第4話 怖い人怖くない人
その晩、私はなぜか良一君の目の前で眠くなって、寝てしまった。ダイニングには一応ソファはあったし、なんとかそこまで這って行ったけど、一人掛けで安物のソファだし、起きた時に背中や首が痛かった。
「ああ~、寝ちゃった…。良一君…?」
呼んでも返事は無い。それに、朝の光がカーテンの隙間から差し込み、乱雑な部屋の中に落ちてあらゆるものに反射し、部屋の中が温かな光でうっすらと満たされている様子は、「いつもと変わらない私の部屋」だった。
「夢…かな…?」
一瞬、本当に全部夢だったかもしれないと思ったけど、私の目は、眠る前に見た良一君の泣き顔と笑顔を、覚えていた。
「初めはお姉ちゃん気付いてなかったけど、不思議だね、今は見えるんだ」と、良一君は爪先を抱えて嬉しそうに笑っていたのを思い出す。
それで考えてみたけど、初めは気付かなかったのにいつの間にか私に見えるようになったわけじゃなくて、もしかしてそれは、「丑三つ時」というやつの仕業なのではないか、と私は思った。
「草木も眠る丑三つ時…」
「な、なによ急に…」
私の隣に居た美絵が驚いて少し身を引く。あ、そういえば講義の途中なのに。
「なんでもない」
前を向くと、教授はちょうど大きな声で「ここから大事なところですからしっかり聴くように!」と生徒に呼び掛けていて、私の支離滅裂な呟きには気付かなかったらしい。はあ、良かった。
それにしても、教授いっつも適当だなあ。教科書を音読する以上の事する時がほとんど無いじゃん。眠くなってきて当たり前よ。そう思って私は欠伸をかみ殺す。
「自らの熱弁で生徒の胸に興味関心を呼び起こさせる努力はしないのに、生徒の態度次第ですぐにへそを曲げてねちねちとしつっこく説教をする」教授の理不尽な性格を考えれば、学内で一番小さい講義室が割り当てられているこの講義で堂々と欠伸をしていたら、「帰りなさい、次から来なくてよろしい」と言われて、「私が悪うございました、どうぞそのまま元の通りにお話しをお聞かせ下さい」くらい言わなきゃ、「居ない者」として扱われる。
教授はこの科目の抗議が始まる前にこう言った。
「私のテキストは、必要な事が充分に書いてあります。その中で特に書き切れず、やむを得ず削った箇所については皆さんにお聞かせしますし、それから講義中に質問があれば必ずお答えします。自分の意欲を自分で育てる事。これは学ぶ上で一番大切ですから、自分でやって覚えていきましょう」。
でも、「充分必要が満たされたテキスト」に、どうやって疑問を持てって言うんだろう。無茶苦茶だ。そりゃ、ちょっと分かりにくいというか、この科目は難しいと言われているけど、レポートも講義に出席さえしていれば、判定はまあまあのところが取れる。教授のコメントは、「もう少し疑問の追究をする姿勢が欲しいところです」、なんて書いてあるけど。
まあいいや。こんなこと考えてたって楽しくないし、今の私に答えが出せないからどこまでも続くんだろう。
家に帰ったら、良一君に会えるかな。真夜中にしか会えないのかもしれないなら、夕方に少し寝ておこう。そう思って私は、教授の説明する、ヨーロッパの血塗られた栄光についてを、すっぱり聞き流す事に決めた。
「私この後もう終わりだけど、涼子は?」
いやーな教授の講義から解放された私たちは、学生課の前にある自動販売機でパンを買おうとしていた。
「あ、私ももうなんにもないよ」
ぱふっという音がして、私のチョコデニッシュが取り出し口に落ちる。美絵はママレードが塗り込まれた白いパンを一口頬張って、「うん!」と言っている。美味しそうな顔っていいよなあ、と私は思った。
あれ?そういえば幽霊って、もう何も食べられないのかな?でも、お供え物っていうのがあるし…。
私がちょっと考え込んでいると、美絵はちょっと心配そうな顔で、「どうしたの?取らないの?パン」と聞いてきた。ああ、そうだった。
「あ、うん、取る。ちょっと考え事!」
「めずらしいね、涼子が考え事なんて」
