第10話 めくるめいて



図書館に行く間も、僕たちは「これはデートなんだ」と思うと、意識し過ぎて興奮して、会話も少なかった。


でも、駅で狭いホームを歩いている時、そっと美鈴さんは僕の後ろに隠れ、僕の右手を後ろに引いてきゅっと握った。僕もやっと少し握りしめられた気がするけど、「人前で寄り添い合う」ということが、いかに彼女を独占している印になるか、それからこんなに恥ずかしいものなのかと、体中沸騰してしまいそうだった。


「この人が、僕を好きと言ってくれました」と、この場に居るみんなに宣言しているようなもので、まるであちこちから、噂をする声が聴こえてくるような気になる。



「電車、遅いですね…」


乗り場の線の中に収まった時に彼女にそう言うと、彼女は僕の手を手首ごとちょっと引いただけで、何も言わなかった。右後ろに居る彼女を振り返ると、彼女は恥ずかしそうにうつむくだけだったけど、ちょっととんがらせた唇は、「ずっとこのままでもいい」と言いたがっているように見えた。


僕も切ない気持ちで前を向き、滑り込んできた列車に彼女を乗せる時、彼女の手を、危なくないようにだけど、ちょっと強く引っ張ってみた。彼女は少し驚いて僕を見たけど、城に閉じ込められたお姫様が助け出される時のような、切なげで、僕に縋るような表情を見た。


電車に乗ってからは手を解いたけど、僕たちはドア付近に向かい合って立って、無言でうつむいていた。






図書館に着いた時には、もう午後の一時半だった。僕たちは初めて行く場所なので、図書カウンターで利用登録をしてカードを受け取り、本を目指して進んで行く。


実を言うと僕は、静かにしていなければいけない場所の方が有難いような気がした。僕は口下手だから美鈴さんをお喋りで喜ばせられるかに自信はないし、もし気を抜いて彼女に失礼なことなんか言ってしまったらどうしよう、という不安もあった。



でも、本当はそんな遠慮なんかしないで、僕が彼女の望むような伝え方で、雨あられのように愛を降らせたい。彼女の綺麗な髪にいつも絡みついて、僕を忘れないように。




「馨さん。私、探したい本があるので、どこかの席で待ち合わせして、二人で読むことにしませんか?」


不意に彼女がそう言って僕を見上げたので、思わず心中に渦巻く沼に没しそうになっていた僕は、ろくな返事もできなかったように思うけど、彼女と僕はそれぞれ自分の目的とする本を探しに、二手に分かれた。



僕は、彼女の学ぶ哲学を、自分でも他の勉強の合間に学んでみようと思っていたので、西洋哲学の棚でアリストテレスの著書を探した。アリストテレスはギリシャの哲学者だ。「哲学への道」の講義で哲学者はいろいろと紹介されていて、哲学の興りはもちろんギリシャ。今の哲学とはまったく違うものだけど、僕はそこから始めたかった。


プラトンやソクラテスでもよかったけど、なんとなく、たくさんの範囲を理論づけていったというアリストテレスであれば、とっつきやすいところもあるのではと思ったのだ。


やっぱりアリストテレスの著作はたくさんあって、僕はその中から、『ニコマコス倫理学』という本を選んだ。「倫理」は高校でもやったし、そこに近いのかなと思った。そのままその場でちょっと読みたい気持ちもあったが、「美鈴さんがもう席に戻っているかもしれない」と思って、場所を覚えておくのに「F」という棚の標識を確認してから、元来た通路を通って、本棚の群れの中にぽっかり空いた、閲覧スペースに戻った。



美鈴さんはもう席に就いていて、白いカバーに赤い帯の付いた本を開き過ぎないように丁寧に広げ、何事かを確かめるように、指でなぞりながら微かに口元を動かしていた。それはやはり恐るべき集中力で、彼女の指は驚くほど速く何かを辿り、そして、みるみる彼女の表情は晴れていく。「これでよし」と言うように彼女は頷いて、顔を上げると僕を見つけ、顔の横で小さく手を振って、「おかえりなさい」と言った。


