ch.7 海龍神と、パチャラの片目
それは黒い滝だった。正確には、黒い鱗の上をとてつもない量の海水が流れ落ちていく滝。
海から突き出たその玉体は途方もなく大きい。
巨大という言葉すら間に合わないサイズの龍がこの世に二匹。<黄金の王>アララファルと、その弟にして黒き海龍神アラコファルである。
アムは顔を見上げようとするだけで首を痛めそうだった。空まで体を伸ばして飛龍の兄を叩きこらしめたという伝説もあながち間違いではなさそうだと思う。
再び海に落ちて今度はトゥトゥの<稲妻号>に拾われたパチャラは、船底で深々と平伏した。
トゥトゥも珍しく這いつくばっている。
流石にこれを目の前にしてはやんちゃなことも言えないのだ。
慌ててアムも倣う。
「ふぁてえ」
さて、と言ったらしい声が頭上から落ちてくる。びりびりと鼓膜が痺れるような音だ。
<稲妻号>が振動し始めたので何事かと伺うと、海が揺れている。
黒海龍が素晴らしい速度でその身を沈めているらしい。
喋りにくいのだろう。
この龍神にアムは一度ならず拝謁したことがあるが、ちょっと独特な抜け感があった。
沈んでいく黒い鱗の傍らで不規則な波が立ち、潮目が乱される。その上をパチャラのカヌーが静々と進んできた。黒龍神がそのように取り計らってくれたようである。海は、彼が創造神から預かったものだ。
パチャラのカヌーが<稲妻号>と並んで静止すると、黒龍神は顔を近づけて慎重に口にくわえたネコを乗せる。
カヌーは飛龍の体重を受け止めても辛うじて浮かんでいた。その手脚は船体から大きくはみ出しているし、どう頑張っても重量オーバーなのだが、それでも浮かんでいるというのは海龍神の力なのだろう。
「さて幼子たちよ、顔を上げるが良い。わが顔はでかいが故に、平伏していても見えるかもしれんがな! はははははは!」
アムは音圧だけでぺちゃんこにされるかと思う。
ネコの口はセムタムをひと飲みに出来そうだったが、海龍神の口の場合はカヌーを二艘並べても平気で飲めそうであった。
「あなた、顔より先に声が大きゅうございます」
「おっ、なっ、そうか」
優し気な女性の声に諫められて、海龍神の音量が一段階ほど小さくなる。それでもじゅうぶん大きいのだけれど。
海龍神アラコファルと、そのブレーキ役にして妻の女神マウメヌハヌ。ふたりは何処へ行くにも一緒である。
さっきみたいに夫が突進するときに妻はどうしがみついているのだろう、とアムはいつも疑問に思うのだが、神様にぶつけるには失礼な質問である気もするので黙っているのだった。
アムと目線が合うと、夫の頬飾りの上にちょこんと座った女神が気さくに手をふって寄越す。
カヌーの上では、ネコがよろりと体を起こしていた。
翼は濡れそぼって開かない。内臓にダメージを受けているという体を脚は支えること叶わず、すぐに「伏せ」の姿勢になってしまった。目だけがぎょろりと動いて、憎々しさの棘を含みパチャラを見ている。
咳払いするように海龍神が喉を鳴らすと、圧を受けたカヌーの節々が鋭く共鳴した。
「わしは何を隠そう、この儀の監督役である。海の底からすべて見ておったぞ。まずはパチャラよ、パチャラ・トライカナシ。天晴であった」
パチャラは静かに頭を下げる。
「そしてティダリヤ」
ネコ、本名ティダリヤがごぼごぼと血を含んだ息で応えた。
「誇り高き飛龍ともあろうものが左様に恨めしい顔をするでない。負けは負けじゃ。潔うせい。――それで終わりにしたいところじゃがな、そうもいかぬわ。困った困った」
「困った」
アムは思わずおうむ返しに言ってしまい、慌てて目を伏せる。
「アム・セパア。不思議か。直答してよいぞ」
「あの……、不思議です。<龍挑みの儀>は決着で完結するものだと伺っておりましたので」
「左様、普通はな。此度はセムタムの勝ちと見えておる。なれど、分かっておるな、パチャラよ。小さき海の子」
「わかっております」
指名されたパチャラはゆらりと立ち上がった。
「私は恥ずべき振る舞いをいたしました。奇襲などと」
舳先への数歩を堂々と歩いて行く。
そして、
「どうかお召しください。されど、他のものは……」
「うむ。それはお主のみの咎である」
軽やかに振り返ったパチャラと目が会い、アムは咄嗟にその前に飛び出そうとした。
すかさずトゥトゥに抑えられる。
「ありがとう」
パチャラは言って、笑った。
この上なく幸せそうな、思い残すことは何一つないという笑い。
それが太陽に縁取られて輝き、アムに向けられている。
「尊き<海龍の長>よ。ひとときだけ時をいただけませんか」
「善い善い」
パチャラは視線を移し、カヌーの上に寝そべる飛龍を見た。
ティダリヤはあくまでも睨み返す。
「許せとは言わない。ただ、すまなかった」
滑らかにパチャラの手が上がった。そこには小刀が握られている。
「これは、我が恥の報い!」
陽光がきらりと刃に反射し、そして、一気に振り下ろされた。
アムは悲鳴を上げようとして懸命に喉にとどめる。
