第9話 別れ

 玄関のドアを開く。出迎えたのは無音の空間だった。

 もう7時だ。12月の太陽はとうに落ち切っている。光源を失った家は冷たい暗闇に覆われていた。


「お母さんは、まだ帰ってないか」


 忙しいって言ってたからな。今日もきっと夜遅くに帰ってくるんだろう。

 玄関と廊下の電気を付けた。スイッチの入ったLEDは真っ暗闇を照らし出す。

 明かりに一安心した私は靴を脱ぐのも忘れて、玄関の縁に腰かける。

 今日は色々ありすぎて疲れた。深呼吸と共に疲労感を押し出して、天上を仰ぐ。

 いじめてきた相手との再会、アルツさんの友達宣言、そして――


「仕事、か……」

  

 アルツさんが持ちかけてくれた仕事はとある同人ゲームのイラストレーターとしての仕事とのこと。私のようなタッチのイラストが欲しいらしい。顔の広いアルツさんには各方面からそういう話が舞い込んでくるとのことだった。

 ゲームの内容は女スパイを主人公にしたシューティングゲー(?)とのこと。シューティングゲーについてはよくわからないって言ったら、今度アルツさんが家に持ってきてくれるそうだ。割と簡単に距離を詰めて来るなぁ、ほんと。

 

「仕事ね――……」


 アルツさんが言うにはちょっとした仕事だからそんなに気張らなくても良いらしいが、私としてはそうも言ってられない。たかだか最近絵を描き始めた人間が、本当に仕事なんて果たせるのだろうか。

 疑問が頭をぐるぐる回る。独りぼっちの沈黙が耳に痛かった。何か耳に入れたいと、縋るようにスマートフォンのミュージックアプリを起動して、そこでようやくはたと気づく。


「マリーは……?」


 そうだ。あの口うるさいイマジナリーフレンドは、いつも側にいてくれたイマジナリーフレンドは一体何処に行ったの?

 振り返れば、喫茶店で現れてから一度も見ていない。アルツさんと居たときも、アルツさんから分かれた後も、マリーの姿を私は見てない。


「マリーー!!」


 大声で彼女の名を呼ぶ。ひょっこり現れたりはしないものかと期待する。あの人の聞きたくないことを嫌らしく言ってくる無神経な声を待ち望む。

 だけど。

 帰ってきたのは。

 無情な沈黙だった。

 

「――――っ」


 疲れた体を忘れて、靴を脱ぎ捨てた私はたまらず駆けだす。階段を駆け上り、私は急ぐ。

 マリーがいるとするならば何処? 

 答えは簡単だ。

 いるとするならば、マリーが一番最初に現れた私の部屋!

 ダンッ、とドアが壊れかねないほどに力強く開けて、私は暗い自室に飛び込んだ。それから部屋の電気を付ける。

 光が弾ける。眩んだ。

 いた。フリルが沢山ついたゴスロリ服のウェーブかかったブロンドの西洋人形のような見慣れた姿が。

 けれどもマリーの姿はこれまでよりずっと希薄で、彼女の後ろにある壁が透けて見えていた。


「マリー!!」

「そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるわよ」


 ニヒルな言葉使いはいつも通りで、だからこそ恐ろしかった。明らかな異常。体が透けて見えるにも関わらず、彼女はなんでそんな平然としていられるの?!


「マリー、体が……っ」

「そうね、透明になってるわね」

「何を呑気にいってるの! 体が透けてるってことは危ないんでしょっ。イマジナリーフレンドのことよく分からないけどっ」


 マリーが消える。その言葉が脳裏に浮かぶ。透けているということはそういうことのはずだ。


「一体何があったの? 私に何が出来るの!」

「其処まで心配してくれるのは、私個人としては嬉しいわね」

「マリー!」


 こんな時にそんな言葉は聞きたくない。汗ばむ体を動かして、私はマリーに掴みかかる。


「わ――っ」


 すかっと私の手は空を切った。そのままベッドに顔から突っ込んで無様を晒す。体勢を崩した勢いで、スマートフォンがベッドに投げ出されてしまった。

 よくよく考えれば当然だった。マリーは実在しないイマジナリーフレンドなんだから。


「何やってるのよ」

「う、うるさい」


 ベッドで姿勢を正す私に対して、マリーはベッドから降りて立ち上がる。なんだ、元気そうじゃん。


「元気とか、そういう話じゃないのよ、これは」

「どういうこと?」

「役目が終わったの」


 役目? 役目って?