僕はその言葉にびっくりして、不明瞭な「ただいま」を言いながら、疲れなど吹き飛んでしまう彼女の目と、安心した様子で本に向き直る微笑みを、瞬きの度に瞼の裏側で、何度も映し直そうとするのだった。






「『ニコマコス倫理学』!?か、馨さん、急にそれは難しいと思いますよ!」


珍しく彼女は慌てて、僕の持ってきた本と僕を何度も見比べて、大げさなほどに不安そうな顔をする。それから彼女は、「急に哲学者の自著に入っていくのはちょっと難しすぎるので、解説書から入った方がいいと思いますよ」と言った。僕はそれを疑るわけじゃなかったけど、ちょっと彼女が僕を侮っているように感じたところもあったし、表紙を開き、目次も読まずに無理やりにでも読んでみようとした。





二十分後の僕はテーブルに突っ伏して、閉じた『ニコマコス倫理学』を自分から遠ざけて、美鈴さんに慰められていた。


「なんですかあれ~…あんなに難しい日本語読んだことないですよ…もともとはギリシャ語だし…」


「う~ん、厳密に自分の主張を初めから終わりまで展開していくんですけど…みんな宇宙人なのってくらい頭がいいので…確かにアリストテレスは選択肢は広いんですけど、そのすべてにおいて当時の英知が全部まとまってるみたいな人で…」

「聞いてないですよォそんな話…美鈴さん、こんなもの普段から読んでるんですか…?」


そう言って顔を上げると、彼女はちょっと首を傾けていたけど、しばらくしてちょっと遠慮がちに微笑み、「はい」と言った。僕はそれに強い敗北感を覚えたし、さらに不甲斐なさも感じた。だから「そうですか…」とうつむいて答えることしかできなかったけど、美鈴さんはなんのフォローもせず、「ところで」と切り出す。


「私が選んできた本、見てくれませんか?」


彼女がテーブルの上を滑らせて寄越したB5くらいの分厚い白い本に、ちょっと拗ねた気持ちで目をやると、逆さまにはなっていたけど、「分かりやすい数学文章題の取り組み方」というタイトルが見えた。


「馨さんは文章題が苦手なだけだから、そこの苦手が改善されれば、きっとグッと良くなるはずですよ」


そう言って楽しそうに彼女はにかっと笑う。僕はさっき「絶対に歯が立たなそうな学問」を見つけてしまい、しかも美鈴さんはそれが得意だなんて差まで見せつけられて、この上でいつも苦々しい思いをさせられている文章題になんて取り組むのは気が進まないなと思い、ちょっとぷいっと横を向いた。


「…嫌いでしょ。数学」


「へっ?」


美鈴さんのちょっとなぞなぞを出すような声が低く、小さく響く。


「嫌いだとね?数学も「馨さんなんか嫌いだよ~」って、そうやって横向いちゃうんですよ」


そう言って優しく微笑み、彼女は僕の頭にそっと手を当てる。


「だいじょーぶ。きっとうまくできるようになります」


彼女のその、幼子に言い聞かせるような語調に、僕は昔家に居た、メイドの「木森さん」を思い出したけど、そんなふうに思い切り彼女に甘えようとしている自分が恥ずかしくて、腕の中に顔を埋めた。


「そうだと…いいんですけど…」


「馨さんなら、大丈夫です」


静かな図書館にある本棚の森では、僕たち以外が誰も居ない野原があるようで、そこに温かい真昼の光が差しているように、僕はぽかぽかと体が温まるのを感じる。そして、一頻りそれを味わうと、背骨を真っすぐに直した。







美鈴さんは黙ったまま、しかめ面で『ニコマコス倫理学』を読んでいた。そして僕は、持ってきてあったノートに文章題の参考書の中にある問題を書き込んで、「ワンポイントアドバイス」として示されている方法を、なるべく具体的な言葉として展開してその下に書き、その上で何問か解いてみた。


