第2話 好きなこと
「『私は英語ができます』っと」
「いいえ、『must』の訳は『しなければならない』よ。『できる』は『can』だわ」
「あ、そうだった」
「だけど英語が出来なければならないってどういう状況?」
「さぁ? 留学にでも行くんじゃない?」
勉強机に向き合って、ノートにペンでカキカキカキ。英語の教科書とにらめっこしながら、学校の問題集を解く。
11月も半ばとなって、空気の冷え込みに比例するように学校の指導内容も難しくなっていく。きちんと学力をつけるために毎日の勉強は欠かせない。平日の昼下がりは眠いけど、窓から伝わる外の冷気がちょうど良い眠気覚ましになってくれている。
「英語は面倒ね。どうして日本人なのに学ばなければならないのかしら」
「最近はグローバル化って言って、英語が必要な場面が多いの。きちんと勉強しなきゃなんだよ」
「ふぅん? 世界が繋がるってのも面倒ねぇ」
「っていうか、私のイマジナリーフレンドなのに、なんで私が知らないことを知ってるの?」
「あら、それは誤解よ。貴女が知っていることを、貴女が忘れているだけなの。貴女のイマジナリーフレンドの私が貴女の知らないことを知っているわけないじゃない」
そう言って、マリーは小馬鹿にするように笑った。ちょっとだけ、いや、だいぶムカつく。
「ふんだ。すぐにマリーの手なんか借りなくて済むようになるんだから!」
「ふふ、そう。それじゃあ頑張ってね」
マリーはいやに優しい口調で励ました。その余裕がいちいち苛つく。
苛立ちを飲み込んで、私は勉強の筆をもくもくと進める。勉強をすることは嫌いじゃなかった。好きかと言われれば、違うと答えるけれど。ただ自分を磨くことは立ち止まってないという証明な気がして心地が良い。
だけど、そんな私の気持ちを無視して、マリーはお気楽に告げる。
「しっかし、勉強熱心ねぇ。どうしてそんなに勉強するの?」
「将来のため……とか。別に勉強は嫌いじゃないし」
「とりあえず勉強しとけばなんとかなる!」というのはお母さんの言葉。実際、学歴社会な日本じゃ学歴持って置くのは良いことだと思う。
「勉強が嫌いじゃないのは中々どうして褒められたところだと思うけど、でも何処までも良い子ちゃんね」
「良い子ちゃんで何が悪いの?」
「悪いとは言ってないけど物足りなくないかしら? 色んなことをやってみたら良いと思うの。幸いにも時間はたっぷりあるんだし」
「んぐっ、それは私に対する嫌味ぃ?」
「ただの事実ー」
く、どこ吹く風な様子が憎い。だけど私は反論できず、口を閉じることしか出来ない。それが一番悔しい!
「イマジナリーフレンドのくせに……っ」
「甘い言葉をかけてくれるだけが友達じゃないわよ?」
「もう少し優しくしてくれたって良いでしょ」
「そもそもイマジナリーフレンドって優しくする存在なのかしら」
……知らない。でも私から生まれたんだから、もう少し私に都合良くても良いのにって思う。
そんな私の不服が顔に出ていたのか、マリーはいつも通りに上から目線の笑みを浮かべるとこう言った。
「とりあえず自分のやりたいことをやってみるべきだと思うの」
「やってみたいこと?」
「あるいは好きなことと言った方が良いかも」
良い? とマリーは念を押してから、
「貴女はこれまで真面目に勉強をする良い子ちゃんだった。でもね、それは嘘の貴女なのよ」
「嘘をついてるつもりはないけど……」
「じゃあ心の底から本当に好きなことだって言える?」
「それは――」
それは言えない。だって勉強をしているのは『やりたいから』じゃなくて、『やるべきだから』で、もっと言えば『やれるから』。勉強をすることに私の正直な気持ちは籠ってない。込める余地がない。必要だからするものに、やれるからするものに一体どんな思いが込められていると言うんだろう。作業と同じくらいにしか私は勉強に心を砕いていない。
「貴女の目的を忘れないで? 貴女の目的は自分探し。だったら思いが微塵も籠ってない勉強なんかしたところで、何の意味もないわ。自分とは思いにこそ宿るんだから」
正直言ってる意味は少しもわからなかった。私のイマジナリーフレンドなのに私の知らないことばかり言ってくる。いや知っているけど、私が知らないふりをしているというだけなのかな。さっきマリーが言ったことが正しいなら、彼女は私の知らないことを知っているわけがないんだから。
だからもう少し単純に考えてみようと思う。知っている、しかし忘れている。なら結論までの道筋だって既に自分の中にあるものだ。
なら、マリーの言うことに従ったって良いと思うんだ。
「あら、突然どうしたの?」
「好きなことってヤツをやってみることにするよ」
机の引き出しをさばくってごそごそと。整理整頓がされてないからごちゃごちゃしてるから、積もりに積もったものを逐一机上に置いていく。確か小学生の頃に使ってたものがまだ残ってた気が……
「あ、あった」
取り出した目当てのものはピンクの下地にファンシーな柄の装丁の1冊のノートだ。表紙には『じゆうちょう』と確かに自分の筆跡で書かれていた。
「それが貴女の好きなこと?」
「うん、私は絵を描くことが好きなの」
『じゆうちょう』を開く。開いたページには鉛筆で書かれた有名アニメの美少女キャラがいる。小学生の頃に好きだった生徒会長のキャラだった。自分を頂点に立つ人間だと考え、事実その通りに高い能力を持つ彼女が凄く魅力的に見えた記憶がある。
「上手いわね」
