第9話 初めてのデート





デートの日までは、僕たちはなんとなく落ち着きもなく、ちょっと距離を詰めることも気が引けてしまって、少しぎくしゃくしていたかもしれない。お互いに意識し過ぎてしまって突然の顔の近さにためらったり、でも自分のためらいで相手を傷つけないように、お互いの距離に肯定を与えていった。でもそれは大学でのことなので、「学友としての慎み」を守りながらやらなければいけない気がして、どうしようもなくもどかしいじれったさを感じていた。


一度、勉強会の時に美鈴さんがお手洗いに立ち、僕は経営学科のレポートを終わらせておくはずが、「まあこれは簡単だし」と油断をしてテーブルにもたれかかった途端、気づかないうちにするりと眠ってしまったということがあった。


「…さん。馨さん。起きてください。馨さん」


僕は名前を呼ばれて、目を開ける前に頬を何かで突かれている感じがして、眠りから無理に引き上げられたことでそれがちょっとうっとうしくて、唇をひしゃげさせて、頬で押し返す。すると、美鈴さんが「ふふふ」と笑ういつもの声が聴こえた。


「あっ、ご、ごめんなさい…!」


僕は目が半開きのまま美鈴さんに向かって起き上がろうとする。彼女の首元くらいしか見えず、瞼をこすってなんとか眠気を払おうとすると、僕の視界に彼女が屈み込んで映った。それはあんまりに近くて、彼女のきめの細かい白い肌や、柔らかそうな髪の毛の束、それから潤んだ瞳が目の前に現れ、僕は思わず少しだけ体を引いてしまった。


すると彼女も僕がはっとしたことに気づき、慌てて顔を離して「すみません!」と謝る。


「い、いえ…大丈夫です…」


僕はなんとかそう言った。でも、あと十センチの距離に居た彼女の香りや、色つやのいい頬の色や儚く細い髪、それから、見ただけでどんなに柔らかいかわかるような唇が頭の中に焦げついて、そのあとはろくろく顔も見られなかった。



僕は、「早く週末が来ないかな」と待ち遠しかったし、その日になったら彼女と手をつなぐことだってできると思って毎日が楽しかった。





でも、当日の朝、僕はまったく予期していなかったことにおおわらわになった。





「着ていく服、どうしよう…」


僕は朝食の後でクローゼットを開けてそのまま立ち尽くし、十秒ほど経った時にやっとそう言った。


僕はいわゆる「女性が隣に居る男性に来て欲しい服」なんて持ってなかったし、そもそもそういった服がどういうものなのか、考えたこともなかった。パーティーに連れて行かれた時、母さんに「こっちの方が色が合うわ」と声を掛けられて胸元のハンカチーフを差し替えられたことはあったけど、結局僕は自分が着ていていい気分になれる柔らかなカーディガンや、サイズの合ったジャケット、ゆるやかな長袖のシャツが好きだった。



両親には美鈴さんとのことは秘密にしている。父さんはこれだって干渉したがるだろうし、母さんも良く思わないだろう。二人とも、「家の跡継ぎ」の僕のためと思い込んで、どんな横槍を入れてくるかわからない。このことは、近いうちに美鈴さんに話そうと思っている。



だから、いつも父の服装をチェックしている母さんにアドバイスを求めることはできなかった。それに、父さんも母さんも今日は昼食会と会議だとかで、相変わらず家に居ない。


仕方なくクローゼットの中から黒いロングTシャツを出して、下に履くのはベージュのチノパンにした。なんだか薄ぼやけた印象だったけど、美鈴さんに今度好みを聞いてみることにしよう。



それから僕は念入りに歯磨きと洗面をして、髪を整えて、久しぶりに眼鏡を掛けた。薄い青色の縁で、自分で眼鏡屋に行って高校生の頃に買ったものだ。大学に行く時などはコンタクトにしているけど、ちょっと気取りたい時には、僕はこの眼鏡を好んで掛けている。でも、これが美鈴さんの気に入ればいいけど。そう思って、それから美鈴さんの服装を思い浮かべて胸をわくわくさせ、家を出た。






美鈴さんが「待ち合わせはここがいいです」と、めずらしく自分の希望を僕に言ってくれたのは、美鈴さんの家の近くにある地下鉄路線の最寄り駅から、二駅過ぎた駅の改札だった。「改札が一つしかないし、おすすめしたいレストランがあるんです」と彼女はちょっとだけ得意げに微笑んでいた。





そろそろ11半になる頃合いに、僕は美鈴さんに指定された待ち合わせの改札に着いた。そこは、人がごみごみしているというよりは、なんとなく閑散としていて、あまり降りる人も居ない駅のようだった。僕は、「住宅街の中にある駅なのかな」となんとなく思いつつ、まだそこには居なかった美鈴さんを待つために、改札前の壁に張り出した大きな柱に寄りかかっていた。