本に書かれているアドバイスを理論として自分の言葉で表してから解く、というのは、よく彼女がいろいろな科目でやるらしい。


何問か不正解が続いたあとで、だんだんと正解の数の方が増えていって、僕は最後の難しい問題だけは解けなかったけど、なんだか目の前が開けたように感じた。



彼女は僕にアドバイスをしてくれながらもアリストテレスの本を読んでいたけど、僕は一度だけ、彼女が自分でも気づかずに独り言を言っているのを聴いた。その声は存外鋭く、それから文言にも驚いた。


「…ほんと日本語で書いて欲しい…」


僕がさっき開いた本はもちろん和訳されたものだ。だから彼女は多分、「日本語に和訳されているはずなのに、意味を汲み取れないほどに難解な本だ」ということを言いたいのだろう。それを聴いて、僕もちょっと安心した。美鈴さんは確かに僕よりも学問の力があるけど、それは彼女が才能があるというよりは、いつも努力しようと全力を尽くすことを自分に課しているからなのだ。


僕は文章題の参考書に戻り、「うまくいく」、「きっと解ける」と思い、五度チャレンジして、やっと解へと至った。





「すごいじゃないですか、馨さん!解けましたね!わあ、これすごく難しい!」


彼女は小声ながらも、ひそひそ声で叫ぶように興奮しながら参考書と僕のノートを見比べて、僕を褒めてくれた。僕はちょっと鼻が高くなってきたけど、やっぱり自信がなくて、「僕も、美鈴さんみたいに、頑張りたいし…」とうつむく。


「いやいや!馨さんは尋常じゃないくらい頑張ってますよ!私、自分の勉強についてこられる人って初めて見ましたし!」


彼女がそう言った時、「やっぱり彼女は伊達じゃない」と、とても驚いたけど、そんなに自分に実力があるとは思わなかったので、そのことにも驚いた。


「それに、哲学だって、高校の時の倫理学のすぐあとから掘り下げて知識を深めていけば、馨さんならきっと理解できます。もちろん、本来なら経営学科ですから、それを勧めるようなことはしないですけど…」


そう言ってちょっと残念そうな顔をした彼女を見て、「きっと仲間が欲しくて仕方ないんだろうなあ」と思った。だから僕は一度頷いて両腕を組み、彼女を見つめる。僕は思わず喉に力を入れた。



「僕、勉強を続ける体力なら、自信があるんです。試してみますか…?」



もしかしたら、この時初めて僕は彼女に「挑戦的な目」というものを送ったかもしれない。すると、美鈴さんは頬を赤くして背け、口元を震える手で隠そうとした。


「どうしました?」


もしかして、急に偉そうな態度をしてみせたから、怖がられてしまったかなと思って、僕はちょっと彼女に寄り添うように、テーブルに身を乗り出した。彼女はびくっと体を引いて、上目がちに僕を見つめ、真っ赤な顔で少し俯き加減のまま、ささっと周囲を見渡した。



「今…馨さん、すごくかっこよかったから…びっくりして…」


そう言った美鈴さんは、居心地が悪そうにもじもじとしているのに、僕に目を奪われたように、じっとこちらをを見つめていた。


「えっ…ほ、ほんとですか…?」


知らず知らず汗をかいてしまうような緊張が僕を包んで、それから胸に強い喜びが湧き上がる。


「かっこいい」。そんなことは生まれて初めて言われた。さらに、好きな人に言われるなんて、これ以上嬉しくなる条件はもう、くっつけようがない。


「そ、そうかな…えへ、嬉しいです。なんか、信じられないけど…美鈴さんにそう言ってもらえると…。いやあ、嬉しいな」


もらった言葉を味わうように、僕がそう繰り返すと、彼女は何か言いたげな含み笑いをして、僕の前でテーブルに両肘をつき、手の上に顎を乗せて僕を見上げた。



「今度は、可愛いです」



その時、僕たちの立場はあっという間に逆転した。さっきまでは僕が彼女を恥ずかしがらせたりしていたのに、今度は、どこかに隠れたいくらいに恥ずかしかったのは僕の方だった。