「最初に言ったでしょ。私は貴女に何かを託されて此処に居るって」


 そういえば随分前に――随分前のように感じる――そんなことを言っていた気がする。

 でも、


「でも私、貴女が生まれた理由も託した何かってのを見つけてない!」

「それは違うわ。貴女はもう見つけてるはずよ」

「じゃあ何だって言うのよ!」


 思わず噛みつく。だって本当に分からない。分かるもんか。

 分かってたまるか。

 だけどマリーは、突き刺すように短く告げた。


「――絵」


 ――――っ。 


「大きな挫折を経験した貴女は導いてくれる誰かが欲しかった。それも情けない自分自身を罰してくれるなんて非現実的な――少なくとも貴女が思ってる――誰かをね」

「それが絵に、どうして繋がるの」


 なけなしの抵抗をする。なけなしだと分かっていながら、抵抗する。

 だから私と繋がっているマリーも分かっていた。私を見下ろすマリーの目は駄々をこねる子供を見ているようだった。


「貴女が導いて欲しかった理由は貴女自身が大きく揺らいでしまったから。貴女はいじめられることで自身が何をしたいのか、何をするべきなのかが分からなくなっていた」

「そんなのずっと分からなかった。いじめられる前だって、不登校になる前だって」

「ええ、だから正確には『分からない』という事実に強制的に向き合わされたと言う方が正しいでしょうね。そしてその不安定さは自分自身の存在意義をも揺らがせ、貴女はにっちもさっちもいかなくなってしまった」


 そして見つけたのが、


「絵。私がやりたいこと」

「あれだけ熱心に描いていたんだもの。好きなんでしょ」

「でもやりたいわけじゃ」

「好きじゃなきゃ描かないわよ、絵なんて。貴女だって言ってたじゃない」

 

 ぐう音が出ないとはこのことだ。そうだ。いくら口で否定しても、私は絵を描くことが好きだ。好きなんだ。だから描いた。あの日、マリーに導かれるままに。

 でもっ、だけどっ、


「そうだったとしてっ、マリーが消える道理なんてないでしょっ」


 だってそれだけだ。やりたいことが見つかった。絵を描きたいと思った。だから何? ただそれだけでどうして満足してしまうの。

 まだ一人じゃ歩けない。まだ私には手を引いてくれる誰かがいなくちゃ、怖くて外なんて歩けない。


「馬鹿ね、一人じゃないでしょ」

「一人だよっ。私にはマリーしかいないもん!」


 マリー以外に誰がいるって言うの。私と一緒に外を歩いてくれる人なんて。

 けれどもマリーは自信たっぷりにこう告げる。


「アルツのこと、もう友達だと思ってるでしょ」

「なっ、たった一回オフ会やったくらいで友達認定するわけないでしょ!」


 そこまで簡単に私は心を許さない。友達になんてなれるわけがない。

 友達は時間をかけてなるものだ。一緒に話して、一緒に楽しい時間を過ごして、そして時には励まされたり励ましたりして--


「じゃあこれまで貴女たちがしたことは何だった?」


 言われて私は振り返る。

 SNSではあるけどお話し(?)して、オフ会でまぁ楽しい時間を共有して、嫌なことがあったけど色々話を聞いてもらって励ましてもらって……


「それって、貴女の言う友達のそれと何が違うのよ」

「だ、だってSNSで交流してたとはいえ、アルツさんと会ったのは今日が初めてだし、時間なんて大して共有してないし……」


 ごねる私に、マリーはくすりと笑ってこう告げた。


「友達になるのに必要なのは時間じゃない」

「じゃあ、何が必要なの」

「そんなもの決まってるでしょ。楽しい思い出よ。ねぇ、朱莉? 貴女は今日、楽しかった?」


 今日、私は楽しかったのか。

 そんなもの決まってる。


「楽しかったよ!」


 初めて私の絵を好きだと言ってくれる人と会った。

 初めて誰かと喫茶店に行った。

 初めて悩みを聞いてもらった。

 初めて絵の仕事の誘ってもらった。

 初めての体験が盛りだくさんだった。

 そんな一日が楽しくないわけがない。

 やめろ、やめろ、やめろ。

 駄目だ。認めちゃ駄目だ。絶対に駄目だ。

 だって認めてしまうということは、アルツさんを友達だと認めてしまうということは、マリーの消滅を決定づけて認めてしまうことなのだから。

 消えていく。大人びた振舞いをする人形のような彼女が。

 どんどんマリーが溶けるように薄くなって、透けていく。薄くなった彼女はまるで多すぎる水で溶かした絵の具で描いた絵のようだった。もうほとんど消えかかっていて、マリーの後ろがはっきりと見えるくらいだった。

