第3話 母親
相も変わらずうんざりするくらい晴れやかな空の昼下がり。今日も今日とて自室に籠り、私は筆を走らせる。
絵を描き始めてから3日が経った。上達度合いはよく分からない。
「いや、だいぶ上手くなってると思うわよ。びっくりするくらい」
と、描きかけの絵に対してマリーは言うが、結局自画自賛なので納得いかない気持ち。マリーが分かっているということは私は自身の上達を理解しているということなのだろうけど、私には何処が上達しているのか分からない。むしろ下手になっている気さえする。
「上達すれば上達するほどダメなところが見えてくるってやつよ。上手くなるっていうことはそれだけ欠点が見えて来るってことなんだから」
「そういうものなのかなぁ」
「そういうものでしょ。人が空を飛ぶ鳥の苦労を知らないように、鳥が二本足で歩く人の苦労を知らないようにね」
知らないことを正しく計れない。判断に用いる物差しを作り上げることが出来ないから。知れば知るほど物差しが出来上がっていき、的確な判断が出来る。つまりそういうことなのだろう。
「それより、例の件は解決したの?」
「う、忘れてたことを思い出させないでよぉ」
「でも大事なことよ? 頼みにくいだろうけど」
「頼みにくいってところが問題なの。全くどうすれば良いって言うの」
「素直に頼めば良いじゃない、素直に。今の貴女の状況を鑑みて、多少の我儘を聞き入れてくれる度量を持っていると思うのだけど」
うー、うー、うー。
確かにマリーの言う通り。でもだからこそ出来ない相談なんだ。それはただやさしさに甘えているようで嫌だった。
理由が欲しい。あるいは大義名分が。じゃなきゃ、私は――ぐー。
「う……」
「ふふ、可愛らしい音」
「笑うなぁっ」
「もう正午前だものね、そろそろ昼食を食べたら?」
「そうだね、きっと作り置きが――」
と言いかけた私の声を妨げるような声が来た。
「朱莉、昼ご飯よー」
母親の声だ。
■
部屋を出る。影落ちる二階廊下は日が当たる自室と比べて肌寒かった。冬が近いのだと、そう感じる。少し身震いしてから私は階下の光が朧げに見える階段へと足を向けた。
トン……トン……トン……、と小気味良い音がする階段を下りていく。重たい脚を持ち上げて、一段下へ、下へ……、下へ…………。
降りれば降りるほど足は重くなる。躊躇いが生まれ、踏み出す一歩が遅くなる。
後ろめたいのだ。私がいるこの状況、この現在が。だから母親と会うことはできる限り避けてきたし、遠ざけてきたのに……っ。
足が止まる。最後の1段を残して。あと一歩だけ踏み出せば、1階に着く。けれどもその1段が私にとってはあまりにも遠かった。
「別に良いのよ、ここで諦めても。きっと誰も攻めはしないわ」
「——こういう時だけ、私に都合の良いこと言わないでよ」
優しくされると調子が狂う。テレビで見たDV彼氏みたいだ。いつもは暴力を振るうけど、時々優しくして彼女の心を惑わすやつだ。
「騙されないからね」
「変な誤解してないかしら?」
疑問顔のイマジナリーフレンドを無視して、深呼吸を1つ。
何れは立ち向かわなければならない問題。此処で立ち止まっていても仕方がない。
「――よし」
覚悟を決める。
それでも脚が震えて、倒れそうになる体を手すりを掴んで支える。
行ける。行ってみせる。
再度一呼吸。そして私は重たい最後の一歩を持ち上げ、降ろした。
一階に下りたのだ。
■
リビングに入ると、既にテーブルにはナポリタンが盛られた皿が2人分並べられていた。ケチャップをふんだんに使った味の濃いナポリタン。赤と白のコントラストが眩しくて、立ち上る湯気が出来上がったばかりの料理だと教えてくれている。
私はぼそりと言った。
「……お母さん」
「あら、遅かったわね。もしかして何かしてた?」
洗い物をするお母さんは肩越しに振り返る。
力強い母親だった。お父さんが私の小さい頃に死んでから、ずっと1人で私を育ててくれた母だった。
ぎゅっ、とズボンの裾を握りしめる。
「朱莉、大丈夫?」
イマジナリーフレンドが語り掛ける。うるさい、今話しかけるな。
「なんで其処に突っ立ってるの。私に遠慮せずに食べ始めなさいな。こっちもすぐに終わるし」
