第8話 許し
ぎーこー、ぎーこー。
夕暮れに染まる公園の、さび付いたブランコが鳴く。隣のブランコでアルツさんが勢いよく立ちこぎをしている。私はその隣で寒風に打たれていた。
喫茶店を出てから、ずっとこうしていた。お互いに、何も言わずに。
「……………………」
「……………………」
橙色の背景に黒い影が伸びる。ぎーこー、ぎーこーと大きな影の1つは錆びついた音を立てて動き、小さな影は動かず縮こまっていた。
長い沈黙を破ったのは小さな影の方だった。
「一体何だったのか、聞かないんですね」
「……聞いて欲しいんスか?」
「…………」
思いも寄らない返答に私は口を閉じた。
私は一体どうして欲しいんだろう。
そこで私は傍と気づく。
(こういう時、マリーがいつも色々言ってくれるんだっけ)
けれども今、彼女はいない。一体何処に行ったんだろう。だけど、いないなら私は私自身がしたいことを自分で決めなくちゃならない。
「……私は――っ」
血を吐くような気持ちで私は初めの言葉を吐き出した。
「――私はいじめられていたんです」
始まりは中学1年生の9月だった。クラスで無視をされるようになったのだ。主犯格はクラスで目立ってた女子生徒。さっき喫茶店で出くわしてしまった子だ。ほとんど話したことがなかったけど、多分だからこそ標的にされたんだと思う。
2年生になってクラスが変わってからも彼女とそのグループの私に対するいじめは続いた。むしろもっと酷いことになった。それこそ思い出したくないほどに。
いじめが始まって以来、ずっと耐えてきたけど、耐えること出来たけどっ、2年生の夏休みが終わる時にはもう、駄目だった。
だから、私は、
「今、不登校なんです」
平日の昼間から家にいるのも、母親と顔合わせがしにくいのも、そういう理由があるからだ。
学校に行きたくない、行けない。行こうとすると、胸が苦しくなって立ち眩みがしてくる。締め付けられた心臓がそれでも強く脈打って、歪な脈動が胸元からせり上がってくるような感覚が私に襲いかかるのだ。
「情けないですよね、ほんとに……」
何をやっているんだっていつも思ってる。でも、何をどうすることも出来ないでいた。何をすれば良いのかが分からないんだ。私じゃ世界を動かせない。世界を動かすほどの力なんて、ない。
いつだって私は、私を取り巻く世界に対して項垂れることしか出来ない。
下に向けた目線は、いつの間にか長くなっていた影を見た。太陽が沈んでいく。地平線の下へ、下へ。
パッと公園内の灯りがほの白い光を生んだ。夜が近づいてきた。暗く、冷たい冬の夜が。
自動車が通りすぎる音がした。それに紛れ、アルツさんのポツリと呟いた一言が私の耳朶に届いた。
「情けなくなんかないっスよ」
思わず顔を上げた。
「確かに不登校は外聞はよろしくないかもっスね。明らかに普通じゃない」
「……………………ですよね」
「でも、普通じゃないからこそ素晴らしいと思うっス」
素晴らしい……? 不登校が? 訳がわからない。
「だって普通じゃないことをするのって、きついっスよね?」
「それは、まぁ。針のむしろな気分ですけど」
普通からずれることには常に不安が付きまとう。だって普通から外れるってことは周りと違うってことだ。他人は変な目で見るだろうし、社会は冷たい。特に就職では絶対にマイナス評価になるだろう。
私のような人間が生きていくためにはそういった負の状況を跳ね返さなくちゃならない。
とはいえ、そんなことは出来ないから、いつだって息の詰まるような思いをしているんだけど……。
アルツさんは言う。
「普通じゃないことは大きなエネルギーが必要なんス。途方もないエネルギーが。それを選び取るのは勇気が滅茶苦茶いると思うんスよね」
「でも、私はただ単に逃げただけですよ……」
選んだわけじゃない。現状から逃げただけ、楽な方に流れただけ。そんな格好いいものじゃない。
「逃げじゃないっスよ」
じゃあ、何?