そう言ってにまにま笑う美絵に、「もー、さり気なくひどーい」なんて言って、二人で笑っていた。
大学を出てからまだなんとなく美絵とは「お茶しよっか?」なんて言い合っていたけど、私はどうしても家の事が気になって、「うーん、今日は帰る」と言った。すると美絵は急に深刻な顔をして、私の肩に手を置く。
「ねえ。なんかあったでしょ」
「え、な、何も…」
美絵はやれやれと首を振って、耳横の後れ毛をもう一度耳に掛けると、私をきつく見つめる。
「うそ。絶対なんかあった。なんか、大変なことが。それとも、言うのも大変なこと?」
私はその時、一瞬頷きそうになった。まさか、「言えに居る男の子の幽霊と、その子のお母さんを探してあげる約束をしちゃって、どうしようか困ってるの」、なんて、美絵にだって言えない。
信じてもらえたら、絶対止められる。信じてもらえなかったら、もしかしたら友情に亀裂だって入りかねない。それは分からないけど。
私がそう考えて、とりあえずは俯いてしまわないように、必死に美絵を見つめているように頑張っていると、美絵はちょっとため息を吐いて、「そっかあー」と言った。
顔を上げた美絵は、「私の家でいい?」と私に聞き、私はそれに、ただ頷いた。
「いやうっそでしょそんなん!」
「ほんとなのおー!絶対に本当ー!」
美絵と私は、美絵のアパートの部屋で、クッションを敷いて白いスクエアテーブルを挟み、必死に叫び合った。
「ありえないありえないありえないって!」
「あったんだもーん!」
話が終わるまでは黙っていてくれる美絵だけど、聴いている間に思っていた事を、その後爆発させるように叫ぶ癖が、美絵にはある。
ああ、やっぱりすんなり信じてもらえるわけない、よね…。
「疲れてる時に遭うもんだってよ?金縛りって」
「金縛りじゃないじゃん!実際に喋ってるし!ね!美絵!私、嘘とか冗談でこんな…」
私はそこで、大声で泣いて床の上を転がる良一君の姿を思い出す。
「嘘でも、こんな悲しい話、いやだよ…!」
そう言った時、自然と涙が流れてきた。それを見て美絵の顔が急に真剣に、険しくなった。
「ほんと…なの…?夢とかじゃ…」
急に身近にそんな話が現れた人って、こんなに怖がるんだな、と私は思った。美絵は、怖そうにちょっと手を宙に浮かせている。
仕方ないよね、普通、幽霊って怖いもん。
「夢、じゃ、ないと思う…。もしかしたら本当にただの夢かもしれない。でも、幽霊が居た痕跡がこれですなんて私には言えないし、本当に現実だったって感覚だけで、でも…とりあえず、私の嘘じゃないよ」
そう言って私は美絵にちょっと微笑む。美絵は、私が怖がっていないというのは分かってくれたけど、やっぱりちょっと訝し気に私を見つめた。
「それは分かったけど…でもさ…涼子、あんた…怖くないの…?」
私は良一君の姿と、初めて彼を見つけた時の感覚を思い出す。怖かったなあ、と懐かしく振り返っている。
「怖かったよ、びっくりした」
「いやうそでしょ!?今全然怖そうじゃないもん!なんで落ち着いてんのよそんなに!」
美絵の口癖は「いやうそでしょ」、だ。
私は、なんだか美絵が私の代わりに驚いたり怖がったりしているようで、おかしくて笑ってしまった。
「なんで美絵の方が怖そうなの!」
そう言って私が笑うと、美絵は「だって幽霊だよ!?普通怖いでしょ!」と、またも怖がる。
私たちはしばらく笑っていたけど、「これだけは言わなくちゃ」と思って、美絵をちょっと見つめた。
美絵も、私の気持ちは分かってくれたみたいで、黙って私の言葉を待っている。
「大丈夫。私、無理もしないし、無茶もしない」
そう言うと美絵は急に脱力したようにテーブルに突っ伏した。
「幽霊と喋るって…けっこうな無茶よね?」
そう言って顔だけこちらに向けてぐったりとテーブルにもたれる美絵に、私は平気な顔で、「そうかも」と答えた。
Continue.
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