「マリーは既に知ってることでしょ。この絵は小学校の頃のものなんだから」
「記憶と実際は違うわよ。写真のダヴィデ像とアカデミア美術館の実物が同等だなんて言わないわよね?」
それは確かに……とはいえ私の絵に偉人と同列に語られるほどの価値があるとは思わないけど。
隣でほぉほぉなどと鳴くフクロウになってしまったイマジナリーフレンドを意に介さずに私はページを捲った。
懐かしい、とそういう思いが最初に来る。この自由帳に描かれている絵は小学校6年生の時に描いたものの一部だ。書いていたのは当時はまっていたアニメや漫画のキャラクターたちで下手くそながらに必死に書きまくった記憶がある。
「いや、上手と思うわよ、貴女の絵は」
「下手だよ、全然。だから書くのを辞めたんだし。極めようとも、極められないと思って」
「たかだか14年の研鑽で諦めるのは早計すぎるわ。そもそも好きなことは極める・極めないという話じゃないでしょうに」
「でも時間は限られていて、するべきことの優先順位があるでしょ。より価値のある勉強に時間を掛けるのは当然じゃない?」
私がそう問うと、マリーは笑んだ。まるで待ってましたと言わんばかりの笑みだ。
そして私のイマジナリーフレンドはこういう風に笑う時、こちらが言って欲しくないことを言ってくるのだ。
「その価値は誰にとってのそれ?」
「私にとってのそれ」
「嘘つき。貴女だって本当は分かっているんでしょう」
あぁ、そうだ。これは嘘だ。嘘以外の何物でもない。
だって勉強は私が『やりたいから』やってるんじゃない。『やるべきだから』やっている。つまり私の意志ではなく、私以外の誰かの意図でやっている、誰かの意図に従っている。
では果たして、それは私にとって価値のあるものと言えるだろうか。
「価値とは自らの手で生み出すもの。すなわち自らの心に従うもの。他人の基準に照らし合わせて、従っているようじゃあ価値とは呼ばないわ」
「じゃあ、なんて呼ぶの?」
「妥協よ」
そう短くまとめられると、途端に悪い物に思えてきた。妥協。確かに大事だけど、だからといって私的には認めたくない。『負けた』感じがするから嫌だ。
「その『負けた』って気持ち、大事にしないとだめよ?」
「心の中を読まないでよ……」
「だって私はイマジナリーフレンドだもの。貴女の思考なんて筒抜け」
ぐぬぬ。確かにその通りだけど、だったらこっちだってマリーの頭の中を覗けたら良いのに。一方通行の思考の行き来は不公平で、不平等だ。盗聴や盗撮されてるみたいで気持ちが悪くて仕方がない。
「一応注釈入れておくけど、私との会話は自問自答みたいなものだからね」
分かってて言ってるんだよ!
「マリーは気遣いが足りないよね」
「自分自身に不要なものよ、それは」
正論だからこそ、やはりムカつく。そのムカつきを目の前のキャンパスにぶつける。
モデル……モデルはマリーで良いか。マリーで良いか? マリーしかいないからマリーにしよう。私の下手な絵で描かれれば、多少の意趣返しにはなるだろう。
「へぇ、そういう風に描くのね。線に線を重ねて、実像を作っていくか」
「短い線を重ねることで、絵の輪郭が滑らかに描けるのよね。まぁ、正しい描き方かなんて私には分からないけど」
「良いのよ、正しさなんて。好きなことに正しさなんていらないでしょう?」
確かに正しさなんて求めてたら、堅苦しくて仕方がないかもしれない。そうだったら好きなことを好きなことって言えない気がする。
好きなこととは自分のためだけのものだ。其処には自分だけが在れば良い。
小さな線を重ね、1つの大きなものを作り出す。しゃっしゃっとノートがペン先を削る音が心地よい。久しぶりの感覚だった。絵を作り上げるという快感は。
そしてこの快感に飲まれそうになった私は恐れに背を押されて、傍らの自分に問いかける。
「でもいいのかな? 好きなことだけして?」
「後悔のない人生を送りたいなら、好きなことを出来る限り沢山することが大事よ。後悔のない選択なんてない。逆を言えば100%の幸福だってない。結局苦楽を共にするなら、楽が多い方を選ぶのが良いと思うけど」
マリーはそう言い切って、最後に「何事もバランスよ、バランス」と付け加える。
まぁ、そうだ。『やりたいこと』と『やるべきこと』。このバランス感覚を過たなければ、私の心配は無用なものとなる。
「それで良いのかな」
「良いのよ、それで。別に良い子ちゃんでいることが絶対の正解じゃないんだから。絶対の正解なんてあったら、世界をもっと簡単でつまらなかったわよ」
珍しく素直に同意できる言葉が来た。私のイマジナリーフレンドも偶には良いこと言う。
不思議とペン先が軽くなる。滑らかになった手つきで1枚の絵が速やかに描きあがる。
「できた」
久しぶりに絵を描いた。久しぶりでも結構描けるものである。
マリーが素直に破顔して言った。
「これ私? 綺麗に描いてくれてありがと」
「べ、別に綺麗に描いたわけじゃ……――にへへ」
うん、相手が自分自身とはいえ褒められるのも悪くない。あんまりそういう経験がないから、だいぶ、いや、とてもむず痒いけど。
うん、もう少し描いてみよう。もっとたくさん描いてみよう。疲れるまで描いてみよう。
そうすれば、きっと、探せと言われた自分というものが見えて来るのかもしれないから。
あれ、なんか違うような……?
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