「『戦い』っスよ、世界との」
「世界との、戦い?」
「そうぉっっっっス!」
アルツさんが飛んだ。ブランコを大きく漕いで、勢いを付けて、深く屈伸して、天高く飛び上がるように。
翻るパステルピンクのコート。それは大空を羽ばたく鳥の羽のように見えた。白くも、青空でもないけれど、彼女の飛ぶ様はあまりにも雄大に見えた。
眩しい。ただそう思う。
大きな弧を描いて跳んだアルツさんはブランコを囲む柵の向こうに着地した。
「世界は優しくないっス。だから思うように生きるには、生きたいと思うように生きるには世界と戦う必要がある。だからルージュ先生は自分が生きるために、戦ってるんス! 不登校で部屋に閉じこもってる時だって、今この時だって!!」
右の人差し指を天へ向け、アルルさんはくるりと振り返る。
振り返って、こちらを見た顔は満面の笑みで、
「胸を張れっ、若人!」
背中を押す言葉が黄昏の静けさに響く。
「そう思っても良いんでしょうか……」
じわり、と視界が滲む。
「私は私を許しても良いのかな?」
弱い自分を認めてしまっても良いのかな?
アルツさんは、アルツさんは大きく笑い飛ばすようにして、大きな声で、その小さな体からは想像もつかないほど大きな声で言ってくれた。
「良いんスよ!!!!」
その言葉に、私の中の、私自身をせき止めていた堰が壊れてしまった。
「うっく、ひっ……ぅ、く、っ、っ……うぁ、うぁぁぁぁぁぁぁ」
涙がこぼれる。拭いても、拭いても、拭ききれない。
恥も外聞もなく、私は泣いた。初めて泣いたと思うくらいに泣いた。
そっと温もりに包まれる。アルツさんが柵を飛び越えて、私を抱きしめてくれていた。
「そもそもルージュ先生の周りの人は先生のことなんて責めなかったでしょう?」
「うん……うん……っ」
お母さんは私のことを責めなかった。自分を責めていたのは、いつだって私だけだった。
「す、すびっ、ません、アルスさん……っ」
「良いんですよ、泣きたいときは泣けば。私たちはもう友達なんスから」
友、達……?
「私と、アルツさんが?」
「そりゃオフ会一緒にすれば、友達っスよ!」
「そんな簡単になれるもの、なのかな?」
もっとこう時間とかいろいろあると思うんだけど……、うん、まぁ良っか。アルツさんが笑ってるし。
最後の涙を拭い去る。すっかり濡れてしまった袖は冬の風に当てられて、少し……いやだいぶ冷たかった。
それからアルツさんの抱擁を解いてもらうと、私は立ち上がる。
私の影が縦に真っ直ぐと伸びた。夜の帳は落ち切ってもう真っ暗になっていたけれど、それでも夕日が沈み切る直前の煌々とした橙の光を受けて、影はくっきりと見えていた。
「立ち上がるには遅くないでしょうか」
「遅いなんてことはないと思うスよ」
「わかってるんじゃないっスか」。続くだろうそんな言葉が聞こえなくとも、はっきりと聞こえた。
なら私は、私は――やり直しても良いのかな。
きっと、いや絶対にやり直して良いんだ。やり直せば良いんだ。
やり直せないと思っているのは、私だけなんだから。やり直しちゃいけないって、勝手に思い込んでるだけなんだから。
私は立ち尽くす。動き方を忘れて、まるで人形みたいに。
ただ一歩が重い。初めの一歩が重いんだ。
そんな私を見て、アルツさんは一歩距離を取った。それから軽やかなステップでくるりと一回転。それから向き合ったアルツさんは、悪戯っぽい笑顔を浮かべてこう言ったのだ。
「ねぇ、ルージュ先生。お仕事、しないっスか?」
…………お仕事?
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