「……うん」
軽快に笑うお母さんとは正反対に私は暗い口調で頷いた。
椅子を引いて、席に着く。目の前ではナポリタンが湯気を立てて待っている。
けれども、どうしても銀色のフォークを握ることは出来なかった。
「どうしたの? 食べないの?」
「食欲がなくって」
「最近、食欲ないことが多いわね」
お母さんの言葉を私は曖昧に首肯する。
別に『最近』食欲がないわけじゃない。違う。お母さんの前だから食欲がないだけだ。
「きちんと食べないと駄目よー」
「うん……」
言われて私はフォークを手に取る。金属の冷たい感触がひやりと指先に伝わった。
赤い麺の山に銀の三又を突き刺して巻く。くるくる。巻いた赤い塊は一口サイズほどにまでまとまり、それを一口で頬張る。
口いっぱいに広がるケッチャプの酸っぱさとしょっぱさ、そして仄かな麺の甘み。何も変わっちゃいない、小さなころから慣れ親しんだ母の味だ。
「…………おいしい」
「そ、良かったぁ」
そう言いながら、お母さんは私の対面に座った。それからフォークを握り、私と全く同じように食べた。
「ん~~~~我ながらさいっこうの味付けね!」
自分で作ったものを躊躇うことなく自分で褒めたたえるのはちょっと自尊心高すぎないかな。
けれどもそれが私のお母さんだった。自信満々で、力強くて、肩で風を切るような人だった。
だから、私は――
「――ごめんね、お母さん」
「突然どうしたの?」
「…………こんな娘で」
お母さんが目を剥いた。そりゃそうだよね。突然こんなことを言い始めたら。
でも、どうしたってこう思ってしまうのだ。
凄いお母さんだと思う。一番近くから見てるから、よくわかる。反面、私はどうだろう。平日だって家にいて、イマジナリーフレンドなんて現実逃避をしている。そんな私は果たしてお母さんのような人間の娘として相応しいのだろうか。
「馬鹿」
「あいたぁっ」
額が強く弾かれた。お母さんの右手が狐のような形して放たれた中指、つまりはデコピンによって。
「きゅ、急に何するの!」
「私から言わせれば急に何言ってるのって感じよ、この馬鹿娘」
「だ、だって……」
「だってもくそもない。この大馬鹿娘」
まったく、とお母さんは呆れの溜息と共に言ってから、
「あんたがね、色々考えてるのは分かるわよ。こういう状況になって、まぁ、考え込んでしまうのは。アンタは真面目だからね」
「…………」
「でも、それは親から言わせれば、要らぬ気を回すなって話」
粗雑にお母さんはナポリタンを口に放った。そして咀嚼して、喉を鳴らして飲み込んで、コップのお茶を胃に流し込む。
「良い? あんたはまだ子供。だからこそ失敗することもあるでしょう。そして失敗したあんたを支えるのが大人の、もっと言えば親の役目。だからあんたは精一杯悩んで、うだうだしてれば良いの」
「そう、なのかな……」
「そうよ。それにあんたは何もサボっているわけじゃあないでしょう? 諸々のことを」
「うん」
「なら良いのよ」
「…………」
本当に良いんだろうか。それで良いんだろうか。甘えてしまって、良いんだろうか。
そんな逡巡を悟るようにお母さんは言った。
真剣な目で、大真面目な顔で。
「甘えて良いのよ。むしろ甘えるのが今のあんたに必要なこと。子供が傷ついたら、甘えさせてあげるのが親の役目」
それから最後に、冗談めかして付け加えた。
「ま、甘え続けるようなら、尻を蹴っ飛ばすけど」
「そ、それは必要ないよっ」
予想もしない提案に私は急いで反論した。けれども、すぐに笑いがこぼれる。
「あ、ははは」
そっか、甘えていいんだ。甘えてしまって良いんだ。
胸の中のどろどろしたものが消え去ったような気がした。胃の重いものがなくなったような気がした。
どうしてだろう。熱々のナポリタンがたまらなく美味しそうに見えるのは。
「例の件、言い出す勇気は出来た?」
忘れた頃にイマジナリーフレンドの声だけが響く。
わかってる。お願いしよう。気兼ねなく、堂々と。
私はフォークを置くと、お母さんに頭を下げてお願いした。
「私、ペンタブが欲しいの」
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