 もう取返しがつかないこと私は悟る。マリーが消えていくことをもう止められない。私と彼女は結末へと一息に転がり落ちていく。

 

「……ひっく」


 喉がしゃくり上げた。腹の底から湧き上がるその衝動に耐えられるはずもなく、私は涙を流しながら何度も喉を鳴らした。

 マリーが目線を私に合わせるようにしてしゃがむ。


「泣かないの」

「だって、だってぇ」

「最初、貴女は私のことを疎んでたじゃない」


 呆れが混じったマリーの笑みに涙を拭う私は思う。

 確かに最初はそうだった。当時の私にとって彼女は私の心をかき乱すよく分からないものだった。だから意味が分からなくて遠ざけ、また嫌った。口調も態度も悪かったし。

 だけど今は違う。

 初めて悪態を吐きあった。

 初めて好きなものを肯定してくれた。

 初めて悩みを聞いてもらった。

 色んな初めてを共有したマリーとの時間が楽しくないわけがない。

 だから、マリーは、マリーの言葉に従うならば、私が引きこもっていた時に出来たもう1人の友達なのだから。

 それこそネット上の付き合いでしかないアルツさんよりも、よっぽど深い絆で結ばれた。

 ねぇ。


「いかないでよ」


 消え入りそうな声で私はお願いする。


「いいえ、いくわ」


 さっぱりとした声でマリーは答える。


「私はイマジナリーフレンド。いつか卒業する誰か。一歩踏み出した貴女に私はもう必要ない」


 そんな悲しいことを、さも当然と言うように言わないで欲しかった。

 卒業なんて勝手にさせないで欲しかった。

 マリーの姿はもうほとんど見えなくなっていた。こ憎たらしい口を利く、フリルが沢山ついたゴスロリ服を着た少女を見るには目をしっかりと凝らさないといけなくなっていた。

 終わりが、追い付いたのだ。

 喉の蠢動は止まらず、零れる雫はただ流れ落ちていった。肩は震え以外を忘れてしまったようだった。

 泣きじゃくる私にマリーは今までにないくらい優しい声でこう言った。


「泣かないで。これまでも、これからも私は貴女のたった一人の友達なんだから」


 私の涙を拭うように頬に触れたマリーの指先が消える。


「――っ! マリー!!」


 はっと顔を上げ、呼んだ名前に答える声はなかった。

 あったのは耳に痛いほどの沈黙とやたら広く感じる自室、そして独りぼっちの私だけ。

 忘れかけていた一人の冷たさが身に染みる。

 私はそっと彼女が触れた頬に手を伸ばす。

 イマジナリーフレンド。それは私だけの幻覚。分かってる。

 でも、それでも彼女が触れた私の頬にあるはずのない温もりが残っていた。

 そんな時、私のスマートフォンが通知音を鳴らす。目だけを向けて確認すると、涙で滲む視界でも確かに『樋坂 美希』という名前が見て取れた。

 誰だっけ? 茫然とする頭で振り返り、アルツさんの本名だったことを思い出す。SNSじゃない連絡先も交換したんだった。

 通知欄から見える送られてきたメッセージの内容は私の家に来る日の提案だった。

 そうだ。お仕事の話が来てたんだった。

 マリーがいなくなっても日々は続く。私の友達が一人いなくなっても、関係なく。そんな当たり前の事実を私は再度自覚した。

 だったら私が今すべきことは、取り戻せないものを嘆いてベッドの上で蹲ることじゃない。

 マリーはなんて言っていた? 役割が終わったと言っていた。だから消えるって。

 世界に怯え、人生に迷う不登校の少女はもう此処にはいないのだ、とそう言っていた。

 だから、


「私、頑張るよ。マリー」


 消えていった友達に胸を張れるように、私を認めてくれた友達に誇れる私にならなくちゃ。

 私はそう決意して、ベッドを跳び下りる。

 立ち止まっている時間は終わった。もう私は歩き出せる。

 一人でも、一人ぼっちじゃないのだから。

 そうして私はベッドに無造作に投げ出されたスマートフォンを手に取った。

 

「私の予定は――」

 

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