振り下ろした一刀は、パチャラの顔面に赤い筋をつけていた。額から左目を通過して頬まで縦一文字に。
赤い血を滴らせた刃を握るパチャラの手はがくがくと震えていた。体全体が糸で釣られた人形のように揺れ始めて、それでも踏ん張ったパチャラが絶えそうな息の合間から言う。
「尊き海龍神。禊は終わった」
返答は、遙かなる轟きとなって返ってきた。
海が笑った、とアムは感じる。どうどうどう――という海鳴りが。
「善哉!」
喉をのけぞらせて海龍神が言った。
「善哉、善哉、これは快事である。わしは胆力を愛する龍であるぞ、幼子よ」
すとん、とパチャラが膝を折る。
アムは耳を塞いでいた。それでも体にじんじんと響く。むしろ体の内側にスピーカーがあって、そこから大音量の放送を流されている気がした。
「ねえあなた。声が大きいんですってば」
「大きくもなろうぞマウよ、斯様に見せつけられてはの。滾るであろう!」
「もう……。手早くおすましくださいな。いとし子たちが死んでしまいますわ」
「何ィ」
「あなた様のようなデカブツではないんですもの、あれっぽっちの血でも魂が抜けてしまうのですよ」
「それはいかん、いかんぞ。ちょっと待て幼子ども。振り絞るから待っておれ。うぬ、ええい」
海龍神が頭を振り回すと、そこから虹色に輝く液体が降ってきた。
豪雨の水量でカヌーに降り注いだそれを浴びてアムもパチャラもティダリヤもずぶ濡れになり、トゥトゥは、
「沈む! カヌーが沈むからやめろ!」
と怒鳴っているところに顔面から浴びて余計に怒る。
龍神から降り注いだ虹色の雨が止むと、アムの痺れるようだった肘の痛みが綺麗さっぱり無くなって、ついでに青あざも消えていることに気付いた。
「まさか」
海龍神アラコファルは<生命>そのものの象徴。
振り絞るから待っておれ。
はっと視線を向けると、自分の顔を慎重に撫でていたパチャラもアムを見た。
パチャラが左顔面に宛てた手をそろりと下ろす。
「治って……ないじゃない」
アムは落胆した。縦一文字の痛々しい刀傷は確かに塞がってはいるものの、左目は閉じられたまま。
「いい。望んだから」
「傷を残すことを……?」
パチャラはつむじ風のようにくるりと回って立ち上がり、高みにまします黒い海龍神に向かって深々と拝礼をした。
羽ばたきの音が聞こえたので横を見ると、ティダリヤが宙に浮かんでいる。その左目もまた潰れたままであった。
「どうして」
アムが独りごちると、その巨躯に似合わぬほど耳が良いらしい海龍神が笑う。
「ははは、幼子よ。何と怪訝な顔をしておるな。わしにはわかるぞ。感覚がずれておる故に理解できんというやつだな。ずばりだろう。そうだろう。わしも良くマウに叱られるでな!」
「あなた、今まさにずれました」
「何ィ。何だ。どの辺がだ」
夫の戸惑いは無視してマウメヌハヌ妃は、
「目を治さなかったことが不思議なんでしょ、ドクター・アム、我がいとし子」
「は、はい」
いとし子などと言われてアムはどぎまぎした。
セムタムの祖先は彼女から産まれたのかもしれないが、アムは似非セムタムである。汎銀河系からやってきて、セムタム族の<成人の儀>をクリアすることでセムタムの一員だと認めてもらっただけなのだ。
それを、かの女神はいとし子と言う。
「パチャラ、ティダリヤ。自らの口で説明してごらんなさい」
アムはパチャラと龍の顔を交互に見た。
ふたり――ひとりと一匹の方が正確だろうか――はお互いに視線を交わしている。しかし、その視線はアムが想像していたよりもずっと穏やかだ。火花が散るようなものではなく、お互いに距離感を探り合っているという程度の緊張があるだけである。
さっきまで殺す殺さないって言ってたのに、とアムは不思議に思った。
海龍神夫妻に毒気を抜かれてしまったのだろうか。
先に口を開いたのはティダリヤだった。
「そもそも、儂が不正をしている。今思えば恥ずべきことだった。あの小僧めをからかうのが面白かったあまりに我が同胞を縊り殺した。そして」
ティダリヤの顔が、悔しそうに歪められる。
龍の表情筋がヒトと同じなのであれば、それは怒っているのではなく、ただ悲しいというだけの顔であった。
「そして、この娘を侮った」
「そして、私は怒りのあまりに奇襲などと恥ずべきことをした」
ティダリヤの言葉の後に、ごく自然な調子でパチャラの言葉が続いたことにアムは驚く。
「善哉、善哉」
海龍神が楽しそうに喉を鳴らすと、波が起ってカヌーを上下に激しく揺らした。
バランスを崩したパチャラの体を大きな肉球付きの前脚がぎごちなく支える。
「重畳なり! これより主らはともに恥辱を身に刻む真の兄弟である。危急に際しては助け合い、知恵が足りぬ時は分かち合うべし。その目の傷は、いつか慈愛をもって互いに認め合えた時には癒えるであろう。よいな」
海龍神はそのように、厳かに告げた。
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