけは守れ。絶対に会議で聞いたことを外部に漏らすな。極秘というわけではないが、お前にとってはどれが重要な情報かもまだわからないだろう、だから「一切」という括りでいい。それから、発言もさせる。質問か意見かはどちらでもいい。ただ、感想のみに留めるような無様な真似は私は許さん。これは重要なことだ。社内の人間から受ける第一印象として、跡取りであるお前が「積極性に欠ける」と見られれば、彼らはお前なんか問題にしなくなる。それだけは避けろ。なんでもいい。有用な意見でなくてもいい。興味関心を持って、会議に臨め」


僕は大いに驚いた。父さんが僕にこんなにたくさんの言葉を投げかけたことはなかったからだ。そして、エレベーターが目的の十五階に着いたので、僕は慌てて「はい、わかりました。よろしくお願いします」とだけ言って、エレベーターを降りた。






「やあ、初めまして、馨さん。」


「お見知りおきを。経理部長の鈴本です」


「お元気そうですね、お小さい頃に、一度お会いしました」


「楽しみにしていましたよ。本日はよろしくお願いします」



「皆さん、ありがとうございます。本日はよろしくお願いします」



会社の上役の人たちは、口々にいろいろな挨拶をして、僕を歓待してくれた。僕は父さんの前、と言っても、楕円形の大きなテーブルで父さんの反対側に位置する椅子に座っている人の、右後ろに、パイプ椅子を用意して座らされた。


そして、たくさんの書類の束を、家の玄関ホールでもよく見る、父さんの秘書の金山さんから受け取った。いつも家でちょっと見かけるだけだけど、知っている人が居るのは少し安心できた。金山さんは忙しそうだった。


そして、父さんの声で会議が始められると、それぞれの工場部門、たくさんの製品部門、開発部門、経理、営業、人事…と、順番に成果や問題点の報告、改善案などがそれぞれ部長の口から語られた。最終的な判断はもちろん父さんに委ねられたが、意外なことに、父さんは誰かを厳しく咎めたり、叱ったりするような様子はなく、それぞれの部署の人の話に耳を傾けて、時に父さんが意見を述べることで、話がまとまる場面があった。



そしてそれは、報告が済んで、一番肝心なことについて改善案を出し合っていた時のことだ。「どうやら自社製品より他社製品に人気が集まっているらしいから、それをどうするか」ということについて、上役の人たちと父さんで議論が交わされていた。僕は、「そろそろ来るんじゃないか」と思い、今か今かと、父さんに指差されるのを待っていた。


「はあー。これは由々しき数字ですなあ」


「すぐにも盛り返さなければわが社のシェアを奪われますからな」


そんな物憂げな台詞ばかりが聴こえていたその時、やっぱりそれはやってきた。



「お前はどう見る?馨」



父さんの目がこちらを向くと、会社の重役たちが全員こちらを向いた。僕は怯えてすくみ上らないように、なるべく平然としていられるように頑張った。



いちかばちか。言うしかない。失敗しても、父さんの言うように「積極性はあるが、まだ育ち切っていないようだ」と思われるだけだ!いや、そんな弱腰でいいはずはないけど!


僕は思い悩みながらだったけど、おそるおそる口を開いてみた。



「まずは…PRの方法を変えて、製品にも改良を加える必要があると思います。そして、会社の負債が増えていく前に、残った体力を製品開発に回したい、と、僕なら考えます」



僕は緊張で少し汗をかくくらいだったが、その僕の言葉で上役の人たちは一気に元気づいたのか、僕を褒めてくれた。


「社長!良い息子さんですな!」


「素晴らしい意見です!」


「その若さで全体を見通せるのは、感心いたします!」



「皆さんお静かに。あまり調子に乗らせないで頂きたい。もちろん、今のようなことは皆さんの頭にも浮かんだでしょう。しかし問題は資金です。それを今話し合おうとしているのですよ」


「そうでしたな、しかしなかなか…」


「それにしても銀行側の条件があまりにも…」





そのあとの会議の話は、あまりに複雑で専門的な業界用語が飛び交っていて、僕には時々不明瞭だったけど、なんとか終わりまでかじりついて聴いていて、会議はなんと三時間も掛かった。帰る頃には僕はぐったりとしていて、立っているのも疲れるくらいだった。



父さんはこんなことをいつもして、そして他にも仕事をこなし、それから夕食会に出かけていくのか。そう思って、今頃になってわが父の凄まじさを知った。




帰りの車の中で、父さんは僕を今度は後部座席に乗せて、バックミラー越しに僕を見ていた。それは注意深く僕を見つめているようだったけど、家に着くまで、父さんは黙ったままだった。







車が家の庭に入って、玄関まで回っていくと、母がポーチの前に出て僕を待っていた。父さんは「降りなさい。父さんは会社にすぐ戻るから」と言ったので、僕は、「今日はありがとうございました」と言って頭を下げ、ドアを開けた。


「馨」


父さんに呼ばれて僕は振り返る。父さんの目は、いつになく真剣だった。


「お前は大学で経営を勉強しているんだろう?もっと真面目にやりなさい。自分が将来使う手段を探して、自分でも考えることだ」


そう言って、父さんが前を向いたので、僕は車から降りて、近づいてきた母さんに挨拶をした。







その晩、図書館に行けなかったことを美鈴さんにもう一度謝ってから、僕は、会社経営の勉強をもっと真剣にやりたいことや、父に叱られたことなどをメッセージで話した。


美鈴さんは、「それなら図書館での勉強はやめにするか」と聞いたので、僕はやっぱり、「そうした方がいいかもしれない」と返した。



美鈴さんは今度は、「一歩ずついこう!」というメッセージが添えられた、ピョンピョンはねているカエルのスタンプを送ってくれたけど、僕は、美鈴さんが無理をしていないかが心配だった。




だから、「思い出のアルバムを作らない?」という文を送った。







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