「馨さん!ごめんなさい遅れちゃって!」


そう言って改札の奥から美鈴さんが走ってこちらに近づいてきたのが、それから十分後のことだ。美鈴さんは待ち合わせに五分遅れただけなのに、どうやらホームに降りた時から駆けてきたらしく、改札を慌てて通って僕の目の前まで走ってくると、胸を押さえてはあはあと息を切らしていた。


「そんなに慌てなくていいのに。まだ五分しか過ぎていませんよ。僕も来たばかりですし」


「で、でも…」


「大丈夫です。じゃあ連れて行って下さい」


「は、はい!」


彼女は、僕をレストランまで連れて行くということを思い出して、元気よく返事をした。そして僕の前に立って歩き出し、僕を振り返る。



美鈴さんは、白いレースの掛けられた赤い膝丈までのスカートを履いて、小さな刺繍が左胸の上にある、半袖のシフォンのブラウスを着ていた。そろそろ夏になるから、この間まで着ていたようなカーディガンやジャケットは、彼女は身に着けていない。


髪は今日は編み込みではなく後ろで一まとめにしてあって、長い前髪も一緒に引っ詰めにしてあったけど、とても丁寧にまとめられて、銀色の細工の付いたバレッタで留めてあった。



改札から出口へと進んでいく間、何度も僕を振り返ってスカートをひるがえす彼女は、いじらしい。地上へのエレベーターを降りる前に、僕はそれを言ってしまいたくなった。なんだか、周りに人が居たら、素直に言えなさそうだから。


「あの…」


「はい」


弾む息も収まって落ち着きを取り戻していた美鈴さんは、僕に振り向いた。長い睫毛。落ち着いた柔らかい光をまとう、大きな瞳。僕はそれに目が眩んでしまいそうになり、慌てて目を逸らした。


「今日も…素敵です…」


やっぱりうつむいてしまったけど、美鈴さんは僕の左手を取って「ありがとうございます。馨さんも、その眼鏡、とても素敵ですよ」と言ってくれた。その時、エレベーターの扉が開いて、僕たちは人通りの少ない狭い道に出て行った。






改めて見れば見るほど、その日の美鈴さんは可愛かった。足運びはうきうきと軽やかで、それに合わせて赤いスカートが白いレースに透けて揺れる。よく見れば足元も深い紅色のパンプスで、バレエシューズのように足首に細いベルトが掛けられていた。彼女の白く華奢な足首に真っ赤な細いベルト。僕はそれをあんまり見ているのはいけない気がして目を逸らそうとしたけど、「もう自分は彼女とお付き合いをしているんだ」と思い出して顔を上げる。


「靴も、かわいいですね」


そう言うと彼女は、また恥ずかしそうにしたけど、少しだけ慣れてきたのか、僕を見つめて微笑み、「ありがとうございます」と返した。




さて、大通りから遠い路地を歩いていくつか角を折れてたどり着いたのは、小さなイタリアンのレストランだった。網目状になった路地の角にその店は建っていて、両隣を、コインパーキングと小さなオフィスビルに挟まれていた。オフィスビルの方には、入口のガラス戸に「〇〇商事」と書かれている、人気のない個人商店のようだった。周囲はそうしてひっそりとしていたけど、美鈴さんが指で指し示したお店は、窓ガラス以外の壁に赤と白のタイルがモザイク状に入り混じって、明るく楽しそうな雰囲気だ。


店の入口が道にはみ出さないようにと出入り口付近が一歩奥まって作られていて、ドア横には立て看板があった。看板の一番上には店名がアルファベットで「Rosso e bianco」と書いてある。なるほど。タリアンだから「赤と白」か、と僕は思った。その下にはメニューが続いている。


「今日のピッツァ 

イワシとトマト

辛口サラミ


魚料理

スズキのグリル


肉料理

ヒレ肉のロースト


パスタ

ボロネーゼ

ペペロンチーノ」


と書いてあった。僕は「けっこうちゃんとしたイタリアンなのかな?」と思って、「行きましょう」とドアを開けた美鈴さんについていった。



ドアに取りつけられていたベルがカランコロンと大きな音を鳴らすと、店内の美味しそうな食べ物の香りが僕の鼻に飛び込んで来る。ハーブの爽やかさや、肉の脂の焼けた香り、小麦の香りが混じったそれらは、大いに昼時の空腹に刺激的だった。


しばらくして若いお姉さんが「いらっしゃいませ」と出てきたけど、美鈴さんを見て急に嬉しそうに飛び上がりそうな笑顔になって、「あら久しぶり!ご来店ありがとうねえ!」と、いくらか砕けた言葉を掛けた。知り合いなのかな?と僕は思って、美鈴さんがぺこっと頭を下げる動作に、僕も控えめに乗ってみる。


