第5話 私が逃げた日
「それで…お母さんの名前は?」
私はその日も深夜にダイニングに居た。目の前には半透明の良一君。少しもじもじとしてから、良一君は質問に答える。
「葛悦子…」
私はそれをノートの青い罫線の間に、赤いペンで書き取った。良一君はそれを恥ずかしそうに、そしてどこか気まずそうに見ていた。
もしかしたら、自分の大切なお母さんの事を、赤の他人の私に知らせるのは、抵抗があったのかもしれない。私は良一君に、ちょっと済まないなという気持ちで笑う。そうしたら良一君も、ちょっと笑ってくれた。
「それで、今お母さんは何歳かな?」
「うーんと…」
そこで良一君は迷っていたが、やがて、「僕が死んだ時は三十七歳、だった…」
「わかった」
私はそれを、今度は三色ボールペンの内、青色を使って書き留める。
「お母さんの出身地って分かる?」
そこで良一君は黙り込んでしまった。唇に指を挟むように当てて、しばらく考えていたようだけど、「分からない、聞いた事ないんだ…」と、横を向いて俯いてしまった。
「そっか…ん、でも八年前に三十七歳ってことは、今は四十五歳よね。あ、そうだ!誕生日は?」
すると良一君はぱっと顔を上げて笑顔になった。
「えっとね、八月二十三日!」
私はそれも急いでノートに書いて、「よし!」と頷く。良一君は、まだ不安げだった。だから私は、得意満面、といった顔をしてみせる。
「これで充分よ!名前と、年齢、誕生日が同じ人なんてほとんど居ないし、良一君の苗字は私も聞いたことがないくらいめずらしいもの!見つかる!」
「ほんと!?」
「うん!」
そして私はその夜明け前も、良一君と少し話していたらすごく眠くなってしまったので、「ごめんね、もう寝るから、おやすみ」と言って、寝室に戻った。
本当は良一君のために寝室に客用の布団を出したりしたいんだけど、どうやら良一君は眠くはならず、そして布団の上に寝転んでもすり抜けて体は床についてしまうだろうみたいな事を言っていた。
「眠気はないから、暇だけど、辛くはないよ」、とも言っていた。体が無いというのはいろいろ大変だ。そう言った時の良一君は、どこか寂し気だった。
私は布団に横になり、目を閉じる。「朝になったら、人探しの方法を考えなくっちゃ…」。そう考える間もなく、私は一気に眠りの深みへと落ちていった。
私の部屋は角部屋なので、寝室にも窓がある。だから遮光カーテンを買わなければいけなかったし、それでも隙間から漏れ出てくる朝日に、私はいつも起こされる。
「う、ん…眠い…」
瞼を急かす陽の光に負けて私が目を開けると、ぐったりと疲れていてあまり起き上がる気になれないのが分かった。うーん、眠すぎる。
やっぱり変な時間に起きると、睡眠が足りないのかなあ。最近では「断続的な睡眠は、睡眠の質を低下させる」なんていう説があるのも、この間Twistでシェアされた記事の見出しで読んだし。記事の中身は読んでないけど。
私はしばらく布団でうだうだしていたけど、お腹が空いたので台所で食事をした。なんだかすごく眠くて疲れていたので、シリアルに牛乳をかけたものだけ。
今日の大学の講義は午後の2コマしか無いので、人探しの方法をたっぷり調べる事が出来る。私はシリアルを食べた食器をシンクに置いて、寝室からノートパソコンを持ってきた。
私は、「そんなに上手くいくはずはない」という事だけは分かっていたので、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出してパソコンの脇に置く。長期戦に向けてのエネルギー補給は大切だ。
でも、私はもっと難しい問題にぶち当たる事になった。
ウェブブラウザを開いて「人探し」と検索バーに入力して調べると、案の定、探偵事務所のホームページがずらっと並んだ。それから、ちらほらと質問投稿サイトで同じく人探しの方法を聞く質問に、回答が載っているページもあった。
まず、お金を掛けることは出来ない。私は大学生で、アルバイトも木曜日から日曜日までしかしていない。二年生になってやっと少しだけ余裕が出来たから、最近お金を稼ぎ始めたばかりなのだ。
「探偵事務所は、無理…」
それに、もしお金があったとしても、「見知らぬ他人を探しています」と言ったら、いくら探せる術を持っている人でも、「そんな頼みは受けられない」と突っ返すに決まってる。
「幽霊に頼まれて」なんて言ったら、不審者と思われてもおかしくない。
だったら、全部自力で、一人で貫徹するしか方法は無い。私は質問投稿サイトの回答を片っ端から閲覧した。そしてまた問題にぶつかった。
一つは、「人探しをする人が、どんな動機で探しているのかはっきりとは分からないから、ほとんど誰も方法を授けようとはしてくれない事」。
そりゃそうだ。だって極端な言い方をすれば、殺すために探す人だって居るかもしれないんだもの。
それから二つ目。「大体の人が居なくなった知人や家族を探しているので、私よりたくさんの情報を持っている事」。
私の手元には、「そういう人がこの世に居る」というのを理解出来るくらいの情報しか無い。
「あっ!」
私は困り果てて大きく伸びをしていたが、天井に向かって叫んだ。そうだ!そうよ!