「そ、そんなことないですよ!僕は男だし、そんな可愛いとか…!」


恥ずかしさで体中が熱くなって、僕は顔の前で手を振り回す。


「か、馨さん!声!声抑えて!」


「あっ!す、すみません…」


大声を出してしまって決まりが悪く、おそるおそる周囲を見回すと、本棚の間に二、三人の人が居た。でも、彼らは特に僕たちに注目しているわけではなかったので、僕は内心で謝りながら、一応曖昧にその全員に会釈をするように顔を伏せる。美鈴さんは楽しそうに笑いを堪えていた。


でも、なぜだろう。彼女が僕を「可愛い」と言って見つめた時、僕は驚いたのだ。あの時の彼女の目は、まるで僕しか見えていないように満足そうで、僕の心をあけすけに見つめていて、どこか妖艶に見えた。僕はそう考え始めて、慌てて首を振って勉強に戻った。





別れ際、僕は迷っていた。僕と彼女を乗せた電車は、空の西側を右に見て、レールの上をゆったりとカーブして走っていた。


橙色に照り輝く空を背景に、金魚の頭のコブのように、腫れぼったく真っ赤になった太陽が、列になったビルまで一緒に飲み込んでしまうかの力で沈んでいく。わけもなく悲しくなるような気がして、彼女の手を握ることもできなかった。



僕には、今日にでも話しておきたいことがあったのだ。僕の両親に関することは、彼女に話し切っていなかった。だから彼女に早く伝えて、もし彼女の気持ちが別のところにあれば、僕は必ずそれを遂げるために動くはずだった。



なかなか言い出せない。それは、食事の席で話すことではなかったし、図書館でできるわけもなく、また、電車や街中でそんなことを喋るわけにはゆかない。だから、僕は彼女と、本当の本当に二人きりになれる空間が欲しかった。それに、そんな話なんかしなくたって、彼女と誰からも隠された場所に行くのは、僕の望みなのだ。だって、そうしないとできないことがある。



『次のデートでは、二人きりになりたいんです。』



それを今日は言えればいいかな。そう思って、僕と向い合せにドアに近い手すりにつかまる彼女を見て、僕はまたため息をつく。


彼女の片頬は野性的な赤い赤い光に包まれていたのに、華奢な顔立ちの陰影がそれでたっぷりと強調され、光を受けているのと反対の黒目はひっそりと佇んでいて、その中に僕が映り込むのが見える気がした。



電車を降りる。僕たちは手をつないだ。



最後の乗り継ぎで、彼女の最寄りの地下鉄路線へ。空いている車内で僕たちは曖昧に手と手を触れ合わせて、ゆるくゆるく、やっと触れ合うくらいに、指を重ねている。



きっと、今この手を握りしめてしまったら、僕はそのままどこかへ逃げてしまおうとするだろう。そう思いながら僕は、いつまでも来ない「言葉を掛けるタイミング」を探して、そのうち飽きてしまったように、黙ったままだった。


ブルーベリー色の夕暮れが置き忘れられたようにずっと居ついている列車の中、不規則に揺れるふかふかした客席に背を預けて、少しだけ彼女の肩に寄りかかった。


彼女もすぐに僕にもたれてきて、それがちょっと遠慮がちだったから、僕はなおさら自分から彼女の肩に体重をかける。そうすると、彼女も自然と肩を任せてくれた。






僕だけが降りる駅に、あと二分ほどで着く。美鈴さんが不安そうに僕を見つめた時、僕は初めて勇気が出た。早く彼女を元気にしてあげなけりゃ。


「次は、もっと二人きり、がいいですね」


「はい…」


開いたドアの外に僕はするりと抜け出て、美鈴さんに手を振る。


「今日はありがとうございました」


僕が落ち着いてそう言うと、彼女も少し落ち着いたように見えたけど、僕と離れるのが本当に残念そうで、僕は「ずるいなあ」とぼんやり思った。


「私も、ありがとうございました」


「また、学校で」


「あ、はい…じゃあ、おやすみなさい」


「おやすみなさい、気をつけて」



僕がその「気をつけて」を言う間に、電車のドアは左右から閉じて、僕と彼女の間に壁を作った。





「情けないなあ…」



僕はそう言いながらも、にまにまと上がってしまう口角を必死になだめ、その日も遅くまで眠らなかった。








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