「お久しぶりです。受験も受かって、学校にも慣れたので、やっと来れました」


美鈴さんは親しげにお店のお姉さんにそんな話をしながら、お姉さんに勧められた窓際の四人掛けの席に進んで行く。こちらを振り返って「あなたも」と目で合図され、僕も慌てて席に就いた。お店のお姉さんは僕にも「こんにちは、どうもいらっしゃいませ」とにこやかに挨拶をして、お水とおしぼりを置いてから、「ご注文が決まりましたら、呼んでください」と言い置いて、奥へ引き返していった。


お店の他のお客さんは二組居て、どちらもカップルのようだったけど、彼らも僕たちの来店で興奮していたお店のお姉さんの様子に、びっくりしていたようだ。


「お知り合いのお店なんですか?」


僕はちょっと小さな声でそう聞く。


「ええ。実はこの店のオーナーシェフをしている方が私の父の同級生の方なんです」


「そうなんですか」


「同じく父と同級生だった母とも仲が良くて、父が亡くなった後も、幼い私を連れて、母はよくこの店に来てました。田舎に戻ることになって、「この店に来られないのもさびしい」と言ってたほどで。美味しいんですよ。だから私も上京してからひと月に一度は来てます」


美鈴さんは親しみのこもった、優しく細められた目をしていた。


「それは楽しみですね。おなかもすきましたし。美鈴さんのおすすめは何かありますか?」


僕はテーブルの上に置かれていた、ラミネートされた何枚かの紙がリングで留められたメニュー表を手に取った。すると、美鈴さんは急に僕に顔をぐっと近づけ、片手を口の横に寄せて僕に囁きかける。


「絶対にピザです。感動しますよ。」


そう言った美鈴さんは僕の目の前で訳知り顔で微笑んで、そのあとで、店中に聴こえるようにそれを言うのを我慢しているようにちょっと体を捻った。


「どっちにしようかな~」


美鈴さんはもうメニューを見て悩んでいたけど、人差し指の先を唇の下に押しつけて悩む姿も、興奮している表情も僕は初めて見たし、素顔でリラックスしている彼女はとても可愛らしかった。


「じゃあ、二人で二種類頼んで、半分こしませんか…?」


僕が控えめにそう言うと、彼女は顔を上げて嬉しそうに笑って、「そうですね!そうしましょう!」とはしゃいで賛成してくれた。



お姉さんに注文を伝えてカトラリーの入った箱がテーブルに置かれてから、僕はちょっとの間考えていた。料理が運ばれてくるまでは時間が少しあるだろう。だから、美鈴さんに「両親には隠してお付き合いをする」ということを話そうかと思いかけた。でも、たまにちらちらと厨房の方を振り返っては笑顔になっている今の彼女にはそんなことは言いたくないし、彼女にとって楽しい思い出ばかりなんだろう場所で、そんな話ができるはずもなかった。



でも、なるべく早く言いたかった。あとあとになってそんなことを言い出すのは不誠実だと、僕は思うから。


もちろん今僕が両親を説得できるのがベストだけど、もしそれで完全に突っぱねられて彼女が僕のせいで傷つくようなことになるのも嫌だ。それなら、僕がもっと家庭内で発言力を得られてから宣言するのがいいと思っている。



でも、本当にそれでいいんだろうか?それは彼女に対して誠実な態度だと言えるのだろうか?



僕は自分が言い訳をして逃げているんじゃないかと思って、ちょっとの間考え込んでいた。すると、その様子に気づいたのか、美鈴さんが「どうかしました?馨さん」と声を掛けてきた。


「あ、ああ。なんでもないですよ。ちょっと考え事しちゃってて」


「でも、なんか深刻な顔してましたよ?」


心配そうな顔で水を飲んで、口元がグラスで隠れたまま美鈴さんはそう言った。僕もなんとなくグラスを引き寄せて水を飲み、テーブルに戻す。


「大丈夫ですよ。大したことじゃないし」


「そうですか…それならいいけど、馨さんって考え込んじゃう癖があるから、私にも話してくださいね」


そう言った美鈴さんに、「今は話せないんだけど」とは思いつつも、「はい。きっと」と返した。





やがてお姉さんが厨房からカウンターに出された二枚の大皿を運んできて、「はい、こちらがイワシとトマトのピザ、こちらが辛口サラミのピザです。辛味を足したい時は、そこにあるオイルをちょっと垂らしてくださいね」と言って、焼き上がったばかりのほかほかのピザを運んできた。「ありがとうございます」と二人でお姉さんに返事をして、僕はテーブルに乗った大きなピザから、香ばしく焼けた小麦の香りや、イワシの脂の美味しそうな香りなどを胸いっぱい吸い込んだ。