私はノートパソコンをそのまま閉じて、パソコンの横に置いていたスマートフォンを手に取る。そして、私が持っている全てのSNSのアプリケーションに、「葛悦子」、「Kuzu_Etsuko」、「kuzu Etsuko」…と、思いつく限りの表記で、良一君のお母さんのSNSのアカウントを探した。
結果は、何も無し。
そりゃそうだ。こんなに珍しい、真っ先に個人を特定される名前の人が、本名でSNSなんかやるはずない。危険だもの。
その他の方法と言えば…、と、私はまだ残っているやる気で考えた。
「区役所で住民票を調べてもらう」…いや、そんなのどう考えても無理でしょ。なんの権限も無い、赤の他人に、一番大事な個人情報が平気で渡される国だったら、私だって国外逃亡するよ。
私はもう気持ちがしぼみ切っていて、「なんてことを約束しちゃったんだろう」と後悔した。
「きっと見つかる」と私が言った時に、嬉しそうに笑った良一君の顔を思い出す。
ああ、私ってほんとに馬鹿だな。
どうしよう。今晩、良一君になんて言おう。
でも、私はまだ、完全には諦めていなかった。
「…うん、僕、その時見てたから…」
良一君は、私が「ごめん…ちょっと、難しい事かもしれないの…」と言った時、また私を驚かせた。
「えっ…?見てた…?」
「うん、僕大体台所にいるから、お姉ちゃんが何してるのかは、いつも見えるよ」
良一君は俯いて、少し申し訳なさそうに、唇だけで少し微笑む。
「えっ…」
そうだった。良一君は夜にしか存在しないんじゃない。ずっと居るけど、私には真夜中を過ぎないと見えないだけなんだ!
じゃあ、私が一時間もせずに諦めた事も、その後はぼーっとスマホをいじっていて、パソコンは閉じたままで、大学で講義を受けに出かけたのも、全部見てたんだ。
じゃあ、これはちゃんと言わなくちゃ。
「ごめんね…すぐに諦めちゃったこと…でもね、私は、本当に完全に諦めたわけじゃないの」
すると良一君はちょっと眉を寄せて唇を尖らせる。不満そうに。
「だって、まだ「万策尽きたこと」が分かったわけじゃないし、日本は狭いもの。何かのタイミングで見つけられることだってある」
「…無理だよ…僕だってお姉ちゃんが探してるの、後ろから見てたけど、「ああ、絶対無理だな」ってことくらい、分かったよ…」
「良一君」
私はまた、良一君と初めて会った時のように、勇気が湧いてきた。追い詰められた時の底力かもしれない。
「「絶対」なんてないと私は思う。「確かに見つかる」なんて言えないけど、「絶対見つからない」なんてことも、多分、ない…と思う」
でも、私がそう言っても良一君は、今度は元気を出してくれなかった。
「お姉ちゃん…自分が死ぬことはもう止められないんだなって感じたこと、ないよね」
私はそれを聞いて、言葉を失う。良一君はぽろっと涙をこぼして、それを片手で慌てて隠し、膝を抱えて下を向く。
「僕だって…僕だって生きたかった…でも、もうそれは無理だった…その時に分かったんだよ…」
ああ、私って、本当に馬鹿だな。
「ごめん、なさい…」
私の声はとても重たく、胸が痛くて、激しい後悔があとからあとから襲ってきて、泣いて震える良一君を見ている事が出来なかった。
きちんと謝る事も、良一君を慰める事も私は出来ずに、泣き続ける良一君を置いて、私は寝室に帰った。
翌朝、私は台所に出ると、今も目に見えない良一君が泣いているような気がして、それか私を強く責めているような気がして、苦しくて、切なくて、顔を上げられないまま突っ立って泣いた。
食事をしてからシャワーを浴びて、髪をドライヤーで乾かして、台所にまた戻った時に、何気なくテーブルの上にある卓上カレンダーの日付を見て、私は急に思い出した。
そういえば、明日はお父さんの誕生日だ!どうしよう。プレゼント選ぶの忘れてた!
良一君と出会う前の日には、「明日はお父さんのプレゼントを買いに行って、宅配で送ろう」と思ってたのに!
そう思いながら、ちら、と台所を見渡して、私は俯く。
「これを機に、一日だけ家に帰ってしまおうか。良一君と、一日だけ顔を合わせるのを休もうか」、と私は思ったのだ。
我ながら、なんて情けなく、薄情で、軽薄なんだと思った。
「でも、一日休むだけなら…」。そう思って、私はその晩良一君に、「明日はお父さんの誕生日で、プレゼントを用意してなかったから、一日だけ、顔を見せに行きたいの…」と言った。
良一君は、「いいよ。それに、僕に許可取らなくても大丈夫だって」、と笑った。その笑顔は、痛々しかった。
私は謝りたかったのにそれが出来ず、間に合わせみたいに口を開いた。
「お母さんと旅行とか行ったことある?」
突然聞かれた事に良一君は少し悩んでいたが、やがて良一君の目はちょっと下を向いて宙に浮き、懐かしそうに微笑む。
「そうだね…一回だけ、おばあちゃんちに行った。でもそのすぐあとでおばあちゃん、死んじゃったから…僕はまだ五歳くらいだったし、もう町の名前も覚えてない。大きな川のそばを散歩したのだけ、覚えてるかな…おばあちゃんが亡くなってからは、お母さんは連れて行ってくれなかったけど…」
「そうなんだ…」
私は、良一君に、「一日で帰るから、待っててね」と言い、良一君は「ん、待ってる」と言って、その晩別れた。
実家に帰った私に何が待ち受けているのか、私はその時、まだ知らなかった。
Continue.
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