「美味しそうですね」


「はい!食べましょう!いただきまーす」


僕はまずイワシとトマトのピザを切り分けて手に取り、歯を立てて噛み千切ろうとした。チーズがとろけていて伸びるのが、やっぱり嬉しいな。できたてのピザを食べてるという気になる。でも、それより何より、驚いたことがある。美味しさだ。


びっくりした。僕も有名なピッツェリアで食事をしたことなどもあったけど、その時に感じた絶妙な具の量と生地の厚さ、それから焼き具合にも、このお店のピザは絶対に負けないと思えるくらい、美味しかった。一口目を飲み下してから、思わずもう一口、それからもう一口と、僕は何も言わずにピザを食べて、あっという間に一切れが終わってしまった。


「…美味しいでしょ?」


気がつくと、美鈴さんが僕の顔を覗き込んでいる。


「はい。びっくりしました。こんなに美味しいピザは久しぶりです」


「ふふ、よかったです。私もそっち食べていいですか?」


「あ、どうぞどうぞ。僕もそっちのサラミの方を…」


「あ、じゃあ切り分けますね」


「ありがとうございます」




そうして僕たちは二枚のピザをあっという間に美味しい美味しいと食べ終えてしまって、満足して一息ついた。



「はあ~。さすがにピザ一枚食べたらデザートはいいかな」


そう言いながらも、美鈴さんの目はカウンターの上に掲げられた黒板に向いている。そこには、「お決まりのデザート イタリアンプリン」と書いてあった。彼女はちょっと悩んでいたようだったけど、一度自分のおなかをちらっと見るようにしてから、テーブルに腕をもたせて僕を見た。


「また、来ましょうね」


「はい」





それから僕たちは図書館に向かう予定だったので、ちょっとしたら「Rosso e bianco」を出ることにした。すると、会計の時にシェフらしき人が奥から出て来て、僕たちに「ご来店ありがとうございます。よかったね美鈴ちゃん。聞いたよ、受かって勉強してるって」と声を掛けてくれたのだ。


「はい。だいぶ学校にも慣れて時間ができたし、来られました。今日も美味しかったです!」


シェフらしき男性は小さめのシェフ帽をかぶり、ピザの釜の近くに居たからか鼻の頭に汗をかいて、きびきびと体を動かす細身で背の高い人だった。きりりとした濃い眉と、鋭い光を持った小さな黒目、笑い皺の刻まれた顔をしたシェフの笑顔はとても頼もしく見えた。学校での様子などを話す美鈴さんに、体ごと元気よく頷くその姿は、僕も楽しくなってくるくらいだった。


それで、財布からお金を出す時に僕は、「とても美味しかったです。本当にびっくりしました」と、思わず口からついて出た。


「本当ですか、それはよかった。また是非!」


シェフはやっぱり元気よくそう返してくれて、機敏にお辞儀をした。


美鈴さんが僕のあとに会計を済ませている間、僕は店のドアを開けるためにレジを離れたけど、美鈴さんが財布をポシェットにしまおうとしている姿を振り向いた時、なんだかシェフが美鈴さんに何かを耳打ちしたあとのように、彼女の耳元から顔を離すのが見えた。


「ごちそうさまでした。それじゃあまた来ます!」


「ごちそうさまでした」


「はい、ありがとうございました!」




僕たちは外に出て、また駅まで歩いていたけど、僕はさっきのシェフの様子が気になっていたので、美鈴さんに聞いてみることにした。


「あの…さっきシェフに、何か言われてませんでしたか?」


どうしてそんなことが気になるのかというと、「もし僕についての話だったとしたら、ちょっと不安だな」という気持ちがあるからだ。


美鈴さんは急に、隣を歩く僕に顔が見えないようにうつむいた。僕はますます不安になる。


「…あ、あの…“彼氏、すっごい良い人そうで安心した”って…」


ようやく口を開いた美鈴さんの口からは思いもよらない言葉が飛んで出たので、僕は急に恥ずかしくなって、歩きながら縮こまる。


「あ、そ、そうだったんですか…」


「シェフの、宮本さんていうんですけど、私のことをいつも気にかけてくれてて、私の両親と友達で、お父さんが早くに亡くなったからっていうのもあるんだろうけど…私も嬉しいです、馨さんとのこと、喜んでもらえたから…」


美鈴さんも恥ずかしそうにしながら顔を上げて僕を見る、そして彼女の左手が僕の右手を包んで引いた。





僕たちは、図書館のある駅まで二度電車を乗り継ぐ前に、駅までの人通りが少ない通りで手をつなぎ、寄り添って歩いた。








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